シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

昭和10年頃のシャンソン事情③

昭和10年頃のシャンソン事情
③戦前のシャンソンブームの立役者・倉重舜介

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先日入手した、雑誌「音楽倶楽部 パリ流行歌(しゃんそん)特集」(昭和10年7月 楽苑社)を通じ、戦前のシャンソン事情の調査報告をするシリーズ最終回。

雑誌を読むと、「シャンソニエール」というタイトルで、フランスのシャンソン歌手のプロフィールと評価を詳細に記している文章が載っている。
それを書いたのが、作曲家の倉重舜介さん(くらしげしゅんすけ。当時は「瞬輔」名義)という人物だ。

彼は、現在のシャンソンの世界では忘れられた人物である。しかし、昭和32年刊行の書籍に、彼の経歴が載っていたので紹介したい。

倉重さんは山口県の生まれで、国立音楽大学ピアノ科を卒業し、フランスに渡って作曲を学んだ。このとき、フランスの作曲家のラヴェルと対談した記事が残っている。そして、そこでシャンソンの魅力に惹き付けられた。
帰国後は、放送局関係や作曲、指揮者として活躍した。またシャンソンの影響を受けて作った楽曲、いわゆる「和製シャンソン」を発表した元祖であった。さらに、自身の楽団で「軽音楽」と称してシャンソンを演奏したり、フランスのオペレッタを編曲して上演したりなど、フランスの楽曲の普及につとめていた。
昭和13年には、日本で最初のシャンソンの楽譜集『シャンソン・アルバム』(シンフォニー楽譜社)を刊行する。私は現物を見たことがないが、フランスでも現在資料が残っていないシャンソンの数々が収められているらしい。
戦後は「オルケストル・ド・ラ・シャンソン」という楽団を主宰し、NHKラジオで放送していたが、病気のため中絶。しかし、昭和32年には活動を再開したとある。
倉重さんについて分かったのはここまでで、生年月日や、現在の消息はわからなかった。

戦前の倉重さんの活躍ぶりを見ると、単にフランスの音楽事情に精通していただけでなく、日本でシャンソンという音楽ジャンルを浸透させるために奮闘していた様子が伝わってくる。

そのために、倉重さんはフランスのシャンソンを「パリ流行歌」ではなく、きちんと「シャンソン」という名称で普及させようとした。
倉重さんは昭和9年10月に、ラジオ番組で数回に渡って自身の音楽講座を持ち、シャンソンについて大いに語ったが、放送局からの圧力から「シャンソン」という言葉は使えなかったという。
そんな時に、倉重さんが白羽の矢を立てたのが、前回も紹介した岡田静枝さんだ。岡田さんは、フランスで倉重さんに師事していた歌手?であり、帰国後は自身のラジオ番組を持っていた。その番組のなかで、彼女ははじめて「シャンソン・ドラマティク」という言葉を使い、これをきっかけに、日本で「シャンソン」という言葉が普及したが、その番組の製作指揮をしていたのが、倉重さんであった。
つまり、倉重さんは岡田さんに「シャンソン」という言葉をラジオで言わせることで、それを日本語として定着させることに成功したのである。倉重さんがいなければ、「パリ流行歌」が「シャンソン」と呼ばれるようになったのは、戦後まで待たねばならなかったかもしれない。

そして、倉重さんの最大の功績は、昭和9年に来日していた画家の藤田嗣治の妻(愛人)のマドレーヌ・藤田(Madeleine Fujita)に、日本語の訳詞でシャンソンを歌わせたことである。

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マドレーヌ・藤田は、カジノ・ド・パリというキャバレーの踊り子だったが、当時パリの寵児だった藤田が見初めて愛人となる。日本では、四番目の妻と言われているが、多分入籍はしていないのではないかと思われる。
昭和8年、藤田はマドレーヌとともに日本に帰国。その時は熱烈な歓迎を受け、藤田は国内に沢山の作品を残している。
倉重さんは、マドレーヌがパリのキャバレーの踊り子出身で歌とダンスが堪能なことと、日本語がそれなりに話せることに目をつけて、フランスのシャンソンと、自身が作曲した楽曲を日本語で歌わせることを思いつき、実現させたのだった。

