シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

モン・パパ

ジョルジュ・ミルトンをめぐる冒険《上》
☆「モン・パパ」巴合戦

いまではすっかり忘れ去られているが、戦前の日本でフランスの男性シャンソン歌手、ジョルジュ・ミルトン(Georges Milton)が、大変な人気だったことがある。

ミルトンは、1886年(明治19年)フランス生まれ。第一次世界大戦後、歌手として成功し、やがてオペレッタ(オペラとミュージカルの中間のような音楽劇)の役者として活動した。
そんな彼は、喜劇映画に進出する。映画のなかで彼は「ブーブール(Bouboule)」という役を得て、彼を主人公にした連作映画がヒットした。
第二次世界大戦後に引退し、1970年(昭和45年)没。

ミルトン演じるブーブールシリーズの映画は、戦前日本でも上映され、大変な人気だったようだ。
今回取り上げるのは、フランスで1930年公開の「巴里っ子(Le roi des Resquilleurs=タダ見の王様)」である。この作品は、翌年の昭和6年に日本で公開された。

この映画のあらすじを解説する。
いつもスポーツの試合を「タダ見」するミルトン演じるブーブールが、会場で知り合った娘ルルと恋仲になり、デートでラグビーの試合会場に潜り込む。しかし、ブーブールが座ったのは選手席で、彼は試合に出場し勝利して、フランスの英雄となり、ルルと結ばれ、晴れて「タダ見の王様」になるという、サクセスストーリーだ。

この映画のなかで、ミルトンは2曲のシャンソンを歌っている。

「J'ai ma combine」(僕には悪知恵がある)
「C'est pour mom Papa」(私のパパのために)

そして、これらの楽曲に目をつけたのが、宝塚歌劇団であった。

宝塚歌劇団は、昭和2年にレビュー「吾が巴里よ」で「モン・パリ(Mon Paris)」、昭和5年にはレビュー「パリ・ゼット」で「すみれの花咲く頃(Quand refleuriront les lilas blanc)」などのシャンソンを取り上げ、流行らせていた。
当時の宝塚は、日本でシャンソンを紹介する役割を担っていたのである。

昭和6年10月に宝塚歌劇団が上演したのは、レビュー「ローズ・パリ」。
これは、フランスを舞台にした男女の恋愛物で、宝塚にとってはじめての恋愛劇であった。現在に至るまで、恋愛劇が宝塚の演目の主軸となったのは、この作品がきっかけであった。

この作品のあらすじも紹介したい。フランスの田舎で数学教師をしているポールは歌手を夢見て、恋人フロッシーを置いてパリに行く。しかし、ポールはスター女優のクララに恋をして振られ、さらにそれを田舎から様子を見に来たフロッシーにも知られてしまう。
その後、ポールは落ちぶれるが、フロッシーは田舎に帰らずにパリでスター歌手として活躍していた。それを知ったポールは、フロッシーと再開して結ばれるというストーリーである。

このレビューのなかで、さきほどのミルトンの楽曲「C'est pour mom Papa」が歌われている。
日本語のタイトルは、「モン・パパ」。
劇中では、ポールの姉夫妻が歌ったが、ストーリーとは何も関係のない楽曲である。

うちのパパと うちのママが話すとき
大きな声で怒鳴るは いつもママ
小さな声で謝るのは いつもパパ
古い時計 いつもパパ
大きいダイヤモンド それはママ
パパの大きなものは一つ
靴下の破れ穴
(白井鐵造訳)

この楽曲は、劇中は大町かな子という人が歌っているが、同年にポリドール・レコードから発売されたレコードは、娘役のスターだった三浦時子が吹き込んでいる。

「モン・パパ」は、映画「巴里っ子」の人気もあり、ヒット曲となった。しかしながら、これに黙ってなかったのが、レコード会社である。

昭和7年、ビクターレコードより「モン・パパ」のレコードが発売された。
吹き込んだのは、喜劇役者の「エノケン」こと榎本健一、流行歌手の二村定一のデュエットであった。ちなみに二村は、フランク永井君恋し」の創唱者である。
B面には、もうひとつのミルトンの楽曲「J'ai ma combine(僕には悪知恵がある)」を、榎本が「のんき大将」というタイトルで吹き込んでいる。
そして、宝塚を押さえて、榎本と二村のバージョンが大ヒットしてしまったのである。

うちのパパとうちのママと喧嘩して
大きな声で怒鳴るは いつもママ
いやな声で謝るのは いつもパパ
うちのパパ 毎晩遅い
うちのママ ヒステリー
暴れて怒鳴るは いつもママ
はげ頭下げるは いつもパパ
(訳詞者不詳)

宝塚の「モン・パパ」を踏襲しつつ、どきつい表現が満載の歌詞になっている。リアリティーのある夫と妻の関係を、あられのない言葉で歌い、楽しいホームソングとしてしまったのは、コメディアンの榎本の技量であろう。

そして、この「モン・パパ」は、他のレコード会社からもレコードが発売された。昭和6~7年頃には、名古屋のツルレコードより永井智子「モンパパ」×黒田進「恋の巴里っ子(僕には悪知恵がある)」が、昭和8年にはポリドールレコードより、天野喜久代「モン・パパ」×佐久間武「恋の巴里っ子」のレコードが発売されている。

ここから見えてくるのは、「モン・パパ」をもって、日本にシャンソンを紹介する役割は、宝塚歌劇団から大手レコード会社に代わったということである。
「モン・パパ」は、戦前日本のシャンソンの発信元の転換期を知ることができるキーポイント的楽曲だと言えるだろう。

そして、その後のミルトンはもうひとつ、戦前日本のシャンソン史にポイントを残していくこととなる。

以下、《下》へ。