シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

吉屋潤

K-Chanson 吉屋潤のこと

日本で作られた楽曲で、フランスのシャンソンっぽい雰囲気のものを「J-Chanson」と呼ぶ人がいるようだ。
訳詞家の永田文夫が監修した「愛しのシャンソン」というCD全集を見れば、フランスのシャンソンに混じって、水原弘「黄昏のビギン」、加藤登紀子「この空を飛べたら」、芹洋子「四季の歌」などが収録されており、垢抜けたバラード調の歌謡曲が「J-Chanson」に当てはまる、といったところか。

私が最近知った、吉屋潤というシンガーソングライターの楽曲は、まさにそれに当てはまる。しかしながら、彼は韓国の人なので「K-Chanson」である。

吉屋潤の本名は、チェ・ジョンス。1927年に現在の北朝鮮に生まれた。当時の朝鮮半島は日本の統治下であった。
戦後、アメリカ軍のキャンプでジャズに目覚め、サックス奏者を志す。
50年、日本に密航し、歌謡歌手の田端義夫のバンドマンになる。このとき芸名を「吉屋潤」とした。よって、この名前は「通名」ではない。
そして、日本でサックス奏者として大成する。その頃出会ったのが、後の妻で、韓国を代表する歌手、パティ・キムであった。
そして吉屋が韓国に戻り、シンガーソングライターに転向すると、パティなどに提供した楽曲が次々とヒットした。
一方で、67年にパティとの間に娘が生まれるも、73年には離婚した。
その後、新人歌手のプロデュースをして成功したり、ソウル五輪のテーマ曲として書いたキム・ヨンジャ「朝の国から」がヒットするも、たびたび負債を抱え、その都度来日してクラブなどを経営していたそうだ。
94年、韓国で病没。

彼の楽曲で一番良く知られているのはパティ・キム「別離ーイビヨル」だろう。発表当時は、日韓でヒットしたそうで、私も桂銀淑のバージョンで聴いたことがある。

吉屋が自身の楽曲を、自ら歌ったアルバムがある。
1974年『海程』だ。

このアルバムに収録された楽曲の大半は日本語詞で、歌謡曲やニューミュージック、ボサノバなどの様々な曲調のものに溢れていて聞き応えがある。中には「ソウル讃歌」というタイトルのものもあり、ナショナリズム?と正直警戒したが、聴いてみると「東京ラプソディ」のような軽快な面白さに満ちた楽曲であった。
ちなみに吉屋は、曲作りの際に韓国語詞と日本語詞の両方を作っていたそうだが、二ヶ国語に精通した人いわく、歌詞の内容にズレがほとんどないという。これは凄いことだ。
吉屋の歌声は、地声を生かして話し言葉の延長で歌っているようなソフトな印象だ。私は、かつてピアノでシャンソンの弾き語りをしていた乾宣夫という人を思い出した。自身の心情に寄り添って自然と歌が口からこぼれるような歌い方は、吉屋と乾に共通するところである。これは曲調云々よりも、歌のスタイルが「シャンソン的」というべきだろう。

このアルバムで注目したいのは、B面のラスト2曲「1990年」「別離ーイビヨル」だ。
「1990年」は、68年に作られた楽曲で、90年に成人する娘を思う内容である。

1990年、娘は21
女の季節を迎えているだろう

わらべ歌のような曲調で、父親目線で娘の将来に思いを馳せる、美しい楽曲である。しかし、この時にはすでに妻のパティとの溝は深まっていたという。そしてラストの「別離ーイビヨル」である。

時には思い出すでしょう 冷たい人だけど
あんなに愛した思い出を 忘れはしないでしょう

「別離ーイビヨル」は、愛する人と別れても、その思い出は「山越え遠く別れても、海の彼方はるか離れても」忘れないということが歌われる。
ここからは、父親として娘を愛する一方で、夫婦仲の破綻により、将来の成長を見届けるのが叶わない運命への嘆きが読み取れる。私生活によりそった楽曲を収めたアルバムは数あれど、これほど聴く者の身に迫る悲しみに満ちたものを私は知らない。

シャンソンは生活の歌である」という定義は、戦後の頃から言われてきたことだ。吉屋のアルバムを踏まえて、この言葉の意味を考えれば、人々が生活を通じて培った「精神性」が表れている楽曲こそが「○-Chanson」になり得るのではないかと思う。楽曲を通じて心情を吐露するように歌う吉屋は、まさに「シャンソン的」な精神を体現した歌手だと言える。

余談だが、韓国でもフランスのシャンソンには韓国語の訳詞がついて歌われているようだ。
これは、パティ・キムが歌う「アドロ(Adoro)」
(追記、小貫様より「アドロ」はメキシコの曲だとご教示いただきました。シャンソンではなくラテンです)
https://youtu.be/wSq6bkDNvAk