このとき、マドレーヌが倉重さんとともに吹き込んだレコードは、2枚存在する。

「みんなあなたに」(相馬仁作詞、倉重舜介作曲)
「恋はつらいもの(si l'on ne s'etait pas connu)」(相馬訳。原曲はアルベール・プレジャン(Albert Préjean)のシャンソン「水夫の歌」)

「若き闘牛士(Torero)」(千家徹三訳 ロジェール・デュファ(Roger Dufas)という人のシャンソン)
「九尺二間(Une humble demeure)」(相馬訳。上記のデュファのシャンソン)

パリ帰りの有名日本人画家のフランス人妻が日本語で歌う楽曲、という触れ込みは、インパクト充分である。こうして、倉重さんは当時の日本の流行歌の世界に、フランスのシャンソンを定着させようとしたのだった。ただ、ひとつ不幸だったのは、マドレーヌのレコードが「ジャズソング」に分類されてしまったことだろう。

実はこれらの楽曲はYouTubeで聴くことができる。(「マデレイヌ藤田」で検索してください)
カタコトの日本語で歌うマドレーヌのシャンソンは、正直印象に残るようなものではない。ただ、当時のパリのキャバレーの雰囲気は伝わるような気がする。

むしろ私が驚いたのは、倉重さんの作曲の才能の豊かさだ。
それは、和製シャンソン「みんなあなたに」に表れている。

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☆みんなあなたに 
思い出します 夕べの言葉を
例え浮気な あなただとて
★みんなあなたに あなたにみんな
みんなあなたに あなたにみんな

みんなあなたに
どうせいつまで 若いだなんて
あたしは好きなの 綺麗な人が
みんなあなたに あなたにみんな
みんなあなたに あなたにみんな

この楽曲のメロディは、何も情報がないまま聴くと、まるでフランスのシャンソンのように良くできたものだ。マドレーヌに合わせて稚拙な歌詞がついてしまったが、日本人歌手のために作詞をした楽曲だったならば、間違いなくヒットしたであろう。
そしてこの楽曲は、フランスのシャンソンの基本構造と言われる、物語のストーリーを説明するクープレと、サビの部分にあたるルフランが、きちんと盛り込まれている。この楽曲ならば、☆がクープレ、★がルフランにあたる。
倉重さんが、フランスのシャンソンの特徴をきちんと理解し、それを自身の作曲に生かせる人だったのが分かる。

戦前の日本のシャンソン事情を見ていく上で、倉重舜介さんは重要人物だ。彼がいなければ、日本のシャンソンブームは、もっと遅れていたことであろう。

そしてこのシリーズの最後は、その後のマドレーヌについて、見ていきたい。
藤田とともに来日したマドレーヌだったが、病の母の見舞いのためにフランスに一時帰国する。そしてその間に、藤田は日本人女性と結婚してしまう。
それを知ったマドレーヌは、昭和11年に再び来日する。しかし、彼女が藤田の生活に入り込む余地はなかった。そして、彼女は再び日本でレコードを吹き込んでいる。これには、倉重さんは関わっていなかったと思われる。

「雨の夜は(Il pleut sur La route)」(白石正之助訳。一般的に「小雨振る径」のタイトルでしられる)
「別れ行く(Blutrote Rosen)」(堀内敬三訳。ドイツの「深紅のバラ」という楽曲)

その録音の数日後、マドレーヌは戸塚の住宅で入浴中にモルヒネ中毒で死去した。享年29才。
まさに「みんな藤田に」の薄幸な人生だったと言える。

(シリーズ完結)