シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

シャンソンマガジン 2021年冬号

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シャンソンマガジン 2021年冬号」が発売されました。
この度「イヴ・モンタン特集」に、拙いながら寄稿いたしました。お力添えくださった方々に、厚く御礼申し上げます。

「PACIENCIAーイヴ・モンタンの生涯」

モンタンのアーティストとしての生涯と政治的言動について振り返りました。御高覧頂ければ幸いです。

ライブレポートのページには、伊東はじめ様の55周年コンサート、広瀬敏郎様の50周年コンサートが取り上げられておりました。シャンソンへの情熱を抱き続けてご活躍されているお二人に感激いたしました。
またピアニストの故・前田憲男様のマネージャーでいらっしゃった田中聖健様のインタビュー記事も素晴らしく、その美しい生き方に心打たれました。

♪「シャンソンマガジン」は、シャンソンに関する誌面に特化した、定期購読誌です。

モン・パパ

ジョルジュ・ミルトンをめぐる冒険《上》
☆「モン・パパ」巴合戦

いまではすっかり忘れ去られているが、戦前の日本でフランスの男性シャンソン歌手、ジョルジュ・ミルトン(Georges Milton)が、大変な人気だったことがある。

ミルトンは、1886年(明治19年)フランス生まれ。第一次世界大戦後、歌手として成功し、やがてオペレッタ(オペラとミュージカルの中間のような音楽劇)の役者として活動した。
そんな彼は、喜劇映画に進出する。映画のなかで彼は「ブーブール(Bouboule)」という役を得て、彼を主人公にした連作映画がヒットした。
第二次世界大戦後に引退し、1970年(昭和45年)没。

ミルトン演じるブーブールシリーズの映画は、戦前日本でも上映され、大変な人気だったようだ。
今回取り上げるのは、フランスで1930年公開の「巴里っ子(Le roi des Resquilleurs=タダ見の王様)」である。この作品は、翌年の昭和6年に日本で公開された。

この映画のあらすじを解説する。
いつもスポーツの試合を「タダ見」するミルトン演じるブーブールが、会場で知り合った娘ルルと恋仲になり、デートでラグビーの試合会場に潜り込む。しかし、ブーブールが座ったのは選手席で、彼は試合に出場し勝利して、フランスの英雄となり、ルルと結ばれ、晴れて「タダ見の王様」になるという、サクセスストーリーだ。

この映画のなかで、ミルトンは2曲のシャンソンを歌っている。

「J'ai ma combine」(僕には悪知恵がある)
「C'est pour mom Papa」(私のパパのために)

そして、これらの楽曲に目をつけたのが、宝塚歌劇団であった。

宝塚歌劇団は、昭和2年にレビュー「吾が巴里よ」で「モン・パリ(Mon Paris)」、昭和5年にはレビュー「パリ・ゼット」で「すみれの花咲く頃(Quand refleuriront les lilas blanc)」などのシャンソンを取り上げ、流行らせていた。
当時の宝塚は、日本でシャンソンを紹介する役割を担っていたのである。

昭和6年10月に宝塚歌劇団が上演したのは、レビュー「ローズ・パリ」。
これは、フランスを舞台にした男女の恋愛物で、宝塚にとってはじめての恋愛劇であった。現在に至るまで、恋愛劇が宝塚の演目の主軸となったのは、この作品がきっかけであった。

この作品のあらすじも紹介したい。フランスの田舎で数学教師をしているポールは歌手を夢見て、恋人フロッシーを置いてパリに行く。しかし、ポールはスター女優のクララに恋をして振られ、さらにそれを田舎から様子を見に来たフロッシーにも知られてしまう。
その後、ポールは落ちぶれるが、フロッシーは田舎に帰らずにパリでスター歌手として活躍していた。それを知ったポールは、フロッシーと再開して結ばれるというストーリーである。

