シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

佐藤美子

佐藤美子とシャンソン

日本のシャンソン史をひもとくと、まず名前が登場するのが、佐藤美子という歌手である。

彼女は、日本で最初にシャンソンのみで構成されたリサイタル「パリ流行歌の夕」を開いたことで、シャンソン史のなかで記録されている。
そして、もうひとつの彼女の功績は、戦後に「クール・アン・クール」という、シャンソンを勉強するためのグループを結成したことだ。これは、歌手が先生になって弟子にシャンソンを教える、今では当たり前のシャンソン界の師弟制度の草分けである。

しかしながら、美子が歌うシャンソンのレコードは一切残ってない。戦前の日本で最初にシャンソンに取り組み、かつ戦後のシャンソンブームの折りには、多数のシャンソンの催事に出演しているにも関わらず、市販の録音が一切残ってないのは不自然である。

私は長年この疑問が気になっていたが(ヤフオクで「佐藤美子」と検索する日々が何年続いたことか…)、この度、
矢野晶子『カルメンお美』
を読んで、美子の実像が見えてきた。
本稿では、美子の生涯を辿りつつ、彼女とシャンソンとの関わりについて述べていきたい。

佐藤美子は明治36年に神戸で生まれた。美子の父は税関職員、母はフランス人のルイズである。もともと佐藤の祖父は、江戸幕府の通訳をつとめており、当時にして佐藤家は海外に精通していた。父は、当初陶器の会社の社長であり、フランスのリモージュの陶器会社に視察にも行っていた。そこで知り合ったのが、ルイズである。
幼い頃の美子は、混血であることを周囲から苛められるも、それを跳ね返すような負けん気の強い性格であった。言わば彼女の我の強い性格は、生涯まで貫かれることとなる。

美子は幼い頃にオペラ「カルメン」を見て、自分も声楽家になる決心をする。
しかし、とき同じくして母ルイズが死去。フランスから日本に来て、夫の命令で日本式の生活を強いられた母への同情と愛情を、美子は終生抱いていた。
やがて、美子は音楽学校に進学して頭角をあらわし、卒業後は発足したばかりのNHKラジオのオペラ番組の専属になり、念願の「カルメン」を演じ、一躍「カルメンお美」の名を得ることとなる。
昭和3年、美子は声楽を学ぶためフランスに渡る。そのとき一緒になったのが、のちにシャンソンのピアニストにして「水色のワルツ」の作曲者、高木東六であった。二人は、音楽を学ぶ同士として生涯の親友となった。
母ルイズの親類を頼ってフランスに渡り、パリで声楽を学び始めるも、当初は現地の指導者から酷評されたという。しかし、地道な努力を重ねて大成し、パリの一流の劇場に出演したり、スペイン大使館で皇帝の前で歌声を披露したりなどの栄誉を得る。

その頃、美子はシャンソンと出会っている。高木東六は、美子に誘われてムーラン・ルージュで、女性歌手のミスタンゲット(Mistinguett)を見に行ったと自伝に記している。また、美子は女性歌手のダミア(Damia)とも親交を深めていたという。

また美子は、パリに来ていたタダシという日本人と恋愛関係にあった。タダシは名家の出であったが遊び人で、パリにはフランス人の妻子がいたが、美子のために離婚するという破天荒な人物だった。

そして、昭和7年に帰国した美子は、早速帰朝コンサートを開くも、評判は散々であった。
初回はフランス歌曲を原語で歌うも日本の客に理解されず、2回目は日本語で歌うも「留学したのに何でフランス語で歌わないのか?」と酷評される。
それに業を煮やした美子は、タダシに相談し、あるコンサートを開く。
それこそが、全曲フランスの流行歌であるシャンソンで構成されたリサイタル「パリ流行歌の夕」であった。

このリサイタルについて詳しく見ていきたい。

まず開催されたのは、昭和7年9月19日、日本青年館においてであった。これについては、菊村紀彦『ニッポンシャンソンの歴史』のなかで、昭和8年と記載されたために、それが公的記録となっているが、正しくは7年である。

また、なぜシャンソンが「パリ流行歌」なのかというと、当時はまだシャンソンという呼び名が日本で定着していなかったからである。シャンソンという言葉が定着するのは、昭和9年NHKラジオで「シャンソン特集」が組まれ、それが新聞のラジオ欄に掲載されてからであった。

このコンサートでは、美子が声楽家がコンサートのときに着るイブニングドレスではなく、フランスの平民服を着て登場し、日本語の訳詞でシャンソンを歌ったとある。そのときのセットリストは、「サ・セ・パリ」「すみれの花咲く頃」「さらばパリ」「懐かしのパリ」「パリの屋根の下」など。フルオーケストラをバックに内田栄一という歌手とデュエットしたという記録もある。
また、当時の音楽雑誌に吉本明光という人物が、ライブレポを載せている。

