シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

日本最初の来日シャンソン歌手

日本最初の来日シャンソン歌手

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日本で最初に来日したフランスのシャンソン歌手といえば、昭和28年に読売新聞社主催で公演を開いたダミア(Damia)だと言われている。日本でシャンソンがブームになったのは、ダミアの来日がきっかけだったとも言われているくらいだ。
だが調べてみると、ダミアよりも以前、昭和4年にフランスの歌手が来日していたことが分かった。
それは、リュシエンヌ・ドフランヌ(Lucienne Defrenne)という女性歌手だ。

ドフランヌについては、フランスと日本のシャンソン関係の文献に全く記載されていなかった。インターネットでは、彼女の顔写真が掲載された楽譜数点と1枚のレコードがヒットするのみで、足跡を辿ることはできなかった。
ただ、フランスの墓地に彼女と同名の人物の墓があり、墓碑には1912~97年とある。もしこれが彼女の墓であれば、17歳のときに来日したことになる。

ドフランヌが来日して出演したのは、大阪松竹座で開演された松竹楽劇部の公演「春のおどり 開国文化」というレビューであった。
竹楽劇部とは、現在の松竹株式会社が、大正11年に結成した少女歌劇団である。松竹社長の白井松次郎宝塚歌劇団を見て、大阪松竹座に専属の少女歌劇団を作ることを思い付き、結成された。
そして、その主要公演が「春のおどり」であった。当初は日本舞踊などの伝統芸能を踏襲した演目だった。しかし、昭和2年に宝塚が「吾が巴里よーモンパリ」を上演したことで、松竹楽劇部は演出家をパリに派遣し、昭和3年には洋風のレビューに一新させた。
ちなみに、のちに松竹楽劇部は東京と大阪で活動するようになる。東京では、水の江瀧子草笛光子が在籍した「松竹歌劇団(SKD)」となり、大阪では「大阪松竹歌劇(現OSK日本歌劇団)」となった。

では、なぜ松竹楽劇部の公演にドフランヌが来日して出演したのか。
直接的な史実を伝える資料は見つからなかったが、ひとつ興味深い文献を見つけた。
それは、カナダのケベック州にある都市ドラモンビルの歴史書である。
ドラモンビルは、首都のモントリオールから北東にある街で、かつてフランスの植民地だったことから、公用語はフランス語だ。

ドラモンビルの歴史書には、次のように記されている。

1930年(昭和5年)7月3日
「フランスのシャンソンの女王」の愛称で知られるマドモアゼル・リュシエンヌ・ドフランヌがドラモンビルのダヴィ学園で公演をした。夜の公演には、複数の聖職者が観覧した。

ここから見えてくるのは、ドフランヌは今で言うツアーミュージシャンだったのではないかということだ。彼女は、パリやフランスにとどまらず、アクティブにフランス語圏を巡業していたのではないかと思われる。
そんな彼女に、フランスを視察中の松竹の関係者が声をかけて、来日公演が実現したのではないだろうか。

こうして、ドフランヌは来日して大阪松竹座に出演したが、公演中にあるアクシデントに見舞われる。それは、彼女が上から降ってくる紙吹雪を吸い込んでしまい歌えなくなってしまったというものだ。
以来、松竹楽劇部では傘を持って歌うようになった。それが松竹歌劇団の代表歌「桜咲く国」を、傘を持って歌うパフォーマンスに受け継がれているのだという。
ドフランヌにしたら嫌な思い出だったであろうが、それがきっかけで彼女の名前が日本で残り、傘を持つパフォーマンスとして息づいているのだから、人生どこでどう転がるかわからないものである。

画像は1945年(昭和20年)、フランスで出版されたドフランヌの楽曲「澄んだ泉で」の楽譜。