このレビューのなかで、さきほどのミルトンの楽曲「C'est pour mom Papa」が歌われている。
日本語のタイトルは、「モン・パパ」。
劇中では、ポールの姉夫妻が歌ったが、ストーリーとは何も関係のない楽曲である。

うちのパパと うちのママが話すとき
大きな声で怒鳴るは いつもママ
小さな声で謝るのは いつもパパ
古い時計 いつもパパ
大きいダイヤモンド それはママ
パパの大きなものは一つ
靴下の破れ穴
(白井鐵造訳)

この楽曲は、劇中は大町かな子という人が歌っているが、同年にポリドール・レコードから発売されたレコードは、娘役のスターだった三浦時子が吹き込んでいる。

「モン・パパ」は、映画「巴里っ子」の人気もあり、ヒット曲となった。しかしながら、これに黙ってなかったのが、レコード会社である。

昭和7年、ビクターレコードより「モン・パパ」のレコードが発売された。
吹き込んだのは、喜劇役者の「エノケン」こと榎本健一、流行歌手の二村定一のデュエットであった。ちなみに二村は、フランク永井君恋し」の創唱者である。
B面には、もうひとつのミルトンの楽曲「J'ai ma combine(僕には悪知恵がある)」を、榎本が「のんき大将」というタイトルで吹き込んでいる。
そして、宝塚を押さえて、榎本と二村のバージョンが大ヒットしてしまったのである。

うちのパパとうちのママと喧嘩して
大きな声で怒鳴るは いつもママ
いやな声で謝るのは いつもパパ
うちのパパ 毎晩遅い
うちのママ ヒステリー
暴れて怒鳴るは いつもママ
はげ頭下げるは いつもパパ
(訳詞者不詳)

宝塚の「モン・パパ」を踏襲しつつ、どきつい表現が満載の歌詞になっている。リアリティーのある夫と妻の関係を、あられのない言葉で歌い、楽しいホームソングとしてしまったのは、コメディアンの榎本の技量であろう。

そして、この「モン・パパ」は、他のレコード会社からもレコードが発売された。昭和6~7年頃には、名古屋のツルレコードより永井智子「モンパパ」×黒田進「恋の巴里っ子(僕には悪知恵がある)」が、昭和8年にはポリドールレコードより、天野喜久代「モン・パパ」×佐久間武「恋の巴里っ子」のレコードが発売されている。

ここから見えてくるのは、「モン・パパ」をもって、日本にシャンソンを紹介する役割は、宝塚歌劇団から大手レコード会社に代わったということである。
「モン・パパ」は、戦前日本のシャンソンの発信元の転換期を知ることができるキーポイント的楽曲だと言えるだろう。

そして、その後のミルトンはもうひとつ、戦前日本のシャンソン史にポイントを残していくこととなる。

以下、《下》へ。

越路吹雪の肖像画

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越路吹雪肖像画

昭和31年の雑誌「美術手帖」には、シャンソン評論家の蘆原英了による「シャンソンと画家たち」が連載されている。
内容は、ロートレックが描いたイヴェット・ギルベール、アリスティード・ブリュアンの肖像画、さらにはシャンソンの楽譜の表紙を描いた画家を取り上げている。しかしながら、現在では周知されている内容なので、新鮮味はなかった。
唯一面白かったのは、この年にフランスの大きな画家のグループが「肖像画復権」というテ展覧会を開き、イヴ・モンタンジュリエット・グレコ、ジジ・ジャンメールなどの歌手の肖像画を製作して展示し、莫大な利益を得たという記事だ。いまではポートレートに取って変わられたが、肖像画にメディアとしての価値があった時代が偲ばれる。

ところで、肖像画を描かれた日本のシャンソン歌手はいるのだろうか、と私は考えた。
思い出すのは、越路吹雪である。

日本の一流の画家たちが手掛けた越路の肖像画は、音楽雑誌やコンサートのプログラムにたびたび掲載されていた。それは現在、CDボックス「越路吹雪のすべて」のジャケットで確認できる。

