シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

ジョルジュ・ムスタキ

ジョルジュ・ムスタキと船村徹 (告知あり)

「私の孤独」「時は過ぎていく」などのシャンソンで知られるシンガーソングライター、ジョルジュ・ムスタキ。そんな彼が、美空ひばりのカバー曲だったことはご存知だろうか。
そのキーパーソンは、作曲家・船村徹。「矢切の渡し」「風雪ながれ旅」「別れの一本杉」などのヒット曲を手掛けているが、美空ひばりの楽曲も数多く作っており、「みだれ髪」「ひばりの佐渡情話」などのヒット曲もある。

船村は、1961~3年にデンマークコペンハーゲンに渡り、ヨーロッパの音楽市場を視察している。そのきっかけは、ヨーロッパで高評価された1959年の東映アニメ映画「少年猿飛佐助」の音楽を船村が手掛けたことで、イギリスのEMIレコードとフランスのパテ・マルコニーレコードが彼を招致したからだ。
余談だが、このとき船村は、イギリスでEMIのオーディションを見物し、そこでビートルズが合格する瞬間に立ち会っている。

フランスのパテ・マルコニー社からは、新人歌手の育成を依頼される。そこにやってきたエジプト出身の青年が、ムスタキであった。
当時の彼は、エディット・ピアフの前座として活躍していたが、人気はイマイチ。一方で、ピアフに捧げた佳曲「ミロール」はヒットし、作詞家として他のシャンソン歌手に作品を提供していた頃だ。

ムスタキに才能を見出だした船村は、ムスタキに歌唱指導した。そして船村は、自身が作曲した美空ひばりの「哀愁波止場」「三味線マドロス」を贈ったのだ。
ムスタキは、「哀愁波止場」を「Seul avec mon reflet(私の影ひとつだけ)」、「三味線マドロス」を「Quand un marin(海の上にいるとき)」というタイトルでフランス語訳し、レコードに吹き込んだ。
1963年4月には、ひばりが所属する日本コロムビアレコードからも、「私の影とただ一人」「海から帰ってきた人」という邦題で、ムスタキのデビューシングルが発売された。しかし、両国でヒットすることはなかった。

私は「私の影とただ一人」を聴いたことがあるが、歌謡曲のメロディにフランス語が噛み合っておらず、原曲「哀愁波止場」を知ってる者からすれば紛い物、違和感の塊であった。そもそもこの曲に関しては、ファルセットを駆使して歌うひばりのイメージが強烈すぎて、男性が歌うべきではない。

私は、ムスタキは他人が作った曲を歌うシャンソン歌手にはなり得ず、「異国の人」でギリシアユダヤ人の移民としてのアイデンティティーを歌い、「時は過ぎていく」で自由に生きることを提唱したように、自分の声で自分の思いを訴えるシンガーソングライターにしかなり得なかったと思うのだ。
ちなみに、彼がシンガーソングライターとして成功したきっかけをもたらしたのは、船村やピアフではなく、ピア・コロンボのために作った「異国の人」を「君が歌うべきだよ!」と強く勧めた、歌手のセルジュ・レジアニであった。