シャンソン歌手としての二葉あき子
昭和歌謡を代表する女性歌手、二葉あき子。
「夜のプラットホーム」や「フランチェスカの鐘」などの代表曲があるが、昭和28年から33年頃は、シャンソン歌手として紹介されることがあった。
二葉は、大正4年に広島県で生まれた。
東京音楽学校を卒業し、教職につくが、昭和11年からコロムビアレコードの専属歌手になり、流行歌手として活躍した。
戦後は、「さよならルンバ」「水色のワルツ」などのヒット曲に恵まれ、平成15年に引退するまで現役で活躍した。平成23年、死去。
そんな二葉が、シャンソン歌手として紹介されるようになったのは、昭和28年頃だ。現に、同年4月の雑誌「アサヒグラフ」には、淡谷のり子、越路吹雪らとともに「シャンソン歌手」として取り上げられている。
ちなみにこの年は、フランスから女性歌手のダミア(Damia)が来日し、日本でシャンソンブームに火が着いている。
極めつけは、昭和28年と29年の紅白歌合戦で、二葉がエディット・ピアフ(Edith Piafs)の「パダム・パダム(Padam Padam)」を歌っていることだ。
二葉がシャンソンを歌うきっかけとして考えられるのは、彼女が昭和25年に発表した「水色のワルツ」、26年の「巴里の夜」が、フランスのシャンソンを意識して作られた楽曲、いわゆる「和製シャンソン」であったことだ。彼女が、日本人の手によるシャンソンを手がけたことで、その原点であるフランスのシャンソンにもチャレンジしてみた、というのは、ストレートな理由である。
加えて、インターネットに記してあったのは、二葉が昭和30年前後から声帯に異常をきたしており、それを誤魔化すためにオリジナル曲ではなくシャンソンを歌っていた、ということだった。私はこちらのほうが真相だと思っている。
ちなみに、二葉はこの声帯異常以降、発声を低音に切り替えている。
当時の二葉がシャンソンを歌ったレコードは残っていない。もし彼女がシャンソンを歌った理由が声帯異常によるものなら、不完全なものをレコードに残したいとは思わないだろう。
彼女がシャンソンを吹き込んだのは、CD全盛期の平成11年のことである。
この年は、二葉の歌手生活65周年にあたり、その記念曲として「パダム・パダム」がシングル化した。
シングルのメインの楽曲は、ムード歌手の三島敏夫とのデュエット「星ふるデッキで」だ。そのカップリングが「パダム・パダム」である。
ちなみにこのCDが、二葉にとってラストシングルだったらしい。
二葉は「パダム・パダム」を作詞家の藤浦洸の訳詞で歌っている。おそらく、紅白歌合戦で歌ったのと同じ歌詞だろう。
わたしのうしろから ついてくる音は
過去の足音よ昨日の足音よ
いつもわたしの前を急ぐ足音は
未来の足音なの いずれめぐり来るさだめの足音
こちらが心配になるくらい「足音」を連呼する歌詞となっている。正直、上手い訳詞とは言えない。そもそも「Padam」は心臓の鼓動を表すので、「足音」とするのは間違いである。
一方で、二葉の歌声はやはり巧い。彼女は当時84才だったが、長く歌ってきた貫禄に溢れている。
そして、このとき二葉が「パダム・パダム」をシングル曲に選んだのは、次のような歌詞に共感する年齢になったからではあるまいか。
昨日の足音と明日の足音が
つづいているうちは わたしは生きている
懐かしい昨日よ 楽しい明日よ
そして今日歩む いとしいわたしの歩む足音
画像1.2 シングル「星ふるデッキで/パダム・パダム」のジャケット
画像3 昭和28年4月「アサヒグラフ」