シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

『蛙たちのLe Quatorze Juillet』

こんなにも漆黒に覆われたパリ祭があっただろうか。

7月14日はフランス革命記念日で、日本では「パリ祭」と称してシャンソンの催事があちこちで開かれる。
同時に、この日はフランスの男性歌手、レオ・フェレ(Léo Ferré)の命日でもある。フェレは、フランスで起こった学生運動五月革命」に積極的に関わるなど、反体制の人であっただけに、革命記念日に逝くとは、その精神にふさわしい。

7月15日『蛙たちのLe Quatorze Juillet』(内幸町ホール)の夜の部は、若林圭子さんとあやちクローデル×イーガルさんの出演だった。
配信で見たご両人のステージは、まさに黒に統一された世界観であった。

若林圭子さんは、フェレの楽曲に特化して歌われている。とはいえ、フェレの楽曲はあまたのシャンソンのなかでも難解の極みという印象だ。
若林さんは、そんなフェレの楽曲を我々にも分かりやすく訳詞し、歌われている。枝葉を削いで木の幹だけ残すようにして、楽曲の核心に迫ろうとする鋭意は、修行のようなストイックさを孕んでいる。
それは、彼女が歌う日本の楽曲にも現れている。アリス「チャンピオン」のカバーは、どんなコンディションであっても勝負のためにリングに立たねばならないボクサーの宿命が、ドライに歌われる。究極の男の世界を、なぜこんなにも的確に歌えるのか、私はただ驚くばかりだ。
一方で、若林さんが歌う「アカシアの雨がやむとき」は、静かで深い感動を呼ぶ。感情移入しやすい歌詞をあえて抑えて歌う際どさが、この楽曲の真の美しさを引き立てる。私は、画面越しに感涙とどまらなかった。
そんな若林さんのステージは、例えるなら墨の黒だ。黒のなかに濃淡の美しいコントラストを秘めているのである。

対して、あやちクローデル×イーガルさんのステージは、インクの黒だ。何にも染まらない、あるいは他の色をも飲み込むような屹立した黒である。
あやちさんのステージは、挑むような迫力と勢いがある。何人をも寄せ付けない気迫が漂い、観る者を圧倒させる。
中でも、ピアソラ「ロコへのバラード」(Astor Piazzolla「Balada para un loco」)は、迫力の歌声かつ最後まで隙のない緻密な世界観が構築されていて、感無量だ。楽曲の「世界はみんな狂っている」という強烈なメッセージは、聴くものを不安にさせず「狂っててもいいんだな」という安心感を呼び起こす。これは、あやちさんの説得力の巧みさであろう。

ちなみにこの昼の部で、あやちさんは老婆に扮して「オルガ」(Juliette Gréco「Olga」)「女歌手は二十歳」(Silvie Vartan「Chanteuse a vingt ans」)を歌われた。これは、老いた女が昔を偲ぶ歌謡劇である。思い出すのは能楽の「卒塔婆小町」の筋立てであるが、私は同じ能楽でも「姨捨」を取材すべきと思った。「姨捨」の老婆が月明かりに昔を偲んで舞踊る心情と幻想美を追及すれば、よりテーマ性が立ち上がるはずだ。

あと特筆したいのが、若林さんとあやちさんの幕間に登場した、円盤屋たけしさんの漫談だ。レコードに関するうんちくを面白おかしく語っているが、その話の間の取り方が絶妙だった。間が絶妙だと寒いことを言っても場がシラケない、その計算された話芸に感服した。
それにしても、フランス・ギャル(France Gall)の目の隈について、あんなに熱烈に語れる人を私ははじめて見た。
ああ、やっぱり狂っているのである(誉め言葉です)。