死体のある風景 作家とシャンソン②
🚢三島由紀夫「造花に殺された船乗りの歌」
戦後日本を代表する作家の三島由紀夫。彼は執筆活動にいそしむかたわら、映画に出たり、ヌード写真を刊行したりと、いわゆる「出たがり」でもあった。
そんな彼は、自作のシャンソンにも挑戦していた。これも「出たがり」の一環かと思いきや、調べてみると、どうもそれだけで片付けられそうにないことに気がついた。
三島がシャンソンを歌うきっかけになったのは、1966年7月9~10日に日経ホールで開かれた「丸山明宏 チャリティーリサイタル」にゲスト出演が決まったからある。丸山明宏(現・美輪明宏)が、三島に出演を依頼し、
「一生に一度は舞台で歌をうたってみたい」
という希望で快諾したという。
そして、三島は自ら作詞をする。
それが「造花に殺された船乗りの歌」であった。
作曲は丸山明宏で、約10分の大曲だったという。
当日に向けて、三島は1ヶ月前から週2回、丸山によるレッスンを受けた。22時~1時までのハードなお稽古である。
また、本番近くなると主催していた劇団のメンバーを、楽曲のシチュエーションにぴったりな波止場に連れていき、そこで歌を披露したらしい。
向かえた当日は、正午に劇場に入って半裸でメイクをしたりして余裕を見せていたが、いざ本番の舞台袖に着くと、緊張しているそぶりを見せたという。
ステージでは、出だしで少し声が掠れて客の忍び笑いが起きたが、大振りなゼスチャーを交えて歌う姿に徐々に引き込まれ、最後は大きな拍手で包まれたとある。丸山いわく、三島の歌声は「シャルル・アズナブール(Charles Aznavour)ばりの低音の魅力」だったという。
さて、そんな三島が歌った「造花に殺された船乗りの歌」とは、どのような内容だったのか。
主人公は、貨物船で働く二等航海士。彼は、海と船を愛する純粋な男である。
そんな彼は、女性に恋をする。彼女と会うたびに花束を貰っていた。しかしある日、彼女は彼に造花を渡した。
彼は彼女に振られたと勘違いし、仕事で大きなミスを犯して、仲間からの信用を失う。そして彼は嵐の海に入水してしまうが、その死後に彼女から「あの造花は、婚約を待っています、という意味です」という旨の電報が届く。
これと同じ趣旨の三島の小説がある。
1963年に発表した「剣」である。
主人公の次郎は、剣道一筋に生きる清純な大学生。剣道部には、彼に反目する同級生の賀川、次郎に崇拝の念を持つ後輩の壬生がいる。
夏合宿中、次郎がOBを迎えに行くために留守の間、賀川は禁止されている海水浴に部員を誘う。壬生は拒否するが、次郎が予定より早く帰って来たことに気付き、「自分だけ良い子ぶっているように見られるのは耐えられない」と思い、賀川たちと合流する。
次郎は部員を叱責する。しかし賀川は、「言いつけを破って楽しいことをした満足感」を、次郎に見せつける。また、壬生もまた「自分も海水浴に行った」と嘘をつくことで、憧れの存在だった次郎に対してライバルとして向き合う決意をする。
合宿最終日の深夜、次郎は森の奥で稽古着に竹刀を抱いて自殺する。
「造花に殺された船乗りの歌」と「剣」に共通するのは、男がひとつのことに打ち込もうとする「純潔」な志が、俗悪なものに汚されて、汚れきってしまう前に自ら命を断つことで「純潔」を死守する点である。
「造花ー」であれば、船乗りの仕事を愛する純潔な志が恋愛によって揺らぎ、「剣」では剣一筋の精神が海水浴(自由を満喫する若者の象徴)によって汚される。自分のなかの純粋な誇りを守るために、主人公たちは自殺するのだ。
これは、三島文学における重要なテーマであるといえよう。
この点を踏まえると、三島のシャンソンは作家としての自身の信条に基づいているのがわかる。「造花に殺された船乗りの歌」は、三島の「出たがり」ではなく、作家としての創作活動の一環として見ることができる。
また私は、フランスの文学者が自身の作品に曲をつけて歌う「文学的シャンソン」を、三島が踏襲したことを高く評価したい。文学の表現の可能性として、彼がシャンソンに着目して実践したことは、今後研究の余地があるだろう。
いつか私は、この「造花に殺された船乗りの歌」の全編を読んでみたいと思っている。さらに願うなら、三島が歌唱したテープが残っているものなら聞いてみたいものである。