シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

89年 パリ祭

「原点回帰と革新のパリ祭ー89年パリ祭ー」

ある方からのご厚意で、パリ祭の映像を数本見る機会に恵まれた。かつてテレビ放送されてものを録画した映像だが、今では大変貴重な資料である。
今回は、1989年(平成元年)のパリ祭を紹介したい。この年はフランス革命200年の年であり、日本はバブルの真っ只中だったため、フランス旅行をする日本人が増えた時期である。全国にシャンソニエが乱立した第二次シャンソンブームが起こったのも、この頃だ。また前年には、石井好子がシャルル・デュモンのリサイタルのゲストとして、日本人でははじめてパリのオランピア劇場で歌っている。日本人とフランスの距離感がある意味近づいた時期に催されたのが、このパリ祭なのである。
映像を見ると、このパリ祭が、初期のパリ祭のスタイルに原点回帰し、かつ新たな革新をもたらしたステージであったことが伺える。

89年パリ祭
会場 五反田ゆうぽうと
演奏 岩間南平カルテット
司会 青木健一

リーヌ・ルノー「ラ・マルセイユーズ」
池田かず子「街に歌が流れていた」
瀬間千恵「水に流して」
高英男「小さなひなげしの花のように」
小海智子「愛の幕切れ」
堀内美希「欲望」
深緑夏代「雨のブリュッセル
リーヌ・ルノー
「カナダの私の小屋」
シャンソンメドレー」(ピギャール、パリの空の下、シャッフル、セ・シ・ボン、アイ・ラブ・パリ、薔薇色の人生、セ・マニフィック)
「バイバイ」

サンクオム(青木裕史、伊東はじめ、しますえよしお、広瀬敏郎、村上進)「幸福を売る男」
しますえよしお「声のない恋」
戸川昌子「愛の破局
中原美紗緒「君を待つ」
淡谷のり子「パリの屋根の下」
芦野宏「ア・パリ」
美輪明宏「恋のロシアンキャッフェ」
石井好子「帰り来ぬ青春」
全員「パリ祭」

まず注目したいのは、ゲストとしてフランスのシャンソン歌手、リーヌ・ルノーが出演していることだ。このステージをプロデュースした大庭照子は「フランス革命200年を記念して、日本人とフランス人が一緒に歌うステージを作りたかった」と述べているが、パリ祭にフランスからシャンソン歌手を招くかたちは、初期のパリ祭と同じなのである。代々パリ祭にはイヴェット・ジローやジョセフィン・ベイカーなどがゲスト出演しており、パリ祭の原点は日本人とフランス人が競演するステージであった。このときのパリ祭は、初期の原点回帰した構成だったと言える。

一方で、革新的なのが男性歌手5人グループ「サンクオム」の登場である。サンクオムは、青木裕史、伊東はじめ、しますえよしお、広瀬敏郎、村上進の5人が一緒にシャンソンを歌うという、今までの日本シャンソン史上にないスタイルで結成された。ちなみにこの5人はすでに10年以上のキャリアをつんでおり、プロの歌手同士がグループを組むという点でも極めて珍しいのではないだろうか。サンクオムは、この年の2月にすでにデビューライブを行っており、このパリ祭でリーヌ・ルノーと共演したことがきっかけで、リーヌのパリ公演に招致されることとなる。石井に続いて、フランスのステージに招かれる日本人が新たに創出されたのだ。その後のサンクオムは、数年後に村上が死去したことでグループは解消したが、現在でもサンクオムの存在はパリ祭に引き継がれており、毎年のステージで広瀬、青木、伊東の3人が歌うコーナーが設けられている。

ステージを見ていて貴重と感じたのは、パリ祭に淡谷のり子が出演していたことだ。シャンソン界の大物といえば石井好子が筆頭のように思われるが、彼女の上には淡谷がいたことを思い知らされる。昭和6年あたりから流行歌としてシャンソンを歌い始めた淡谷は、日本にシャンソンを広めた貢献者なのである。今回の淡谷の衣装は黒色のドレス。晩年はピンク色のドレスを着ることが多かっただけに、パリ祭には気合いを入れていたことが伺える。