「会場のドアを開けたとたん異様な光景に驚嘆した。五彩のスポットのなかで唱うのは異教徒の恋歌であった。ステージが暗転すると、今度はピンクのドレスに五色の風船を抱いて、踊りながら現れた。拍手とアンコールの嵐であった。」

声楽家のコンサートはマイクの前で直立不動で歌うものであり、当時はそれが当たり前だったことを思えば、このリサイタルがかなりぶっ飛んだ内容だったのが分かるだろう。
このリサイタルのスタイルは、間違いなく美子がムーラン・ルージュで見たミスタンゲットのステージを真似したものだ。真面目に声楽をやっても認められない彼女は、パリ仕込みのシャンソンのスタイルをもって、一泡吹かせたのである。
しかしながら、このリサイタルもまた、称賛の一方で「声楽家が庶民の歌をやるな」という批判も伴った。
その後、美子は再び歌曲一本でリサイタルなどをしていくこととなる。

やがて、美子はタダシと別れ、画家の佐藤敬と結婚する。しばらくは蜜月だったというが、美子が主婦の傍らで声楽の弟子を持つと、敬はそれを嫌がった。また戦争がはじまると、敬は軍の命令で戦争画を描き、戦後はその自責の念に耐えられず、逃げるようにパリに渡ってしまう。夫婦仲は破綻していたといってよい。

戦中後、美子は二人の子を抱えて満足な声楽家の活動ができず苦悩する。特に戦後は、パリにいる敬からの金の催促、生活費代わりに送られてくる絵を売って歩く日々であった。
美子は、ラジオのバラエティ番組の出演や雑誌の寄稿や対談など、金になることはなんでもした。声楽家一本で活動できない悔しさと、他の声楽家たちが名声を得てることの焦りが彼女を取り巻いた。かつての「カルメンお美」の名前は、すでに錆び付いていた。

昭和28年、美子の友人だったシャンソン歌手、ダミアが来日公演を開く。この主催は読売新聞だったが、私は美子が新聞社に持ち込んだ企画ではなかったか、と見ている。現に、美子は公演の前座と来日中のダミアの付き人をつとめている。そして、美子が歌うときのピアニストは、親友の高木東六であった。
しかしながら、このダミアの来日公演がきっかけで、日本のシャンソンブームに火がついたことを思えば、美子は切れ者である。生活費を稼ぐために、ひとつのブームを巻き起こし、それにまつわる催事や寄稿をこなしたのだから、自身を売込む才能に長けていたというべきだ。
そのブームに乗じて結成したのが、「クール・アン・クール」である。美子は、もともと声楽家として弟子を抱えていたので、シャンソンを指導することもたやすかった。このグループには、後にシャンソン歌手として大成する金子由香利がいた。また後年であるが、料理研究家平野レミも、美子のもとでシャンソンを学んでいる。

そんな美子でも、シャンソンのレコードをあえて残さなかったのは、やはり声楽家としてのこだわりの強さだろう。彼女は終生、「オペラ歌手」「声楽家」と紹介されないと機嫌が悪かったという。ただの「歌手」では、彼女のなかでは格下の歌謡歌手と混同されるので、嫌悪を示した。

やがて、美子は日本初のオペラを作り、それを自身で演じることに熱心になる。それが成功したことで、彼女は「カルメンお美」を脱皮し、新境地を掴むことができた。
生涯にわたり声楽家として活躍した彼女は、昭和57年に病没した。

美子の人生とシャンソンの関わりを見ると、彼女にとってシャンソンは「自分が認められるための布石」、あるいは「生活費のため」のものであったと認識せざるを得ない。
しかし、声楽以外を音楽と認めない美子が、流行歌であるシャンソンを、ひとつの音楽として好んでいたことを考えてみたい。

彼女にとってシャンソンは、母ルイズの故郷の歌でもある。美子のシャンソンへのこだわりは、ルイズへの思慕の表れではなかっただろうか。彼女にとってシャンソンを歌うことは、母の霊を慰める行為であり、極めて個人的なものであった。彼女がシャンソンをレコード化しなかったのには、こうした理由もあるのではなかろうか。

「パリ流行歌の夕」の史実をきっかけに、私は佐藤美子の壮絶な人生に触れたわけだが、それを通じて、表現者としての道の険しさと生活をしていくことの厳しさを痛感した次第である。

余談だが、昭和13年日比谷公会堂で美子主演の「カルメン」が上演されている。
主役のカルメンは美子だが、脇役のメルセデスは、戦後関西のシャンソン界を牽引する菅美沙緒であった。戦後のシャンソンブームを築く2人が、その前夜に声楽家としてすでに出会っていたことに、袖すり合うも…を思わずにはいられない。

画像1「パリ流行歌の夕」のときのもの
画像3「アサヒグラフ」昭和28年のもので、美子が生活苦に喘いでいたときのもの。これにも、色々と間違った情報が書かれている。