シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

寺山修司

死体のある風景 作家とシャンソン
🔪寺山修司「かもめ」

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フランスのシャンソンには、死体が登場する楽曲がわりと多い。
日本で、そのことがよく知られるようになったのは、1951年の
ムルージ「小さなひなげしのように」(Mouloudji「Comme un p'tit coquelicot」)
という楽曲ではないかと思われる。

Et le lend'main, quand j'l'ai revue,
Elle dormait, à moitié nue,
Dans la lumière de l'été
Au beau milieu du champ de blé.
Mais, sur le corsag' blanc,
Juste à la plac' du cœur,
Y avait trois goutt's de sang
Qui faisaient comm' un' fleur :
Comm' un p'tit coqu'licot, mon âme !
Un tout p'tit coqu'licot.

そして翌日、彼女に会いに行った
彼女は寝ている、半分裸で
夏の光を浴びて
美しい麦畑で
しかし白いブラウスの
ちょうど胸のところに
3つの血痕が
花のようになっている
それは小さなひなげしのように、嗚呼
まるで小さなひなげしのように
(筆者訳)

この歌詞に描かれる光景は、まるで探偵小説か幻想文学のような美しさがある。夏の陽射しが眩しい麦畑に横たわる女の刺殺体というシチュエーションは、戦中の「海行かば、水浸く屍」とは異なる印象派の絵画のような印象さえ受けるだろう。
フランスのシャンソンのこうした自由な歌詞の世界に、創作意欲を掻き立てられた作家たちがいた。

5月4日が命日の寺山修司は、詩作や評論、演劇などマルチな才能を発揮した作家であったが、歌謡曲の作詞家としても、良い仕事をした。
1970年、浅川マキのために書いた「かもめ」はその代表曲である。

おいらの恋は本物で
港町の真夜中 いつも
ドアの前を行ったり来たりしてる
だけどおいらにゃ手が出ない
かもめ かもめ 
笑っておくれ

おいらは 恋した女の部屋に
跳び込んで 不意に
ジャックナイフを ふりかざして
女の胸に 赤いバラの贈りもの
かもめ かもめ
かもめ かもめ

おいらが贈ったバラは
港町にお似合いだよ 
たった 一輪ざしで色あせる
悲しい恋の血のバラだもの
かもめ かもめ 
笑っておくれ
かもめ かもめ 
さよなら あばよ

この楽曲は、主人公の男が女に恋をするが、女は他の男と関係を持っているのを知って逆上して殺害し、港町から離れるストーリーだ。
最後の「さよなら あばよ」は、逃走することなのか、あるいは逮捕されることを表すのか分からないが、どちらにしても「行ったり来たり」で「手が出ない」主人公が、女を殺すことで、人生の新たな一歩を踏み出すという、寺山作品における「青年の成長」が描かれているように感じた。

この「かもめ」には、元になった詩がある。
1961年、ソノブック社から発売された
「黒い傷あとのブルース/コーヒー・ルンバ」
というソノシートがあり、その「黒い傷あとのブルース」に寺山が詩を寄せているのだ。

まっくらな 夜の波止場に
かもめがいっぱい とんでいる
かもめ かもめ
あたしの手には
ジャックナイフが にぎられてある
ジャックナイフには
血がべっとりとついている
あなたの血!
(原文ママ)

こちらの主人公は女性で、港町で愛する男を殺してしまったストーリーが展開する。
寺山がこの詩を転用して、浅川の「かもめ」を作ったのは間違いないだろう。

ところで、このソノシートに記載されている帆足まり子の解説には、気になる記述がある。

「1961年で(日本の洋楽レコードの売上)上半期のヒットソングベスト10が発表されましたが、そのトップを飾っているのがこの「黒い傷あとのブルース」です。昨年に比べて今年はヨーロッパ産のヒットソングはぐっと少なくなって来たように思いますが、アメリカ産の強力なポピュラーソングを向こうに廻して、見事に一位を獲得…」
()は筆者註

気になるのは、「黒い傷あとのブルース」が、ヨーロッパの楽曲と紹介されていることだ。
この「黒い傷あとのブルース」の原曲のタイトルは、「Broken Promises」(約束やぶり)というもので、アメリカのサックスのインストゥルメンタルである。
では、なぜ「ヨーロッパ産のヒットソング」と紹介されているのか。それは、日本で最初にビクターレコードから出た「黒い傷あとのブルース」の演奏者が「アンリ・ド・パリ楽団(Henri de pari。フランス語の「paris」ではない)」という人たちだったからである。

おそらく帆足まり子は、このフランス語っぽい楽団の名前を見て、「黒い傷あとのブルース」をフランスの曲と勘違いしたのであろう。ちなみに、アンリ・ド・パリ楽団については、一切の資料がない謎の楽団らしい。私は、彼らの正体は、ビクターレコードの日本人バンドで、洋楽らしいバンド名をつけてレコードを吹き込んだのではないかと思っている。「pari」はないですよね…。
余談だが、「黒い傷あとのブルース」は日本で大変話題になり、のちに水島哲が歌詞を書いて小林旭が歌い、それを元にした映画も作られたそうだ。

本題に戻すが、帆足まり子より「黒い傷あとのブルース」がフランスの曲だと聞かされた寺山修司は、このインストゥルメンタルの楽曲に歌詞をつける気持ちで、詩作をしたのではないだろうか、と私は考える。つまり、この詩は寺山にとってシャンソンだったのである。そして、その下地にしたのは、ムルージのシャンソン「小さなひなげしのように」であったに違いない。
この時の寺山は26才。テレビドラマ「一匹」の脚本を書き、歌集「血と麦」を出版した年であった。

「黒い傷あとのブルース」には、滑稽な背景が絡み付いているが、それがきっかけで寺山がシャンソンを詩作をし、後の代表曲「かもめ」に繋がったと思えば、何とも感慨深いものである。

(全3回予定)