シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

沢庸子

銀座のミューズ 沢庸子

先日亡くなったジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)は、パリのサンジェルマン・デ・プレで実存主義の文化人たちに愛されたが、かつて日本のシャンソン界にも文化人のミューズとして君臨した歌手がいた。沢庸子である。

本名、井沢庸子は、昭和6年生まれ。「鞍馬天狗」で知られる俳優の嵐寬寿郎は、彼女の叔父に当たる。25年に東京女子大学文科を卒業後、イラストレーターの中原淳一の雑誌社「ひまわり社」に勤める。編集者として働くなかで、文化人との人脈を広げていく。彼女がシャンソン歌手に転身するきっかけとなったのが、シャンソン評論家の葦原英了であった。当時、同じ雑誌社に勤めていたイラストレーターの内藤ルネは、沢を通じて葦原からバレエのチケットを貰ったエピソードを著書で回想している。
やがて、沢は銀巴里のバンドマスターだった原孝太郎に師事し、店の専属歌手となる。
32年、原は銀巴里からラ・セーヌという店に移る。彼の門下生の大半は原とともに移店したが、唯一、沢と美輪明宏は銀巴里に残った。原のいない銀巴里は閑古鳥が鳴いたというが、そんな店を伝説のシャンソン喫茶に盛り立てたのはこの二人である。
沢が歌手活動をする上でリスペクトしたのが、グレコであった。彼女は、グレコの曲を歌うだけでなく、ヴィジュアルもグレコに寄せていた。美輪は「沢庸子さんは、グレコばりの姿をしていた。目を痛めて、片目の眼帯を黒と洒落て、通ってくるファンもいる」と回想している。ちなみに、美輪が女装をするようになったのは、そんな沢の影響を受けたのがきっかけだったという。
沢の人気は高まり、銀巴里では午後3時から「沢庸子の部屋」という彼女のためのステージタイムが設けられた。それに合わせて、サンジェルマン・デ・プレでグレコをもてはやす文化人を真似ようとする日本の文士たちが彼女のもとに集うようになる。遠藤周作安岡章太郎吉行淳之介は彼女のファン代表であった。
しかし、美輪が「シスター・ボーイ」として人気を博し、銀巴里に彼のファンが増えると、沢のファンたちは徐々に足が遠退いたという。
34年、沢はファンのひとりだった内田硞士と結婚。そのきっかけは、内田が沢に当時マニアックな曲だったレオ・フェレ「ムッシュ・ウィリアム」(Leo Ferre「Monsieur William」)をリクエストしたからだという。彼は趣味人だったらしく、シャンソン歌手たちをスケートなどに誘って楽しませたりするような人柄だったという。
その後、沢は闘病しステージを去る。内田は平成27年に死去。沢は存命とのことである。

沢庸子は、私にとって名前は多々目にするが、その実像を伺い知れない人物であった。しかし、昭和32年のリサイタルのプログラムを入手したことで、彼女の姿の片鱗を知ることができた。
昭和32年は、日本のシャンソンブームがもっとも熱を帯びた年だった。シャンソンのリサイタルが乱立し、フランスからイヴェット・ジロー(Yvette Giraud)とジャックリーヌ・フランソワ(Jacqueline Francois)が来日した。全国にシャンソンファンが集う「シャンソン友の会」が結成され、訳詞家の永田文夫が雑誌「シャンソン」を出版している。
沢のリサイタルも、そうしたブームのなかで開かれたのだろう。主催は「沢庸子の会「ミアルカ」」(ファンクラブみたいなものか?)、共催に「シャンソン友の会」とある。
ピアノ伴奏は、当時お茶の水にあったシャンソン喫茶「ジロー」の専属ピアニストだったジャック滋野。彼は三木トリローの楽団で進駐軍の慰問でジャズを弾いていたが、やがてシャンソンに転向した人だ。

表紙の写真を見ても、沢がグレコを意識しているのがわかるが、リサイタルのプログラムを見るとさらに彼女がグレコを意識していたのがわかる。
グレコの曲を挙げれば、

恋多き女」(Miarka)
「居酒屋の歌」(Guinguettes)
「街角」(Coin de rue)
「蟻」(La Fourmi)
「カトリーヌの唄」(La chanson de Catherine)
「パリ・カナイユ」(「パリ野郎」Paris Canaille)
「アンブラス・モア」(「私を抱いて」Embrasse moi)

と、プログラムの大半を占める。

他に、

レオ・フェレ「M・ウィリアム」(ムッシュ・ウィリアム)
マルセル・ムルージ「小さなひなげしのように」(Marcel Mouloudji「Comme un p'tit coquelicot」)
ルネ・ルパ「Java」(Renée Lebas「ジャヴァ」)
シャルル・トレネ「悪魔のJava」(Charles Trenet「La java du diable」)
ダミア「十字架」「かもめ」(Damia「Les croix」「Les goélands」)
アリスティード・ブリュアン「サン・ラザールにて」(Aristide Bruant「À Saint-Lazare」)

が沢によって歌われた。

こうして見ると、沢が文学的なシャンソンをレパートリーにしていたのがわかる。その上、かなりマニアックな曲ばかりであるが、これは彼女のバックで葦原英了が資料を提供していたからだろう。「パリ・カナイユ」を除いて、今のシャンソンのコンサートで掛かるのが珍しい曲ばかりであり、これらの曲すべてに日本語の訳詞がついていたと思うと感慨深いものがある。

そして最も注目したいのが、特別出演枠で彼女のファンだった遠藤周作が「シャンソンと詩について」という講演をしていることだ。
遠藤はパリに留学経験があり、そこで入院した際に、まだ駆け出しのグレコが慰問に来て「蟻」を歌うのを生で聴いている。だからこそ、遠藤はグレコをリスペクトする沢を支援したのであろう。

ここまで沢庸子について書いてみたが、私がいまだに彼女の歌声を聴いたことがないのは痛恨である。彼女を知る人に聞いてみたところ「ただ暗いだけだった」と厳しい評価であった。
しかしながら、当時の声楽至上主義のシャンソン界において、歌声で「暗さ」を出せるのは凄いことのようにも思うのである。
資料は縁がなければ巡り合うことはできない。沢との縁が今後も続くのか、私の一番の関心事である。