悼 堀内環様
10月24日、シャンソン歌手の堀内環様が亡くなられたという。
私は、氏の生前のステージを拝見することは叶わなかった。
だが、手持ちのCDアルバムを見ると、フランス民謡から、「辻馬車」などの戦前のシャンソン、さらには戦後のジャック・ブレル「アムステルダム」まで、フランスの歌謡を広くレパートリーにされていたことに驚かされる。
堀内様は、シャンソン歌手の宇井あきらさんのご門下でシャンソンを学ばれた。音大卒でありながら、ポピュラーな歌い方を追及された宇井さんとは異なり、堀内様は歌唱の基礎を重視された品位のある歌い方であったと感じている。
堀内様は、シャンソン喫茶として営業を開始して間もない「銀巴里」をはじめ、全国のライブハウスやコンサートに出演されていた。また、自身でシャンソンの会を興され、多くのお弟子さんを育成された。
シャンソン歌手、あみさんが連載されている「パリん子あみ」の堀内様のインタビューが、とても印象に残っている。
氏が、銀巴里に出演して間もない頃は、客からの評判に苦しんだという。そのようななかで試行錯誤の研鑽を積まれ、客からはじめてリクエストを貰った、シャルル・アズナブール「ラ・ボエーム」を大切に歌われているという話であった。
ある時、札幌にかつてあったシャンソニエで、堀内様と共演された歌い手さんが、氏のエピソードを聞かせてくれた。
氏は、カセットレコーダーを店に持ち込んで、自身のステージを録音し、ホテルに戻ってそれを聞き、自身の歌声をチェックしていたという。
氏が、初心を大切に長年歌われてきたのが偲ばれる。
堀内様のレパートリーのなかで印象的だったのが、ジルベール・ベコー「オペラ座のダンサー」だ。
この曲は、晩年の高英男さんが長く歌われていた。怪我で飛べなくなったバレエダンサーがオペラ座の屋上から投身自殺する内容だが、高さんは大きな身振り手振り、そしてラストに床に倒れこむところまで、劇的に歌い上げていた。まさに、高さんの一世一代の芸であった。
高さんが亡くなられた後、「パリ祭」で堀内様が「オペラ座のダンサー」を歌われたのがテレビに映った。それを見て、この曲が高さんから氏へ、そして衆生へと広く受け継がれていったのを感じた。
しかし、氏も去り、この曲をレパートリーにする歌い手が絶えて久しいのは残念である。
合掌