シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

クルト・ヴァイルの本

 

 

クルト・ヴァイルの本

最近、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルに関する本を立て続けに読みました。
日本のシャンソン歌手のなかには、彼の楽曲をレパートリーにする方が見受けられますが、私は彼のことを何も知らなかったからです。

岩淵達治、早崎えりな『クルト・ヴァイル』
大田美佐子『クルト・ヴァイルの世界』

これらの本を通じて、クルト・ヴァイルには2つの見方がされていることがわかりました。
ひとつは、「ドイツ劇作家ベルトルト・ブレヒトとのコンビ」とする見方。
もうひとつは、「大衆を意識して曲作りに励んだ人物」とする見方です。
岩淵さんの本は前者、大田さんの本は後者に沿った論考が記されていました。

2つの見方の良いところをピックアップしながら、クルト・ヴァイルの経歴を記してみます。

クルト・ヴァイルは、1900年にドイツでユダヤ人として生まれました。音楽の教育を受けた彼は作曲家を志すようになります。
彼が成人する頃になると、ドイツでは今までの文化芸術を変革していこうとする動きが興ってきます。たとえば音楽では、ワーグナーに代表されるロマン派を否定した新たなオペラの創造が目指されるようになりました。

そのなかで登場したのが、劇作家のベルトルト・ブレヒトです。彼は、オペラを通じて政治思想を啓蒙したり、社会問題を提唱することを考えていました。
クルト・ヴァイルは、それに協力するようになります。

こうして完成したのが「三文オペラ」という作品でした。
クルト・ヴァイルは当時ドイツでブームだったキャバレーで歌われる楽曲(カバレット・ソング)や、ジャズをモチーフにした曲作りをしました。
「世の中が悪いから、人は悪事を働かなければ生きていけない」ということをテーマにした、ベルトルト・ブレヒトの脚本と、クルト・ヴァイルの妻で歌手のロッテ・レーニャの名唱も相まって、「三文オペラ」は、ドイツやフランスで人気となりました。

クルト・ヴァイルとベルトルト・ブレヒトのコンビは、その後も多数の作品を手掛けます。
しかし、ドイツにナチスが台頭し、ユダヤ人が迫害されるようになると、彼らはフランスに亡命します。

フランスでの、クルト・ヴァイルの評価は高く、女性シャンソン歌手のリス・ゴーティに楽曲を提供したり、音楽劇「マリー・ギャラント」を手掛けたりしました。
日本のシャンソン歌手のなかでレパートリーにされている人が多い「ユーカリ」という楽曲は、音楽劇「マリー・ギャラント」の挿入歌です。

一方で、イギリスでのクルト・ヴァイルたちの評価はあまり高くありませんでした。社会問題をオペラで取り上げる手法や過剰な演出が、あまり受け入れられなかったのです。
加えて、亡命中にクルト・ヴァイルとベルトルト・ブレヒトは、創作における意見の違いから、徐々に不仲になっていきます。
やがて、クルト・ヴァイルはミュージカルの国、アメリカへの憧れを強くしていきます。
そして、クルト・ヴァイルは1935年にアメリカに亡命しました。

アメリカでのクルト・ヴァイルとベルトルト・ブレヒトの作品の評価もまた、低いものでした。
アメリカでは、ショーは華やかであるべきものであり、思想や社会問題を提唱する内容は貧乏臭いと見られてしまったのです。

しかし、クルト・ヴァイルは、亡命者としてではなく、アメリカで生きていく決心をします。
そのために、クルト・ヴァイルは第二次世界大戦に従軍する兵士を慰める曲作りなどをして、国家に協力をしていきます。
そのためにクルト・ヴァイルは、アメリカ民謡を深く研究していました。
また、異国人の視点で「アメリカ人にとってのアメリカとは、どのような国なのか」というテーマを、労働問題や黒人差別などを通じて描いていきます。
そして、クルト・ヴァイルは1943年にアメリカの市民権を得て、二度とドイツには戻りませんでした。