中原淳一宮本三郎小倉遊亀猪熊弦一郎、高野二三男、宇野亜喜良

が描いた越路像がジャケットを彩っている。
こうして見ると、宝塚歌劇団の男役をつとめた人らしく、写真映えならぬ、絵映え(?)が冴えている。

この中で、一番注目したいのは女性日本画家の小倉遊亀の作品である。なぜなら、この肖像画のみが唯一、芸術作品として製作されたからだ。
現に、寝そべっている越路像には「コーちゃんの休日」座っている越路像には「憩う」という題がついている。
小倉は、昭和35年の第45回院展への出品作として越路の肖像画を手掛けることを思いつき、越路にモデルの依頼をした。小倉が描いたのは、ステージでの越路ではなく、プライベート姿の越路であった。浴衣にへこ帯姿の越路が、リラックスした様子が描写されている。
しかしながら、越路の目は金色に塗られている。これは、能楽の能面に見られる泥眼(でいがん)という手法で、鬼などの人間ではないキャラクターを表すときに用いられる。
つまり、小倉は越路に泥眼を施すことで、プライベートでくつろぐなかにも鋭く光る、越路のスター性を表現したのだ。それを読み取ると、背景の朱も相まって、絵画の凄みが増してくる。

だが越路の肖像画は、小倉のも含めて、ロートレックが描いた「赤いマフラーのブリュアン」のような、彼女のイコン(聖人像)にはならなかった。
越路は、写真の人である。イヴ・サンローランニナリッチの衣装に身を包んでリサイタルに臨む、華やかさとパワフルさを、肖像画で表した人はついぞいなかった。
それは同時に、戦後の芸能が絵画では描ききれぬほど、機敏な速度で展開するようになったことを表している。

11月7日は越路吹雪の命日。

マサシさん

https://youtu.be/sWa6AktnxmQ

10月に亡くなった、札幌でシャンソン歌手として活躍されていたマサシさんの最期のライブ映像を観ました。
数年前、私がたびたびお邪魔しているライブバー「Voice」さんにマサシさんがご出演されたのを機に、華やかなステージを拝見し、シャンソンにまつわる沢山のお話を伺いました。
6月に裏方でお手伝いさせていただいた「北のパリ祭」でステージを拝見したのが最後でした。楽屋からステージまでの長い階段をゆっくりと降りているお姿が目に残っています。

映像は亡くなる十日程前のものだそうです。
「哀しみのソレアード」(山川啓介訳)
拝聴しておりますと、映画「ヨコハマメリー」で同曲を歌ってらっしゃったシャンソン歌手の元次郎さんを思い出しました。それもまた、余命いくばくもない時に歌われたものでした。
研究にのめり込むと忘れがちになりますが、どんな人の心にも寄り添う音楽がシャンソンなのだと思います。フランスの流行歌が日本では命の歌となったことが、シャンソンの魅力と奥深さだと感じました。

マサシさんは最期に素晴らしい命の輝きを遺してくださいました。ご冥福をお祈りいたします。

『がいこつ亭 105号』

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札幌在住の三神恵爾様が発行する個人文芸誌『がいこつ亭 105号』に寄稿しました。

峰 艶二郎
「水の悟りーふたたび、ひがしのひとし」

ひがしのさんは、フランスの男性シンガーソングライターのジョルジュ・ブラッサンスの影響を受けて、フォークシンガーとして活躍し、ブラッサンス作品の訳詞もされました。
ですが、憧れの歌手の模倣をするうちは、表現者としてオリジナリティを確立したとは言えません。
ひがしのさんの最後のCDアルバム『水の記憶』から、彼がどのようにしてブラッサンスを超越したのかを論じました。