ちなみに89年パリ祭は、私が生まれる前に催されたもの。自分の生まれる前のシャンソン界を垣間見れたような気がしたひとときであった。

97年 パリ祭

シャンソン歌手以外の人にシャンソンを ー97年 第35回パリ祭ー」

今回は第35回パリ祭(1997年7月10日 東京厚生年金会館大ホール)の映像を観る機会に恵まれたので、レポートしたい。
このときのシャンソン界の状況を見てみると、前年の1996年はベテラン歌手の中原美紗緒が死去し、越路吹雪17回忌にあたる年であった。また越路の17回忌を追悼して「拝啓、越路吹雪様」(画像参照)というトリビュートアルバムが発売された。
以上を踏まえて、当日のセットリストを見てみたい。

「第35回パリ祭」
司会 永六輔 木原光知子

・ 神戸市混声合唱団(北村協一指揮)「谷間に三つの鐘が鳴る」
・ パトリック・ヌジェ「ラ・ジャヴァネーズ」
・ 堀内美希「ミロール」
・ かいやま由起「聞かせてよ愛の言葉を
・ 仲代圭吾「俺はコメディアン」
・ マーサ三宅「帰り来ぬ青春」
・ ピーコ「過ぎ去りし青春の日々」
・ 大木康子「歌い続けて」
・ 新井英一「アムステルダム
・ 新井・石井好子「人の気も知らないで」
・ ペギー葉山シャンソン
       「ドミノ」
・ 石井・マーサ・ペギー「ドリーム」

・ TV JESUS 「サ・セ・パリ~セ・シ・ボン」
・ 坂本スミ子「別れの朝」
       「エル・クンバルチェクロ」
・ 永六輔「黒い花びら」
・ 木原光知子「哀しみのソレアード」
・ 山本リンダ「愛の追憶」
       「パリは不思議」
・ 森光子「恋心」
・ 芦野宏「薔薇色の人生」
     「カナダ旅行」
     「ブン」
・ 石井好子「初日の夜」
      「愛の賛歌」

まず気づくのは、出演者の大半がシャンソン歌手ではないことだ。マーサ三宅ペギー葉山はジャズ、坂本スミ子はラテン、新井英一はフォーク、TV Jesusはロックユニットである。さらに、女優の森光子や司会である永六輔木原光知子まで歌っている。
これは石井好子が長くプロデュースしていた「石井好子シャンソンの夕べ 難民支援コンサート」が由来している。石井は、若い頃にヨーロッパでの生活を通じて難民支援に関心を持っており、彼らを支援するコンサートを毎年開いていた。
このコンサートのコンセプトは、シャンソン歌手以外の人にシャンソンを歌ってもらうというもの。このコンサートがはじめて開かれたのが、このパリ祭の前年の96年と97年の春であった。このパリ祭は、「石井好子シャンソンの夕べ」を踏襲するプログラムなのであり、シャンソンシャンソン界だけに留まらず、広く普及させたいという石井の願いが込められている。

特に注目したいのは、石井・新井「人の気も知らないで」とTV Jesus「サ・セ・パリ~セ・シ・ボン」だ。この2曲は先にのべた「拝啓、越路吹雪様」に収録された曲であり、当時のシャンソン界が他ジャンルと迎合して革新を試みようとしていたことが伺える。特にTV Jesus のボーカル、有近真澄(作詞家・星野哲郎の息子)はロック歌手には珍しい渋い歌声でシャンソンの古典を、その雰囲気を壊さぬようにアレンジして歌っている。彼は、ROLLYやNEROなどのシャンソン界で活躍するロック出身歌手の草分けだと言ってよい。

また注目したいのは、石井、マーサ、ペギーがジャズの「ドリーム」を歌っていることだ。
この曲は石井のエッセイにかならずと言っていいほど引用されており、彼女がシャンソン歌手になる前に日向好子の名前でジャズ歌手をしていたときに大切にしていたレパートリーであった。

