敵性音楽ー戦時下のシャンソン
昭和16年に太平洋戦争が始まると、日本で洋楽は駆逐されていく。
とはいえ、開戦当時はそれほどではなかったようだ。なぜならば、軍部が「明るく戦争を乗り切る」という方針を推奨していたからだ。国民に我慢を強いるよりも、明るく楽しく戦時下を乗り切ったほうが、「耐えがたきを耐え」ることができるという考えだった。現に、戦時下では漫才などの娯楽が発展し、洋楽ではハワイアンが良く聴かれていたそうだ。
その流れが変わったのは、昭和18年頃からである。戦局の悪化により、「兵隊が戦っているのだから、国民も生活を引き締めなければならないのではないか」という声が高まった。
こうした声をあげたのは、軍人や一般庶民ではなく、教員や公務員などの特殊な人達であった。
その最中、当時の内閣情報府から発行されていた雑誌「写真週報 昭和18年2月3日号」に、ひとつの記事が掲載された。
それは、「米英レコードをたたき出そう」というタイトルで、敵国のレコードを捨てて、真の日本人として出直そう、という内容であった。
その上、この記事には「廃棄すべき敵性レコード」という題で、捨てるべきレコード1189枚のリストも掲載されている。
その内容は、「峠の我が家」や「ロンドンテリーの唄」などの唱歌として普及した楽曲や、「セントルイスブルース」「ダイナ」などのジャズ、「アロハ・オエ」などのハワイアンが中心だ。しかし、中には同盟国のドイツの楽曲も入っていたりして、いい加減さと同時に、とにかく洋楽を駆逐しようという不気味な意地が伝わってくる。
さらにレコード店では、このリストに掲載されたレコードを引き取るサービスをしていたようだ。
そして、このリストの中には、シャンソンのレコードも含まれている。日本語のタイトルのみでは、どれがシャンソンなのか明確に判別ができないため、それらしいタイトルのレコードを以下に示す。
【ビクターレコード】
JA555「巴里は夜もすがら」
677「モンシータ」
JK18 「巴里の夜中」
JA815「モンテカルロの一夜」
22681「オルガ」
24068「あわれなアパッシュ」
【コロムビア】
J1450「可愛いトンキン娘」
J2483「マンダレイの恋人」
J2961「ヴェニ・ヴェニ」
J2968「サ・セ・パリ」
JX91「ヴィエニ・ヴィエニ」
JX238「小さなフレンチカジノで」
【ポリドール】
A272「サ・セ・パリ」
A392「暗い日曜日」
【日本テレフンケンレコード】
30614「巴里のシャンソン」
【テイチク】
N225「靴屋の大将/小さな喫茶店」
50006「コンチネンタル」
50318「ヴァレンシア」
T8068「バラのタンゴ」
約1200枚の廃棄レコードのリストに、シャンソンのレコードは19枚しかない。全体の1%である。
これはあくまで「鬼畜米英」に基づくリストであるため、フランスのレコードが除外されたのであろう。その上、当時のフランスはドイツの占領下だったため、廃棄対象から免れたとも考えられる。とはいえ、昭和6年以降、コロムビアから大量に発売されたシャンソンのレコードがリストから漏れているのは意外であるし、一応公的にはシャンソンのレコードの所有が認められていたというのは、特筆すべき史実である。
とはいえ、当時の日本人にとって洋楽は全て「敵性音楽」という認識であったことに変わりはない。洋楽というひとつのジャンルを、国ごとに細分化する考え方がなかったのであろう。例え、同盟国のドイツやイタリアの楽曲であっても、つまりは洋楽なので敵性音楽であった。
このとばっちりを最も受けたのが、淡谷のり子さんだった。歌曲やジャズ、シャンソン、タンゴをレパートリーにする彼女にとって、この「敵性レコード」は歌手活動の封じ手に他ならなかった。
彼女は、中国の戦地で慰問公演をしているが、そこでは禁止されていたドレスを着て、メイクを施し、洋楽を歌いまくった。もちろん軍部からは叱責され、始末書を書かされた。その一方で、彼女への公演依頼は尽きることがなかったという。国策に忠実な軍人もいれば、せめて最期くらい好きな楽曲を聴いて死にたい、という人情溢れる軍人もいたからである。
当時淡谷さんが所属していた日本コロムビアレコードは、彼女にレコードを吹き込ませず、敵国の戦意喪失を狙ったラジオ放送で洋楽を歌わせていた。そして、昭和20年には一方的に彼女を解雇する。
戦後になって進駐軍が来ると、日本コロムビアは手のひらを返して、淡谷に再就職のオファーをしたが、彼女はきっぱりと断った。
淡谷さんほど、歌手として戦時中を強く生きた人はいないだろう。
ところで、慰問は戦地だけでなく軍需工場でも行われた。こちらは、軍部主導のものではなく、今でいうボランティアだったのであろう。
これに率先して参加していたのが、当時大学生だったクレイジーキャッツの植木等。彼は同級生とバンドを組んで、工場での慰問でシャンソンやジャズを披露し、女工たちに喜ばれたという。
例え軍部が洋楽を禁じても、それを聴いた人々の湧き上がる思いまでを統制することはできなかったのだ。
最後に、淡谷さんの自伝のなかにある一文を紹介したい。
「歌などというものはどんな権力で強制したところで、人々のほんとの心の底にしみ込むものではない。」
戦前日本におけるシャンソンの記事が溜まったので、本にまとめようと思います。
来年3月までに形にしたいです。