『がいこつ亭 105号』は、コロナの影響で本の印刷をすることができず、発行が遅れたと伺いました。
私にとって、この文芸誌の発行がコロナ禍の夜明けを象徴するものになりました。

『がいこつ亭 105号』、ご興味ある方は御一報ください。

峰 艶二郎 拝

日本最初の来日シャンソン歌手

日本最初の来日シャンソン歌手

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日本で最初に来日したフランスのシャンソン歌手といえば、昭和28年に読売新聞社主催で公演を開いたダミア(Damia)だと言われている。日本でシャンソンがブームになったのは、ダミアの来日がきっかけだったとも言われているくらいだ。
だが調べてみると、ダミアよりも以前、昭和4年にフランスの歌手が来日していたことが分かった。
それは、リュシエンヌ・ドフランヌ(Lucienne Defrenne)という女性歌手だ。

ドフランヌについては、フランスと日本のシャンソン関係の文献に全く記載されていなかった。インターネットでは、彼女の顔写真が掲載された楽譜数点と1枚のレコードがヒットするのみで、足跡を辿ることはできなかった。
ただ、フランスの墓地に彼女と同名の人物の墓があり、墓碑には1912~97年とある。もしこれが彼女の墓であれば、17歳のときに来日したことになる。

ドフランヌが来日して出演したのは、大阪松竹座で開演された松竹楽劇部の公演「春のおどり 開国文化」というレビューであった。
竹楽劇部とは、現在の松竹株式会社が、大正11年に結成した少女歌劇団である。松竹社長の白井松次郎宝塚歌劇団を見て、大阪松竹座に専属の少女歌劇団を作ることを思い付き、結成された。
そして、その主要公演が「春のおどり」であった。当初は日本舞踊などの伝統芸能を踏襲した演目だった。しかし、昭和2年に宝塚が「吾が巴里よーモンパリ」を上演したことで、松竹楽劇部は演出家をパリに派遣し、昭和3年には洋風のレビューに一新させた。
ちなみに、のちに松竹楽劇部は東京と大阪で活動するようになる。東京では、水の江瀧子草笛光子が在籍した「松竹歌劇団(SKD)」となり、大阪では「大阪松竹歌劇(現OSK日本歌劇団)」となった。

では、なぜ松竹楽劇部の公演にドフランヌが来日して出演したのか。
直接的な史実を伝える資料は見つからなかったが、ひとつ興味深い文献を見つけた。
それは、カナダのケベック州にある都市ドラモンビルの歴史書である。
ドラモンビルは、首都のモントリオールから北東にある街で、かつてフランスの植民地だったことから、公用語はフランス語だ。

ドラモンビルの歴史書には、次のように記されている。

1930年(昭和5年)7月3日
「フランスのシャンソンの女王」の愛称で知られるマドモアゼル・リュシエンヌ・ドフランヌがドラモンビルのダヴィ学園で公演をした。夜の公演には、複数の聖職者が観覧した。

ここから見えてくるのは、ドフランヌは今で言うツアーミュージシャンだったのではないかということだ。彼女は、パリやフランスにとどまらず、アクティブにフランス語圏を巡業していたのではないかと思われる。
そんな彼女に、フランスを視察中の松竹の関係者が声をかけて、来日公演が実現したのではないだろうか。

こうして、ドフランヌは来日して大阪松竹座に出演したが、公演中にあるアクシデントに見舞われる。それは、彼女が上から降ってくる紙吹雪を吸い込んでしまい歌えなくなってしまったというものだ。
以来、松竹楽劇部では傘を持って歌うようになった。それが松竹歌劇団の代表歌「桜咲く国」を、傘を持って歌うパフォーマンスに受け継がれているのだという。
ドフランヌにしたら嫌な思い出だったであろうが、それがきっかけで彼女の名前が日本で残り、傘を持つパフォーマンスとして息づいているのだから、人生どこでどう転がるかわからないものである。