心が沈みがちなとき 夢を見ましょう
物事は思い悩むほど
悪い方にばかり ゆくものではないのだから
さあ 夢を見ましょう

この曲を、石井の同時期に活躍したマーサ、後輩のペギーと三人で歌う姿を観ることができるとは思っていなかったので、ファンにとっては嬉しいプログラムである。

ところで今回のパリ祭は、大木康子がカムバックしたステージであった。ピーコが「(大木は)私が長くおっかけをしていた歌手ですが、私がシャンソンを習い始めた頃にステージを降りられました。でも今日は、石井さんのために、とのことで出演していただきました」と述べている。しかしながら、大木がなぜステージを降りたのか、その理由を私は知らない。思えば、私は大木の経歴をあまり詳しく知らないことに気付いた。この記事をご覧になって、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示ください。

月田秀子

南蛮人の叫びを歌う 月田秀子」 

今年亡くなられたファド歌手の月田秀子のアルバムを、先日手に入れた。歌詞カードには自身の柔らかな筆致のサインが記されている。

月田秀子
1951年、東京の下町に生まれる。高校時代に大阪に行き、女優を目指す傍らで、菅美沙緒、出口美保からシャンソンを学ぶ。
1980年、出口の営むシャンソニエ「ベコー」でデビュー。
1987年、アマリア・ロドリゲスのファドを聴いて衝撃を受けて、ポルトガルに留学。ファドを歌う日本人として現地で広く知られ、アマリアからも認められる。
帰国後は日本のファド歌手として活躍した。
2017年6月16日、病没。

私が月田を知ったのは、社会人1年目のとき。アマリア・ロドリゲスの曲を聴いて魅了されて、ファドについて調べた。ファドは、人間の悲哀、哀悼、抑圧、嘆きを主題にしたポルトガルの歌であり、日本では月田秀子という歌手が第一人者で、彼女は最近北海道白老に引っ越してきた、ということであった。シャンソン好きの知り合いの大半が月田のステージを聴いていて、「月田さんのファドは素晴らしいよ」と口を揃えて言った。同じ北海道にいるなら、いつか自分も聴けるかも…と悠長に考えていたら、結局ステージには間に合わなかった。

月田のアルバムの解説を読んでみると、ファドの代表曲である「暗いはしけ」のところに次のように記してあった。
大航海時代に海の藻屑と消えた数知れぬポルトガル人の鎮魂歌に通じる趣がある。」
私は「ポルトガル人」が「南蛮人」であることに、はたと気づいた。航海中に船が沈み、中世の日本に流れ着いた南蛮人たち。故郷であるポルトガルでは、家族や恋人が彼らを思ってファドを歌っていたのだろうか。あるいは、南蛮人たちが故郷に向けてファドを歌っていたのだろうか。そう考えると、私たちにとってファドは決して他国の音楽ではないのである。
日本史のなかには取り上げられない無名の人びとの絶唱が、月田のファドによって再生されているように感じた。

月田がファドに惹かれた根底には、かつて学んでいたシャンソンがあるのではないかと思った。あるサイトには、月田はシャンソンに違和感を感じてファドに転向したと記されていた。しかし、菅、出口という強烈な個性派歌手の指導もとで、月田は何かを得たからこそファドに惹かれたのではないかと私は考える。
月田のシャンソンを聴いてみたい、と思い調べてみるとYouTubeで「時は過ぎて行く」の動画を見つけた。この動画を見て思い出したのは、菅が自身のレコードのなかで述べていた「歌の行き着くところは人間」という言葉であった。月田が、菅と出口から学んだのはシャンソンではなく、人間を歌うということであった。だからこそ、月田は人間の悲哀を歌うファドを選んだのではないだろうか。
歌のなかに生きる人間だけでなく、かつて実在したであろう名もなき人びとの叫びをも甦らせる月田秀子。彼女もまた、菅や出口に並ぶ孤高の歌手であったと言ってよい。

