シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

ジュリエット・グレコ

女性シャンソン歌手のジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)が死去したという。享年93歳。
数年前に引退を公言し、日本でもコンサートが開かれる予定だったが、本人の体調不良で中止になり、そのまま音沙汰がなかった。
今年の7月、フランスの雑誌にグレコのインタビューが掲載された。ポップ・フランセーズの評論家・向風三郎のブログによれば、グレココート・ダジュールで悠々自適な生活をしていたことが明かされた。しかし、インタビューは整然と成り立たず、彼女の言葉を拾ってまとめたような内容だったという。
そこでグレコはコロナ禍について触れ、「歌う場所がないのは悲しい。私は歌うために生まれてきたのだから」旨の発言をしている。

この発言は、私にとって重いものだ。
晩年のグレコは声が出ず、全盛期を見る影のないものであった。音楽評論家の蒲田耕二は「グレコは出ない声をしぼって」と書き、歌人塚本邦雄に至ってはそれ以前から「グレコは60年代に入って終わった」と言い捨てた。
とはいえ、私は50年代のグレコの「私は私(Je suis comme je suis)」や「そのつもりでも(Si tu timagines)」のような、尖った少女のような歌声よりも70年あたりの大人になって落ち着いた歌声を愛する。
2000年代、グレコの歌声はまさに「出ない声をしぼって」になる。そのときにリリースした実質ラストアルバムとなった「グレコ、ブレルを歌う(Gréco chante Brel)」は、ジャック・ブレル(Jacques Brel)の楽曲のカバーだが、ブレルの詞をメロディーに合わせて朗読するように歌っているのが印象的だ。
当時、私はシャンソンのオープンマイクイベントに毎月会報を作っていたが、そこに「シャンソンの行き着くところは朗読である。これがグレコの境地」と記した。これは、今もなお変わらぬ所感だ。
グレコにとって、生きることは歌うことであり、たとえ声が枯れてもそれを曲げることができなかった。それが、グレコシャンソンを境地に至らしめたのである。

私が、今「ポエトリー・シャンソン」と称して朗読を細々と試みているのは、グレコがきっかけでもある。そう思えば、グレコの訃報は私にとって胸に迫るものがある。