画像は1945年(昭和20年)、フランスで出版されたドフランヌの楽曲「澄んだ泉で」の楽譜。

『シャンソン・ド・パリ』

明るい戦時下ー娯楽としての『シャンソン・ド・パリ』

最近マイブームの、戦前のシャンソン史シリーズです。

昭和13年コロムビアレコードより

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シャンソン・ド・パリ(Chanson de Paris) 第1集』

が発売された。これは、SPレコード6枚組のボックス(というより、大きな本にレコードが収納されていた)であった。収録曲は、フランスのシャンソン歌手による楽曲12曲である。
ジャケットは、当時フランスで活躍していた洋画家の藤田嗣治が、パリの公園から街を見下ろした洒落た絵を描いた。歌手の解説と楽曲の対訳は、戦後にシャンソン評論家として活躍した蘆原英了が執筆している。
このボックスは当時大ヒットし、一万二千セットが売れたという。
この当時は学生で、戦後になって活躍した文化人たちが、同居の家族や知人を通じて、このボックスのレコードを聴いたと多数証言していることから、中産階級の人々が、このボックスを買い求めていたと思われる。

そして、このボックスは日本に「シャンソン」という言葉を根付かせる決定打となった。例を示すなら、翌年の昭和14年にヒットした岡晴夫の歌謡曲「港シャンソン」である。歌謡曲のタイトルに「シャンソン」という言葉が使われ、船乗りが出港する内容であることから、きちんと「フランスの歌」というニュアンスを理解しているのが分かる。

このヒットを受けて、コロムビアレコードは、昭和15年

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シャンソン・ド・パリ 第2集』

を発売した。同じくレコード6枚組12曲の構成で、ジャケットは洋画家の宮本三郎がフランスのバレリーナのような美しい女性像を描いた。解説は再び、蘆原英了だ。
このボックスの売り上げに至っては、第1集を上回り、二万三千セット(一万二千セットの説もあるらしい)売れたという。

ちなみに、続く第3集は、太平洋戦争を経て、戦後になって発売された。

ただ、ひとつ疑問が残る。なぜこんなに、このボックスが売れたのか、ということだ。
このボックスの価格は、12円50銭。当時、米10キロが約2円の時代である。
いくらシャンソンがブームになったとて、言葉の分からない外国語のレコードのボックスに、大金を払うニーズがあったのだろうか。

それは、当時の世相を見なければならない。
昭和12年日中戦争が勃発したことにより、翌年には国民を戦争に駆り立てるために統制する「国家総動員法」が成立し、生活が厳しく制限されていく。
同時に国が推し進めたのは、娯楽の統制であった。12年に、内務省が「興行取締の件」という公文書を発行し、戦時下にそぐわない娯楽を取り締まるよう通達したのである。
これによって、レコードや映画、演劇などの検閲し、多くの娯楽が発禁処分を受けた。

しかしこの検閲には、抜け穴があった。
西洋の音楽や映画の検閲はスルーされていたのである。
当時の検閲官は、大学卒のエリートたちであり、彼らにとって、西洋の娯楽は上品なものであり教養であるという認識だったのだ。彼らは、日本の娯楽を厳しく規制し、日本の文化レベルを西洋と同等に引き上げようとすら思っていたらしい。

国民生活の統制と娯楽の欠乏のなか、この『シャンソン・ド・パリ』は発売されたのである。おそらくは、金をもて余した中産階級が、戦時下の不安から逃れるために、目先の娯楽に走った、というのが、ボックスのヒットの背景であろう。
いまの「ステイホーム」で、家で楽しめる娯楽が次々と生まれているのを思えば、この仮説は真実味を帯びてくるだろう。

では、この『シャンソン・ド・パリ 第1~2集』は、どのような内容だったのだろうか。
今回、私は戦後にLPレコードで再発売された『シャンソン・ド・パリ』を聴いてみた。

