島崎雪子(しまざき ゆきこ)のこと
以前「なんで芸能人ってシャンソン歌いたがるんですか?」と質問を受けたことがある。
そのときは、上手いこと答えられなかったので、後日自分なりに調べてみると、あるサイトには
「芸能人のデビュー当時は若さで売ることができる。しかし、月日が経ってそれが難しくなると、オトナの雰囲気で売らねばならなくなるので、大人の音楽の雰囲気が漂うシャンソンを歌わせるのが手段のひとつ」
とあった。
シャンソン愛好家からすれば、そんな生半可な考えで歌うんじゃないよ!、と一喝したくなるが、本来音楽は何物にも縛られないものであり、それがどう生かされようと自由であるべきだ。それに、すべての芸能人が自分の売り込みのためだけにシャンソンを歌っているはずはないので、これ以上は何も申すまい。
では、最初に芸能人でシャンソンを歌った人は誰なのだろう?と思った。
思いついたのは、女優の島崎雪子である。
島崎は昭和6年生まれ。終戦後にバーの女給をしながら女優を志し、昭和25年に映画デビューした。黒澤明「七人の侍」をはじめとする映画に数多く出演し、女優としての活躍を見せていたが、自身のの限界を感じたらしく、昭和33年に結婚を機に引退した。ちなみに、このとき彼女は何故か差し押さえを食らい、全財産を失っている。
同年、彼女はシャンソン歌手を志し、作曲家の高木東六と彼の弟子でシャンソン歌手の宇井あきらの門下生になった。そのツテなのか、彼女は同年に来日公演をしていた女性歌手のジャックリーヌ・フランソワ(Jacqueline François)から、歌のレッスンを受けている。
シャンソン歌手に転向した島崎の活躍は目覚ましく、翌年の昭和34年には紅白歌合戦に出場した。歌ったのは、女性歌手ダリダのヒット曲「バンビーノ」(Dalida「Bambino」)。
この時の音源がネットにあったので聴いてみたが、あまり印象に残る歌声ではない。正直なところ、女優としての知名度で成功した例であろう。
https://m.bilibili.com/video/BV18D4y1D72f
その後の島崎は、門下生の発表会やシャンソニエで活躍し、昭和38年10月に自身のシャンソンの店「エポック」を銀座7丁目に開店する。
彼女は、開店資金の2000万円を田園調布の家を売って調達した。しかし、開店当時は大変だったらしく、他の店からの嫌がらせを受けたり、シャンソンの人気が低落していたのもあって、集客がままらなかった。
そんなときに、彼女は美輪明宏からお稲荷様に油揚げを供えることをアドバイスされ、やってみたところ、急に客足がのびたという。さすが美輪さん。
とはいえ、毎月の店の経費は150万円かかり、それを支払うことで精一杯だった。それでも彼女は、自分の新たなライフステージを楽しんでいたらしい。
その後「エポック」は、高級クラブに形を変えて、20年ほど営業していた。
平成26年に島崎は死去したが、人生のターニングポイントをうまく乗り切った彼女の生き方は見事である。それに、女優であった彼女にとって、シャンソンは自分の才能を生かす受け皿であったのだろう。
最初の話に戻るが、芸能人の売り込みのためにシャンソンを、ではなく、感性を磨くためにシャンソンを、と言ったらどうだろうか。そちらのほうが、素敵ではありませんか。
画像1 島崎雪子肖像
画像2 「エポック」入口。看板には、シャンソン歌手の堀内環氏、カンツォーネ歌手の近藤英一氏の名前が見える。