シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

日本のシャンソン運動

かつて、ソノシートというものがあった。ペラペラのビニールに溝が掘られたレコードで、主に雑誌の付録として使用された。
そのソノシートを初めて普及させたのが『歌う雑誌 KODAMA』という雑誌であった。コダマプレス刊、昭和34年創刊である。ポピュラーや民謡などの歌、ジャズやクラシックの演奏、朗読やシナリオ劇などをソノシートに収めた内容であった。

さて、この『歌う雑誌 KODAMA』の昭和35年3月~6月号ではシャンソンが特集されている。しかし、それはフランスのものではなく、日本の作詞、作曲家による「和製シャンソン」なのだ。
「和製シャンソン」は、いわゆる「日本のシャンソン運動」と呼ばれるものがきっかけで作られた。フランスのシャンソンのように、レコード会社に縛られずに庶民の手による庶民の歌を作ろう、という目的であった。
この運動で作られた曲は、お茶の水にあったシャンソニエ「ジロー」で定期の発表会が行われ、他にもホールなどでも大きな発表会が行われていた。
私には、ライブを中心に作品を発表したところで広く普及したのだろうか、という疑問があったが、この『歌う雑誌 KODAMA』を知り、ソノシートがこの運動の一助になっていたのは新たな発見であった。新しい音楽ソフトと新しい歌が、同じ時期に結び付いたのである。

『歌う雑誌 KODAMA』のリストは次の通り。
3月 福本泰子、深緑夏代
4月 田中朗、星野みよ子
5月 田村まゆみ、ヴァイオレットシスターズ
6月 小割まさ江、佐藤サダエ

星野みよ子以降は、シャンソン関連の資料から名前を確認することはできなかった。おそらく、雑誌社専属の歌手かシャンソン以外のジャンルの歌手だろう。
収録された曲は凡作ばかりだが、深緑夏代「赤い色の記憶」を取り上げてみよう。
作詞は谷川俊太郎。彼は、詩人の作品が歌詞として歌われることを提唱し、それが「日本シャンソン運動」に迎合した。のちに作曲家・武満徹と組んで石川セリの名盤を作ったが、その根底にはこの運動がある。
谷川はフランスのシャンソンをあえて意識せずに歌詞を作った。「赤い色の記憶」にも、「千歳飴」「鳥居」「まんじゅしゃげ」などの、フォークロアじみた言葉が使われていることからも伺える。ちなみに寺山修司が、出身地である青森の土俗に注目した作品を手掛けるのはその二年後であった。
作曲は寺島尚彦。彼は「日本のシャンソン運動」を先導した第一人者であったが、その作品は当時でいうところの「シャンソン・ド・シャルム(Chanson de Charme 魅惑的なシャンソン」の影響を受けていて、正直面白味に欠ける。「赤い色の記憶」でも同じことが言える。
彼は石井好子の専属ピアニストでもあったが、彼女の公演で行った沖縄で見た風景をもとに、今に歌い継がれる名曲「さとうきび畑」(創唱はシャンソン出身の田代美代子。その後、ちあきなおみ、森山良子が歌った)を作ったのを考えると、この運動が彼にとって経験値になったのだと思う。(シャンソン歌手はもっと「さとうきび畑」を大切にすべきだ。私の知るところでは、この曲をシャンソンとして取り上げたのは、しますえよしおのみである。)

かつての「日本のシャンソン運動」を私は評価していないが、シャンソンの音楽性を日本のそれと結びつけて行く鋭意は大切なことである。彼らのスピリットは、きちんと受け継ぐべきであろう。