坂東玉三郎

「高踏な情歌 ー坂東玉三郎「枯葉」ー」

昨日、11月7日は、越路吹雪の命日であった。Facebookを見ると、シャンソンファンは各々の思いを抱いて、彼女を偲んでいたようだ。

私は、昨日NHKで放送された「うたコン」という歌番組を観た。歌舞伎役者の坂東玉三郎が、越路を偲んで「枯葉」を歌ったからである。
番組で玉三郎が「枯葉」を歌ったのは、同日に越路のシャンソンをカバーしたアルバムを発売したからである。彼が越路の熱烈なファンであるだけに、アルバムの収録曲はマイナーな曲ばかりで唖然としてしまったが、番組ではよく知られた楽曲を選んだことにひとまず安心した。個人的には「ユーヌ・シャンソン」など聴いてみたかったが、多くの人が越路を偲ぶためにはやはり広く知られた楽曲が放送されるべきである。

玉三郎の歌唱とステージアクトは素晴らしかった。黒のラメが入ったジャケットを着ているのにもかかわらず、玉三郎の身のこなしを見ているうちに、だんだんとそれが豪奢なドレスに見えてくるのは不思議であった。芸歴60年の女形がみせる奥義である。
あと、彼の歌舞伎役者特有の彫りの深い顔は舞台映えする美しさを湛えている。私が思い出したのは、写真でしか見たことがない、シャンソン歌手のダミアの顔だ。顔つきで楽曲の世界観を語る、こういう人は稀である。

玉三郎の歌声は、「高踏」という言葉がふさわしい。彼が番組のロケ地として選んだ横浜の洋館の一室に、あるはずのない大劇場の緋色の緞帳が降りてきそうな錯覚をおこすくらい高尚な雰囲気を醸し出していた。
思えば、日本のシャンソンに「高踏」というイメージが払拭されて久しい。今の日本にあるのは、シャンソンは取っつきにくいというイメージである。しかしながら、玉三郎は「シャンソンは高踏な情歌」だというイメージ、さらに言えば「シャンソンは高踏でなければならない」という信念を抱いているのではないだろうか。彼はきっと今の日本のシャンソン歌手に「高踏」を求めることができないのを知っているだろうし、高踏なシャンソンを歌えるのは自分だけだという自負を抱いているのだと思う。私は彼の歌う姿から、戦時中にもんぺを嫌いドレスを纏った淡谷のり子のような意思の強さを感じずにはいられないのである。

玉三郎の「枯葉」は、普段からシャンソンを聴き流している私でさえ、思わず身じろきしてしまうものであった。現在、多くのシャンソン歌手が次世代にシャンソンを広めていくために、いかにして従来の取っつきにくいイメージを払拭するかを模索しているなかで、彼の歌うシャンソンが糧となるのか毒となるのかを早急に判断することはできない。
しかしながら、越路追悼のはずの一夜が、思いがけず日本のシャンソンの未来を考える一夜になってしまったことは、私にとっても予想外であった。

麻田マモル

「追悼 麻田マモル」

2017年3月8日に亡くなったシャンソン歌手の麻田マモルを取り上げる。

麻田マモル
1951年生まれ。
歌手としてシャンソンやオリジナル曲を歌い、ミュージカルにも出演した。
主に札幌を中心に活動し、すすきのでミュージックバー「Key Point」を経営していた。
晩年は、札幌から東京のシャンソニエであるシャンパーニュ蛙たちに出演し、毎年開かれる「アン・あんどうコレクション」や教え子のステージに立っていたそうだ。
2017年3月8日、病没。

麻田が生前発表したシャンソンのアルバムは「愛、歌、そして人生…」というレコード1枚である。A面は「愛の讃歌」や「ラ・ボエーム」などのよく知られた曲が収められ、B面では当時日本で誰も歌っていない最新のシャンソンが収められている。多分、現在でもレパートリーにしている歌手は少ないであろう曲ばかりだが、「Hey」「さらば恋人」などの佳曲は一聴の価値がある。
ちなみに、B面の曲の訳詞は全てアン・あんどうが行っている。

