シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

薩めぐみ

再び、シャンソンという鎧ー 薩めぐみ再考 Ⅲ

フランスで歌手活動していた薩めぐみは、詩人のジャック・プレヴェール(Jacques Prèvert)に作品の使用権を認められ、それをもって製作したファーストアルバム「ジャック・プレヴェール」で、頭角を現した。そして、他の文学者や思想家の作品、さらには自身の作詞による楽曲も発表し、歌手としての軌道に乗る。しかし、80年代に結婚出産をしたのを機に、2000年代まで芸能活動をセーブしていたようだ。そして、2010年に喉頭ガンで62歳で死去する。

薩の人生を、遺された楽曲とともに振り返って思うのは、彼女は在仏歌手としては成功したが、ひとりの人として幸福だったのかということだ。「薩めぐみ」という歌手としては、フランス語を用いてフランス人の手による楽曲を歌いこなして、フランスでの居場所を得ただろう。しかし、異国で移民として生きた人間としての彼女の実像は正反対だったのではないかと思うのだ。現に、音楽評論家の安倍寧は、石井好子が薩と時折連絡を取り合っており、石井が「薩は精神を病んでいる」と言っていたのを、ブログで回想している。

薩が死去する前年、2009年に発表したアルバム

「私の死後(Après ma mort)」

は、おそらく彼女が自身の死期を悟って作ったものと思われる。

1 ボルネオの宴
2 お前は私の売春宿に来る
3 私の死後
4 十二宮を抱き上げて
5 ア・オウ・ア・ウィ
6 私の個人広告
7 地獄の時差ボケ
8 After my death

「ボルネオの宴」「お前は私の売春宿に来る」「ア・オウ・ア・ウィ」は、フィリップ・フォンテーヌ(Philippe fontaine)作詞、「十二宮を抱き上げて」は、思想家のジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)作詞、「地獄の時差ボケ」は、タレントから政治家になったフレデリックミッテラン(Frèdèric Mitterrand)作詞、「私の死後」「私の個人広告」は薩の作詞による。
「私の個人広告」「地獄の時差ボケ」は1991年、「私の死後」は2001年に作られた曲なので、ディスク化していない曲を寄せ集めた印象がある。とはいえ曲調に注目すると、バラード系のボードリヤールミッテランの曲は正調な歌い方、ハウスミュージック系のフォンテーヌの曲は破調な歌い方で、彼女の歌手としてのバラエティーぶりが伝わる一枚になっている。

このアルバムで、今回取り上げたい曲が「私の死後」である。スイングジャズ調のメロディで、アルバムの構成上でのアクセントにもなっている。
このアルバムには歌詞カードが付いていなかったので、「私の死後」を英語詞で歌った「After my death」を元に翻訳した。(しかし、私の至らなさから全体の7割くらいしか聞き取りできなかった)

ありがとう ここに集まってくれた人たち
私は今まで、死が最高の贈り物であることに気づかなかった

私が死んだあと 天国へ行き、穏やかになれる

私は最後に、信仰し続けることを知った
ごめんなさい、あなたのためには祈れない
私は死んで幸せ、ここには悪意もジャグジーもないけど

私はここで、愉快な友達を見つけたわ
クレオパトラケネディシェイクスピア、そしてアインシュタイン
そして、あなたも必ずこの中に加わる

この歌詞から見えてくるのは、死によって魂が安らかになることへの願いである。薩の胸中は、生きているかぎり平穏を得ることはできないという諦念が占めていたのではないだろうか。
また、歌詞のなかで歴史上の偉人の名前を列挙するのは、ジルベール・ベコー「逝きし人々」(Gilbert Becaud「Les âmes en allées」)というシャンソンを思い出す。こちらがフランス史の文化人を列挙しているのに対し、薩の歌詞にはフランス人どころか日本人すらもいない。そこに私は、身を置きどころのない浮遊した彼女の魂の嘆きを感じる。日本からフランスに渡り活躍した歌手・薩めぐみの実像は、祖国喪失の思いにさいなまれていた流浪者のようであったのではなかろうか。

ところで、この曲のコーラスの一部は日本語で歌われている。それは次のような歌詞であった。

祈るのね 私は死んでようやく幸せ
嗚呼 あの世は憂いなく

(完)