シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

中原美紗緒

私が愛聴するシャンソンのアルバムのなかに、中原美紗緒さんの35周年リサイタルのCDがある。
1991年、銀座ガスホールにおけるライブ盤だが、シャンソン独特のしんみりした楽曲を廃した、華やかで健康的なステージだ。そうしたコンサートはつまらない、と思うかもしれないが、明るい楽曲をオーディエンスの心に響くようしっかりと聴かせるのが彼女の本領であり、魅力なのだ。
このコンサートの楽曲の大半はフランス語で歌われる。彼女はMCの中で「歌手活動をするなかで、このままではいけないと思い、頑張った」という主旨のことを語っており、彼女の人生に何があったのか調べてみたいと思っていた。
この度、中原美紗緒さんの自伝『唄に恋して』を読み、その片鱗を知ることができた。

美紗緒さんは1931年東京生まれ。父は陸軍省の設計士で裕福な家庭だった。そして、その父の弟は、イラストレーターの中原淳一さんである。ちなみに、「美紗緒」という名前は本名で、中原淳一さんが命名した。
美紗緒さんが歌に目覚めたのは戦時中の小学1年生のときだった。近所の音楽大生に誘われて、夫が戦地にとられた妻子のための慰問公演に参加したのがきっかけで、慰問歌手として活躍するようになり、映画にも子役で出演するようになる。
また、学校には中原淳一さんがデザインした服を着て行き、周囲から虐められるもめげずに反撃する子供であった。

高校生になった美紗緒さんは、東京芸術大学を志し、声楽とピアノの稽古に明け暮れる。その背中を押したのは、中原淳一さんと彼に私淑するシャンソン歌手の高英男さんであった。

そして芸大の声楽科に合格し、美紗緒さんは中原淳一さんの家に下宿する。その際に、中原淳一さんが主催する雑誌『それいゆ』のモデルになり、撮影後に貰ったドレスを着て通学した。
同時期、美紗緒さんは自分が今後声楽家として活動するには実力が足りないと思うようになる。そんなときに出会ったのが、リュシエンヌ・ドリール(Lucienne Delyle)のシャンソンのレコードであり、彼女はシャンソン歌手を志すようになる。

そんな彼女に力を貸したのが、中原淳一さんと高英男さんであった。当時、日本を代表するシャンソン歌手の高さんと、彼のプロデューサーのような立場だった中原淳一さんは、NHKの「虹の調べ」という音楽番組や、日本劇場の出演、さらにはレコード会社の専属契約などを、トントン拍子で進めていく。中原淳一さんは、イラストレーダーとは別の顔でシャンソンブームのインフルエンサーとして、劇場やラジオ、テレビ局などにも顔が利いたのである。
こうして美紗緒さんは、中原淳一さんの姪で『それいゆ』のモデル出身のアイドルシャンソン歌手として、活躍していく。
この時ヒットしたのが「河は呼んでいる」(L'eau vive)「フルフル」(Frou Frou)といった楽曲で、はっきりいってアイドルらしいぶりっ子な歌詞である。ただ、近所の優しいお姉さんのような安心感のある彼女の歌声は、聴くもののハートをグッと掴む。童謡のような歌詞を成熟した歌声でレコードに吹き込んだのが、彼女の強みであった。
また、テレビドラマ「あんみつ姫」の主役も当り、歌手兼女優のアイドルとして活躍していくこととなる。

そんな美紗緒さんのスケジュールは多忙を極め、ストレスを溜めながらも、着実にこなす日々を続けた。しかし30歳になるとき、周りの人が徐々に結婚していくのを目の当たりして、自身も結婚に踏み切ってしまう。
音楽と芸能界一色だった彼女にとって、家庭に入ることもまた苦痛であった。仕事と家庭の両立をするも、夫からなじられて、精神的に追い詰められていく。しかし、そんな時に子供を妊娠したことで、美紗緒さんは家庭に生きることを決めて、1966年に芸能活動を休止する。

ここまで見ると、美紗緒さんの半生は、中原淳一さんにお膳立てされてきたという印象だ。中原淳一さんに命名され、小学校に彼の服を着て行ったときから、これは運命付けられていたように思われてならない。

そんな美紗緒さんが、自分の殻を破ったのは2人の子供が小学校高学年になり、手がかからなくなった時だった。
「もう一度歌いたい」という思いが沸き上がったのである。

美紗緒さんは家庭に入る際に、使っていた楽譜などを全て焼却処分し、レコードは押入の奥底にしまい、歌番組は観ないように徹底していた。しかし、その押入からリュシエンヌ・ドリールのレコードを12年ぶりに聴き、芸能界復帰を決意するのである。

1978年に、美紗緒さんは自らの意思でカムバックを果たす。しかし、そのときは芸能界も様変わりしていた。
例えば、レコーディングだ。現役のときはオーケストラと歌手の同時録音が当たり前だったが、復帰後は伴奏と歌手の録音はバラバラ。さらには歌も、まずサビから、そのあと他のパートを歌って、最後に合成するというもので、彼女はレコードに失望してしまう。
また美紗緒さんは、「その年齢に合った楽曲を歌いたい」と思っていたが、オーディエンスが求めるのはアイドル時代の楽曲であり、そのギャップにも悩んでしまう。
そんななかで、彼女は毎日シャンソンのレコードを聴いて研究し、シャンソン専門のライブハウスである「シャンソニエ」に出演したり、教室を持ってみたり、ファッションショーで歌ってみたりしながら、切磋琢磨していく。
復帰後の美紗緒さんは、こうした手探りのなかで、歌手活動をしていたのである。

その結実が、冒頭に述べたリサイタルの音源であった。アイドル時代のような明るい楽曲をレパートリーにしつつ、フランス語での歌唱を入れることで、歌手としての成熟を魅せるステージとなっている。

このリサイタルでの佳曲は、シャルル・アズナブール「君を待つ」(Charles Aznavour「Je t'attends」)だ。

はやく来てよ あなた
澄んだ眼と 焼けた膚の
たくましいあなた
そして始めましょうよ
野性味あふれる からだの恋から
(西村達郎訳詞)

この楽曲は日本語で歌われているが、非常に良くできた官能的な歌詞だ。こうした楽曲をそつなく歌いこなすことで、美紗緒さんは自立した本当の歌手になれたのだと私は思う。

その後の美紗緒さんは、ガンに罹り、闘病しながら歌手活動を続けていたという。1997年、病没。