シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

原孝太郎

「日本シャンソン界の父 原孝太郎」

先日、札幌で美輪明宏がコンサートを催した。
そのなかで美輪が「私は、原孝太郎と東京六重奏に習ってましたからね、それでタンゴを覚えたんです」と話していた。
多分、「それって誰?」と疑問に感じる方がほとんどだったのではないだろうか、本稿で原孝太郎について紹介してみようと思う。

原は大正2年山口県出身。
武蔵野芸大で学び、昭和19年に「原孝太郎と東京六重奏団」を結成し、文部省主催の軽音楽審査会で一等賞を受賞した。
昭和27年にラジオ東京と専属契約を結び、タンゴやシャンソンを演奏する番組を持ち、国民的人気を博した。
ちなみに、流行歌としてもヒットした和製シャンソンの「水色のワルツ」(作詞・藤浦洸、作曲・高木東六、歌・二葉あき子)は、原孝太郎と東京六重奏団が伴奏している。
昭和28年にフランスよりダミアが来日公演した際には、原孝太郎と東京六重奏団が伴奏をし、全国を巡業した。
同年、原はダミアから招かれてフランスに留学し、一年間ヨーロッパを巡った。
帰国後は、シャンソンの伴奏と新人育成に力を注ぎ、「銀巴里」や原宿にあった「ラ・セーヌ」で活躍した。
平成5年、没。

原の経歴を調べてみると、彼が現在の日本シャンソン界を礎を築いた人物、いわば日本シャンソン界の父のような存在であったことが見えてきた。
まず注目したいのは、原は日本にシャンソン喫茶を作った人物だということだ。
原が活動していた「銀巴里」はもともとはキャバレーであった。
原孝太郎と東京六重奏団は、キャバレーのステージで当時流行っていたアルゼンチンタンゴを演奏するために雇われていた。
ちなみにこの時の専属歌手が、シャンソン歌手の福本泰子である。
その後フランスに留学した原は、現地でシャンソン喫茶の存在を知った。
当時の日本で生の音楽を聞ける場所は、コンサート会場やキャバレーであったが、パリでは喫茶店でコーヒーを飲みながら気軽に演奏を聴いていたのである。
その事にカルチャーショックを受けた原は、帰国後「銀巴里」を経営していた「日本観光新聞」の社長・木村達三を説得し、「銀巴里」を昼間はシャンソンが聴ける喫茶店、夜はキャバレーという営業スタイルに変えてもらう。
日本にシャンソン喫茶が誕生した瞬間であった。
ちなみにこのときの専属歌手が、喜多川祐子、只野智江子、丸山明宏(美輪明宏)である。

また、原はシャンソンの新人歌手の育成にも力を入れていく。
もともと原は、タンゴの女王・藤沢嵐子を見出だした人物であり、当時から新人育成には定評があったようだ。
先に述べた美輪と福本をはじめ、仲代圭吾、沢庸子、戸川昌子など、現在ではシャンソンの大御所といわれる人達を育成した。

以上のように、原は日本シャンソン界のメッカである「シャンソン喫茶・銀巴里」をつくり、シャンソン界の大御所達を育てた人物である。
現在の日本シャンソン界を支える歌手たちの大半が「銀巴里」出身であり、原に育てられた歌手の影響を受けた、もしくは彼らと師弟関係を結んでいることを考えると、もし原がいなければ、現在のような日本シャンソン界は成り立たなかったことになる。
まさに原は、日本シャンソン界を作った人物だと言えるのだ。

原の演奏は、ヨーロッパの軽音楽を忠実に再現した質の高いものである。
私が持っている原のレコードは2枚。
「哀愁のムード」(原孝太郎と東京六重奏団)と「小さな喫茶店 魅惑のコンチネンタルタンゴ」(原孝太郎とアンサンブルミネルバ)である。
「哀愁のムード」は戦前の流行歌と抒情歌のメロディーをヨーロッパ風に編曲したもの。
A面の流行歌をマンボ、B面の抒情歌をタンゴにアレンジしている。
「小さな喫茶店」では、ヨーロッパで作られたタンゴであるコンチネンタルタンゴを、戦前に流行したバルナバス・フォン・ゲッツィ楽団を彷彿とさせる編曲で演奏している。
「碧空」や「奥さまお手をどうぞ」は優雅に、「ジェラシー」では身悶えするような激しい演奏を繰り広げている。
なかなか聞き応えのあるレコードだ。

原孝太郎の存在は、シャンソン界からも忘れかけられていないだろうか?
私は、日本のシャンソンを研究する上で、原の存在を非常に重要視しているし、彼の功績は讃えられるべきだと考える。
日本シャンソン協会で毎年行われるプリスリーズ(日本シャンソン界に功績のあった人物に対する表彰式)で、原の名前が挙がる日を期待するばかりである。