再び、シャンソンという鎧ー 薩めぐみ再考 Ⅰ
昨年の外出自粛期間は、札幌出身でパリに渡って活躍した歌手・薩めぐみの研究に没頭した。
「シャンソンという鎧ー薩めぐみ」
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④https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=625081128078735&id=100017305596421
⑤https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=626079111312270&id=100017305596421
のめり込みすぎて、夢の中でまで
「Après Ma Mort!(私が死んだあと!)」
という彼女の絶叫が響く始末であったが、当時彼女のCDアルバムをコンプリートしておらず、より詳細な論を書きたいという思いが常にあった。
この度ようやく、
「1930年代の文学的シャンソン(Chanson littèraires des annèes 30)」
「私の死後(Après Ma Mort)」
の二枚のアルバムを入手し全て揃ったので、これらの収録曲を通じて、再び薩めぐみの足跡を辿りたい。
今回はアルバムを取り上げる前に、なぜ彼女がフランスに渡って歌手活動したのかを考える。
彼女は早稲田在学中の、1968年に第五回アマチュアシャンソンコンクールの大賞を受賞し、歌手としての道が拓けた。彼女は、その半年前に、ある人物からシャンソンを歌うことを勧められて、コンクールに出場したという。しかし私は、果たして半年間ばかりでコンクールで優勝できるものなのか、と疑問に思っていた。
さらに調べると、彼女にシャンソンを勧めた人物が、フランスの男性ピアニスト、エミール・ステルン(Emil Stern 1919-97)であることが分かった。
ステルンは、戦後フランスで注目されたピアニストであり作曲家。彼が作曲した「ジャヴァ(Java)」「コーヒー畑(Planter cafè)」などは、イヴ・モンタン(Yves Montand)、ルネ・ルパ(Renèe Lebas)などのメジャー歌手が歌い、日本のシャンソン歌手にも歌われている。
そしてステルンは、コンクール主催者であるシャンソン歌手の石井好子と公私ともに懇意の仲であった。石井のエッセイには、パリでのステルンとの交遊が多々回想されている。
ステルンは、66年に歌手のジャン・サブロン(Jean Sablon)の来日公演にピアニストとして同行している。翌年67年には、石井が主催するシャンソンのフェス「パリ祭」にも来日し、計三年間、伴奏者として出演している。おそらく、そのあたりに薩と出会ったのであろう。
そして、来日中に薩を見出だしたステルンは、コンクールの前に石井に口添えしていたと、私は考える。薩の歌手としてのレールは、準備されたものであったと言ってよいだろう。
こうしてコンクールで優勝した薩は、石井好子音楽事務所の専属歌手となるが、そこは彼女にとって活躍の場にはならなかった。
彼女の先輩歌手にあたる、第二回アマチュアシャンソンコンクールの優勝者であり、石井好子音楽事務所の専属歌手となった加藤登紀子は次のように回想している。
担当マネージャーがこう言ったのだ。
「ぜひ新人賞を狙いたいので、それをターゲットにしたスケジュールでお願いします」(略)
「え?シャンソンって選択肢はないのね!?」
「ばかなこと言ってんじゃないよ。レコード出すってことは流行歌を歌うってことなんだぜ」
これで分かる通り、コンクールの優勝者はシャンソン歌手ではなく、歌謡曲の歌手として育成されたのだ。おそらく石井は、シャンソン歌手の肩書きでは、日本の芸能界で生き残れないのを予測していたのだろう。
シャンソン歌手の岸洋子が「夜明けのうた」、田代美代子が「愛して愛して愛しちゃったのよ」で、歌謡曲歌手として成功したのには、こうした背景がある。そして、加藤もまた65年に「赤い風船」がヒットした。
薩もまた、それに倣って流行歌を吹き込む。
最初のレコードは、「鐘」(L.阿久悠 M.田辺信一)という曲だった。
この世に生まれた いのちのために
わけへだてなく 鐘はなり響く
まるで岸洋子が歌ってそうな真面目な曲だが、はっきり言って楽曲としては凡庸、ジャケットの写真も女子大生とは思えぬくらいフレッシュさがない。薩の渡仏後の活躍ぶりを見れば、このプロデュース方針が彼女の意に反していたものだったのが分かる。
在日中、彼女は計4枚のレコードを出すが、結局ヒットには繋がらず、コンクールの受賞後から二年後の70年にフランスに渡った。
彼女がフランスに渡ったのには、日本の芸能界への失望と、ステルンに認められたことへの自信があったからであろう。そして彼女は、フランスで快進撃を遂げることとなる。
それについては、上記のリンク①からお読みください。
(次に続く)