こうしたアメリカに親和的なクルト・ヴァイルの姿勢は、音楽評論家の間では「ひより見主義」と酷評されてきました。
冒頭の「クルト・ヴァイルは、ベルトルト・ブレヒトのコンビ」とする見方があるのはそのためで、アメリカ時代のクルト・ヴァイルの作品は、それに比べて低評です。
しかし、アメリカでのクルト・ヴァイルは、困難なかで主義主張を曲げても生きねばならないという、強さがあるのも事実です。

こうした点は、クルト・ヴァイルの「大衆を意識した曲作りに励んだ人物」という見方にも繋がっていきます。
アメリカでのクルト・ヴァイルは、手掛けた音楽劇よりも、挿入歌が単独で人気になりました。
たとえば、ミュージカル「ニッカポッカ・ホリディ」の挿入歌「セプテンバーソング」、「ヴィーナスの接吻」の挿入歌「スピーク・ロウ」は、ジャズのナンバーとして今なお演奏されます。
アメリカでのクルト・ヴァイルは、ドイツとは異なるかたちでヒットメーカーとなったのでした。
そして彼は、1950年に急逝しました。

そんなクルト・ヴァイルの楽曲が、日本のシャンソン界で受け入れられた経緯も見ていきます。

おそらく、最初にクルト・ヴァイル作品を歌ったシャンソン歌手は、加藤登紀子さん。
1968年(昭和43年)加藤さんは、はじめてのリサイタルを草月ホールで開催しています。
その内容は、シャンソン歌手としてデビューした自分のイメージを脱却するためのものででした。当時の加藤さんは、歌手としてイベントなどに出演した際に「シャンソン歌手」と紹介されると客席が白けていくことに嫌気を感じていたらしい。
リサイタルの演出家に迎えられた佐藤信さんは、アングラ劇団「黒テント」の主催者でした。そこで上演される劇には、ベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」の楽曲が挿入されていたため、加藤さんのリサイタルのセットリストにも、クルト・ヴァイルの楽曲が必然的に並べられました。
ちなみに、加藤さんの初リサイタルのセットリストは独特すぎて、集客にも難儀し、当日取材にきた記者たちもうつむいて帰っていったと回想されています。

その一方で、シャンソン歌手としてのキャリアの向上のため、クルト・ヴァイルの作品を積極的に歌ったのが、瀬間千恵さん。
瀬間さんは、イトウ・ダンス・スタジオの公演として上演された、ベルトルト・ブレヒト、クルト・ヴァイルの「七つの大罪」に出演し、楽曲を歌われました。その翻訳と演出をした岩淵達治さんの協力もあり、瀬間さんはライブハウス「ジァンジァン」でのリサイタルで、クルト・ヴァイルの楽曲を特集したり、CDアルバムを製作したりしています。

冒頭のクルト・ヴァイルの2つの見方と照らし合わせてみましょう。
加藤さんと瀬間さんは「ベルトルト・ブレヒトのコンビ」としてのクルト・ヴァイルの作品をレパートリーにしていると言えます。

他方、「大衆を意識した曲作りに励んだ人物」としての見方で、クルト・ヴァイルの作品をレパートリーにされているのは、竹下ユキさんです。
竹下さんは、ベルトルト・ブレヒトとのコンビ作品にとらわれず、クルト・ヴァイルのアメリカ時代の楽曲も数多く歌われています。
特に面白いのは、クルト・ヴァイルがアメリカで手掛けた「闇の中の女」(脚本はモス・ハート)の挿入歌「私のお舟」と「チャイコフスキー」です。
共に竹下さんご自身の訳詞で、「私のお舟」の手からすり抜けていくような儚さと美しさ、「チャイコフスキー」のロシアの作曲家の名前を早口で歌うところを大胆にも東京の地下鉄の駅名に改編してしまうアイデアの深さに、深く感嘆するのです。

私は、クルト・ヴァイルについて知ってゆくなかで、音楽評論としては「ベルトルト・ブレヒトのコンビ」としての彼に研究価値があると思いました。
しかし、クルト・ヴァイルが作った音楽を観賞するときは、「大衆を意識した曲作りに励んだ人物」として見た方が楽しいことに気づきました。

同時に、この差異はアーティストと評論家の埋まらない溝でもあると言えるでしょう。