また今年発売されたアルバム「アン・あんどう訳詞コレクション 赤で感じる」にも、麻田が歌う「さすらい」という曲が収められた(「アン・あんどうコレクション」の音源)。麻田にとってはじめてのCDアルバムではないだろうか?(オーマガドキレコードのオムニバスアルバム「シャンソンでパリの香り」は除く)
晩年の麻田の渋い歌声を聴くことができる貴重な1枚だ。

私は昨年、すすきのの「Key Point」で麻田とお話しさせていただいたときのことを覚えている。画像のレコードは、このとき彼から頂いたものだ。
麻田は私に「東京から沢山のシャンソン歌手をゲストに呼ぶことができる店を、すすきのに作りたい」という夢を語ってくださった。私はそれが実現すると思っていたし、札幌で沢山のシャンソン歌手の歌声が聴けるのを楽しみにしていた。だが、麻田の訃報によって、その夢は潰えてしまった。

私は、麻田やかつて札幌でシャンソンを盛んにしようと尽力した嶋保子のことを思うと、札幌が本州と遠距離であるために、沢山のシャンソンのステージを見ることができない悔しさが沸き上がる。同時に私は、札幌を多くのシャンソン歌手が「行ってみたい!」と思ってもらえるような街にしていかないとならないと考えるのだ。

何の力もない、ただシャンソンが好きだというだけの私にどんなことができるのかは分からないが、麻田をはじめとする亡き人たちの「札幌とシャンソン」への思いは決して無駄にしたくない。
彼らの思いを、私がシャンソンと向き合うための灯火として、これからも抱き続けたいと思っている。

山本四郎

「紳士的歌声 山本四郎」

日本のシャンソン史を調べていると、今では名前を聞くことがあまりないが、かつて素晴らしい才能を持った歌手が沢山いたことを知り嬉しくなる。山本四郎もそのひとりだ。

山本は、東京出身。昭和28年に武蔵野音大を卒業し、同年にNHKの専属歌手となる。
その後、北村維章(当時、日本で最大級のシャンソンとタンゴの楽団だった東京シンフォニックタンゴオーケストラを主宰したピアニスト)と大阪労音ポピューラー例会に出演したことで広く知られることとなる。
昭和32年には、NHKの専属歌手を辞めてシャンソン歌手に転身する。銀巴里には、閉店まで専属歌手をつとめた。
現在は、ステージを離れたがご健在とのことだ。

山本の歌声は、甘く上品で紳士的な印象である。またYouTubeにアップされている銀巴里閉店ライブの映像を見ると、きらびやかな衣装を纏って甘い歌声でシャンソンを歌う山本は、セクシーだと言っても過言ではないくらい蠱惑的だ。

私が持っている山本の音源は3枚。
「Chanson de Ginparis73」は、銀巴里の専属歌手が渋谷公会堂に集まってコンサートした際の実況録音盤。山本は「雪が降る」「夢を破らないで」を歌っている。
「あたんどぅる」は山本のミニアルバム。曲目を見ると、戦前のシャンソンを中心に歌っている。
シャンソン・ド・銀巴里」は銀巴里の専属歌手のスタジオ録音盤。山本は「あなたなしでは」を吹き込んでいる。
こうして見ると、山本は戦前のシャンソンからアダモやアズナブールなどの当時新しかったシャンソンまで多くの曲を得意にしていたことがわかる。
ぜひとも生で聴いてみたかったと思うし、山本四郎全曲集を作ってほしい、いっそのことおごがましいが作りたいと思う魅力的な歌手である。
機会があれば、ぜひ聴いていただきたい。

追記
山本四郎氏は、平成30年7月2日に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

橘薫

「瓶詰の砂糖菓子 其の名、わすれな草ー橘薫ー」
日本で最初のシャンソンの専門歌手として知られている橘薫のレコードを手にいれたので紹介したい。

橘薫は、明治45年に北海道八雲町で生まれた。
のちに宝塚少女歌劇団に入った橘(エッチン)は、男役の三浦時子(タッチン)と共にエッチン・タッチンコンビとして戦前の宝塚を支えた。
ちなみに宝塚のシンボル曲「すみれの花咲く頃」は、レビュー「パリゼット」でエッチン・タッチンによってはじめて歌われた。
宝塚を引退し、戦後はシャンソンを専門に歌う歌手として活躍する。
宝塚OBがシャンソン歌手に転向する流れを作ったのは彼女が最初である。
昭和38年、病没。

