シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

薩めぐみ

シャンソンという鎧ー薩めぐみ Ⅱ

日本からフランスに渡り、1920、30年代の「文学的シャンソン」を歌った薩めぐみは、徐々に現地で知られるようになった。1975、6年頃には、彼女のリサイタルがテレビで放送されるようになる。
そのとき彼女が歌うシャンソンの名曲「枯葉」を、テレビの前で息を飲んで観る男がいた。「枯葉」の作詞者であり、フランスの詩人、ジャック・プレヴェールである。
プレヴェールは、「こんなにも私の詞を理解し、肉薄した表現をした歌手はいない」と感嘆し、彼女のために自身の詩を提供する準備をする。「枯葉」は世界中でヒットし沢山の歌手に歌い継がれたシャンソンだが、フランスの詩聖の評価を得たのが20代の日本人女性であったことは、とてつもない名誉であろう。しかし、プレヴェールは薩を探しだすとこができず、77年に死去してしまう。遺言を引き継いだプレヴェールの未亡人が、薩と出会うのは彼の死後8カ月経ってからであった。

薩は、プレヴェールの遺言を受けて彼の詩に曲をつけてレコードに吹き込んだ。それが、1979年発売の『JAQUES PREVERT』である。
数人の男性作曲家によって曲がつけられたが、その曲調は全体的にアコースティックで、多くのプレヴェールの詩に曲をつけたジョセフ・コスマのものとは差違をつけ、かつ文学詩の雰囲気を壊さぬように配慮されている印象を受けた。

プレヴェール未亡人は遺言にしたがい、薩に彼の詩を渡すが、日本の音楽誌等の資料を読むとその内容が錯綜している。プレヴェールが薩のために書いた詩を渡した、未発表の詩を歌う許可を与えた、等の様々なエピソードが語られているのだ。
しかし、『JACQUES PREVERT』の収録曲を見る限り、プレヴェールが薩に自身の詩を使用する許可を与えた、と解釈するのが妥当だろう。なぜなら、このレコードのすべての収録曲が、1951年刊行のプレヴェールと写真家イジス・ビデルマナスによる写真詩集『春の大舞踏会』に収められた詩であるからだ(一曲のみプレヴェールの代表作「朝食」を日本語で歌った曲が収録されている。作曲はジョセフ・コスマ)。

『春の大舞踏会』は、パリの街の風景を撮ったビデルマナスの写真にプレヴェールが詩を寄せたものだ。薩のレコード発売にあわせて刊行された『現代詩手帖 プレヴェール特集』(79年3月)では、レコードに収録された詩の日本語訳と、『春の大舞踏会』に掲載された写真を見ることができる。

薩は『春の大舞踏会』のなかから、自身の気に入った詩を選びレコードに吹き込んだ。もともと『春の大舞踏会』に収められた詩には、写真に寄せたものゆえタイトルがつけられていない。なので、レコードでは曲目として、それぞれの詩の冒頭一行目、二行目を便宜上のタイトルとしている。

薩が選んだプレヴェールの詩を見ると、ふたつに分類される。ひとつはプレヴェールお得意の「童話」のような詩である。子供の夢のような世界を詩で綴り、想像力の自由を訴えている。
もうひとつは、「戦争と無関心」である。第二次大戦でナチスに支配されたフランスだが、それを忘れて無関心でいると、その悲劇は繰り返されるだろうということが綴られている。
もちろん、プレヴェールはこうしたメッセージを直接訴えてはいない。ビデルマナスの写真に写された何気ない街の風景からイメージを働かせて詩に綴り、さらに読者に想像させるようなしくみになっている。

例えば、レコードの1曲目「彼の見るものはとても美しく」は、ビデルマナスがガラスに顔を押し付ける少年を撮った写真に寄せられた詩である。長いので、内容は画像を参照してほしい。
この詩を私なりに次のように解釈した。

戦争によって廃墟になった街
人々が戦争に無関心であるかぎり、
たとえ戦争が終わっても、砕けた窓ガラスは地面に散乱したままだ。
ガラスのない窓からは、
美しく風景が見え、自由の風が吹き込んでくる。
だが、戦火に街を焼かれたときの
キナ臭さが消えることはない。
新しく生まれてくる子供たちは、鼻を押し潰されているので、
それを嗅ぎとることはできない。

詩は、読み手に多くの想像力を与えるものだ。薩は、こうした解釈を聴き手に与えるような詩を選び、楽曲として発表したのである。

このアルバムは、フランスと日本で衝撃をもって迎えられる。薩のレコードは両国で話題になり、フランスではメディアで取り上げられ、日本では札幌と東京でリサイタルが開かれた。こうして、薩は一流歌手の道を進んでいくこととなる。

以下次号。