第1集は、当時から国民に知られていた歌手が多く収録されている。

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リュシエンヌ・ボワイエ(Lucienne Boyer)、ダミア(Damia)、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)、ミスタンゲット(Mistinguett)は、ボックス発売前から、日本で知られていた。
また、リス・ゴーティー「巴里恋しや」(Lys Gauty「A Paris dans chaque faubourg」。現在「パリ祭」のタイトルで知られる)は、昭和8年に日本で公開されたフランス映画「巴里祭」の主題歌である。また、ジャン・ソルビエ「リラの花咲く頃」(Jean Sorbier「Les lilas」)は、昭和5年宝塚歌劇団が上演したレビュー「パリ・ゼット」の挿入歌「すみれの花咲く頃」のオリジナルであった。

このボックスの全体的な曲調は、タンゴ調のものが多く、はじめてシャンソンを聴く者でも、アップテンポで楽しめる内容になっている。
一方で、イヴォンヌ・ジョルジュ「水夫の唄」(Yvonne George「Chanson de marin」)は、スローテンポな曲調で、ジョルジュのダミ声は当時のシャンソンマニアが好むものであった。
シャンソン・ド・パリ 第1集』は、シャンソン初心者とマニアが双方楽しめる、まさに日本人向けの構成であった。

しかし、『シャンソン・ド・パリ 第2集』は、その様相が変わってくる。

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これまで日本で知られていた歌手が減り、タンゴ調の曲は消え、ラテンやミュゼット、スイングジャズなどの幅広い曲調の楽曲が収録されている。現に、現在も歌い継がれているのは、シャルル・トレネ「ブン」(Charles Trenet「Boum」)だけであるが、これも日本でトレネが人気になった戦後に再評価された楽曲だ。
では、このボックスの価値はどこにあるのか? それは歌詞にある。
蘆原英了の対訳を引用してみよう。

「忍び寄るあなたの手は あたしの手を求める
それは誓いの言葉にもまさり
もっと心をかき乱す」
(リュシエンヌ・ボワイエ「あなたの手(Ta main)」)

「彼は私のそばに膝まづき
とても優しく私を見つめた
心ときめくあのひと時よ」
(ダミア「あの夜の夢(J'ai reve cette nuit)」)

「あたしを腕に抱いて頂戴!
来る日も来る日も 優しい愛撫によみがえる」
(リス・ゴーティー「腕に抱いて(Prends-moi dans tes bras)」)

この歌詞を見ると、収録曲の多くが恋にまつわるものであり、上記のような身体的接触を匂わせるものまであるのが分かる。
無論、国内でこのような内容の流行歌を発売すれば、確実に発禁処分を受けるであろう。

さらに注目したいのが、イヴォンヌ・ジョルジュ「ナントの鐘(Les cloches de Nantes)」だ。これは、ナントの牢獄に収容された男が、番人の娘を誘惑して脱獄するという内容である。
当時の日本は、「治安維持法」を施行して、社会主義者と疑われる者や戦争に反対するものを不当に逮捕し、処罰していた。このような時に、脱獄者の楽曲を発売することなど、まさに「良俗」なるものに反する行為だ。

シャンソン・ド・パリ 第2集』が、このような構成になったのは、検閲に対するレコード会社の戦略であろう。検閲が、西洋の音楽には緩いことを逆手に取って、日本の流行歌としては発売できない内容のシャンソンを集めて、収録したというのが真相ではなかろうか。
ここに、娯楽を発信する者たちの、強い意地を感じずにはいられない。

シャンソン・ド・パリ』は、日中戦争下の緊縮した日本で、娯楽をいかに人々が求めていたか、というのを知ることができる資料だ。
しかし、国民が娯楽に興じるあまり、国策への関心が薄れ、結果として太平洋戦争に突入したことは、きちんと反省せねばならないだろう。
娯楽を含めた「文化」は、戦時下などの非常時でも大いに発展することを、強く胸に刻んでおきたい。