シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

吾が巴里よ(モン・パリ)

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで

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日本で、シャンソンが歌われ始めたのは、何時のことなのだろう、という疑問がふつふつと沸き上がった。私も誕生日を迎えたことだし、日本におけるシャンソンの誕生日も調べてみようかという、好奇心からである。

この疑問を調べる上で、私は2つの条件を設定した。

1.その楽曲がフランスの流行歌であるというのを、日本人が理解していること。
2.その楽曲が、日本で流行歌として広く認知されたこと。

以上の条件を満たしてこそ、日本でフランスの流行歌である「シャンソン」という音楽が真に認知されたと見なすことができる。

調べてみると、とあるシャンソンが大正時代の日本で認知されていたのが分かった。共産主義者たちによる労働歌「インターナショナル(International)」である。
この楽曲は、もともとは19世紀フランスの、パリ・コミューンの時期(それまでの政権をパリ市民が革命を起こして倒し、市民による新政権を樹立した)に作られた。その後、「インターナショナル」はロシアを経由して日本に入ってきた。なので、当時の日本では「インターナショナル」はロシアの楽曲として認知されていたのである。これでは、フランスのシャンソンが認知されたとはいえない。

日本のシャンソン史において、日本で最初にシャンソンが歌われたのは、昭和2年9月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「モン・パリ」の主題歌「モン・パリ」(Alibert「Mon Paris」1925)だったというのが定説である。
では、この「モン・パリ」とはいかなる内容のレビューだったのか。また、劇中で「モン・パリ」以外にはどんな楽曲が歌われたのか、という疑問が湧いてきた。もしかしたら、他にも劇中でシャンソンを歌っていれば、それも日本最初のシャンソンになるはずだからだ。

それについて調べてみると、まずこの「モン・パリ」というタイトルが誤りであることが分かった。初演のタイトルは「吾が巴里よーモン・パリ」という。当初「モン・パリ」はサブタイトルであったが、昭和3年の再演の際に「吾が巴里よ」が消されて「モン・パリ」となった。
本稿では初演に従い「吾が巴里よ」で統一する。

この「吾が巴里よ」というレビューは、岸田辰彌という演出家によって作られた。岸田は、宝塚の演出家になった後、創設者の小林一三の命で1年余り欧米視察にいく。そして、パリのレビュー(寸劇と舞踊、音楽を交えたミュージカルのようなもの)を参考にして作ったのが「吾が巴里よ」であった。

では、この「吾が巴里よ」の内容を見ていきたい。
主人公は串田福太郎という男である。演じたのは、花組組長の奈良美也子で、彼女が宝塚最初の「男役」だと言われる。ちなみに、串田福太郎は、岸田自身をモデルとしている。
串田は、宝塚を出て神戸港から出港、中国、インド、エジプトを経て、フランスのヴェルサイユ宮殿に着く。その旅の過程が、レビューによって描かれるのだ。つまり「吾が巴里よ」というタイトルのわりに、パリのことはあまり描かれない作品なのである。

この劇中で歌われた楽曲のなかで、主題歌として扱われているのが「モン・パリ」だ。この楽曲は劇中の要所要所で歌われる。
そして、旅先の国々のシーンで歌われた楽曲は以下の通りである。

「先生さらば」(神戸)
「おそろしかりし」(中国)
「ロンロンロンだ」
「花を召せや」(インド)
「とこなつの國」
「あーあーあー」(アラビア海)
「恐ろしき呪は去りて」(エジプト)
「辨當辨當(弁当の旧字)」(マルセイユ)
ヴェルサイユ」(フランス)

これらの楽曲は岸田辰彌作詞、高木和夫作曲である。つまりは、「モン・パリ」以外にはシャンソンは歌われていないことになる。

そして、このレビュー「吾が巴里よ」は大変ヒットした。いまだかつて日本になかったレビューの魅力に、人々は熱狂したのである。

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ちなみにこのレビューではじめて、宝塚では定番の「ラインダンス」が取り入れられた。ラインダンスは、マルセイユの汽車を表現するための踊りであった。当時の写真を見ると、踊り子のズボンに車輪が描かれている。
さらには、主題歌「モン・パリ」も大変ヒットした。レコードや楽譜がよく売れたという。

一見すると、この「モン・パリ」によってシャンソンは日本で歌われるようになったように思われる。しかしながら、私は当時の楽譜集の記載に注目した。
そこには、「モン・パリ」の作詞が岸田、作曲が高木とあるのだ。つまりは、「モン・パリ」は日本の楽曲として紹介され、売られていたのである。当時の日本人で、この楽曲がフランスの流行歌であることを知っていた人はどれだけいただろうか。
結果としては「モン・パリ」が、日本で最初に民衆に広く知られたシャンソンであることには変わりはない。しかし、当時の日本人が「モン・パリ」をフランスの楽曲と認知していなかったことをかんがみると、これによってシャンソンが根付いたという定説は、厳密に言えば覆されることとなる。先にのべた「インターナショナル」と同じ状況だからだ。

では真の意味で、日本人がフランスの楽曲であることを認知した上で、流行歌として口ずさむようになったのは、いつのことなのか。
それは、昭和5年10月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「パリゼット」まで待つこととなる。