橘の代表曲として知られるのは、「シラミの歌」(岩谷時子詞 松井八郎曲)という、和製シャンソンである。
「シュールアミ(愛する人)」と「シラミー」をもじった曲で(座談会「シャンソンブームの1960年代」における高英男の発言より)、橘はこの曲を歌うとき薄汚れたバガボンドの格好をしたという。
橘は、シャンソンを歌うときはドレスアップをする、というイメージを覆した人でもあるのだ。
しかしながら、現在のシャンソン界には橘のような役者肌の歌手は皆無であると言っていい。
作詞者の岩谷時子は、橘から作詞の以来を受けて、「パリの一人のバガボンドが自分の体に染み付いているシラミに、お前こそ私の寂しさをわかってくれるたった一人の兄弟だと、シラミに話しかける物語の歌」を作ったという。 
岩谷は、「愛する人」という歌を、孤独がテーマの歌に変えるように要求した橘の「心のなかがわかるような気がした」と述べている。
しかしながら、この曲の音源を私は一度も聴いたことがない。
このレコードにも収められていなかった。
楽譜などは、残っているのだろうか?
日本シャンソン館に資料が残ってたりするのだろうか?
情報を御存じの方がいれば教えていただきたい。

橘は後輩の育成にも力をいれた。
最も有名なのが美輪明宏だ。
橘が美輪と出会ったのは、昭和27年に都内の喫茶店で開かれた早稲田の学生主催のシャンソンの会だった。
早稲田の学生が橘の前座に歌わせようと連れてきたのが美輪であった。
以前、シャンソン歌手の川島弘のブログで、その会のプログラムの画像を見たことがあったが、美輪は渡辺臣吾という名前で出演していた。
美輪は当時勤めていたゲイバーでのショーのスタイルそのままに、メイキャップを施して歌ったという。
その美声に注目した橘は、「あなた、なかなかやるじゃない。あたしゃ食われちゃうかもね」と言って、歌唱指導を引き受ける。
そして、タンゴのバンドマスターであった原孝太郎に紹介状を書く。
その原が当時勤めていたキャバレーが、「銀巴里」である。
日本シャンソン界の権化、美輪明宏は橘によって誕生したと言ってよい。

「わすれな草」は、シャンソン界に偉大な足跡を残した橘の追悼アルバムである。
ソノシート2枚で、4曲が収められている
「ル ブランタン」
「ハウ ドゥ ユー ドゥー」
「ラブレター」
「ミュージカル見上げてごらん夜の星を 劇中歌」
前半2曲は宝塚時代のエッチン・タッチンの曲、後半は晩年の曲
フランスのシャンソンは1曲もなく、すべて和製シャンソンである
この4曲から橘の歌手としての生涯を振り返られるが、年を重ねても少女らしさを残した歌い方をしていたようだ
宝塚のイメージを崩さないためなのか、まさに瓶詰の砂糖菓子のように、自身の少女性を厳重に守っている印象であった。
私は当初、越路吹雪や深緑夏代のように年齢を重ねていくとともに歌い方を変えていったのだろうと推測していただけに、正直聴いたあとは違和感が残った。

このレコードには、シャンソン評論家の蘆原英了の解説が収録されており、その声を聴くことが出きる
かつて、シャンソンのラジオ番組を持ち、フランスからシャンソン歌手が来日したときは公演の司会をした蘆原だが、その話し方は滑舌が悪く、お世辞にも上手いしゃべりとは言えない
レコードに収録されているのは和製シャンソンであるし、どうせなら歌詞カードに追悼文を載せている中村メイコに語ってもらいたかったと思う

画像は、レコード「わすれな草」のジャケット、「シラミ」を歌う橘薫