シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

なぜ日本のシャンソン歌手は、カンツォーネを歌うのか

「なぜ日本のシャンソン歌手は、カンツォーネを歌うのか」

日本の音楽史のなかで「カンツォーネ元年」を決めるとすれば、1958年(昭和33年)らしい。
この年、イタリアの流行歌にしてサンレモ音楽祭の入賞曲「ヴォラーレ」(ドメニコ・モドゥーニョ)が、アメリカ経由で日本にもたらされて、ヒットしたからである。また、同年のナポリ音楽祭の実況録音盤が、戦後日本におけるカンツォーネのレコード第1号として発売された。

そして、この年を境に、2人の男性歌手がカンツォーネに取り組んだことで、日本のシャンソンの世界にカンツォーネがもたらされることとなった。
1人目は、シャンソン歌手の芦野宏さん。
当時の芦野さんは、シャンソン歌手として認められ、複数のレコード会社から誘われていた時期であった。そして、1959年(昭和34年)に、芦野さんは東芝レコードと専属契約を結んでいる。
芦野さんのレコード処女作として、当時の東芝レコードの洋楽部門の担当者、石坂範一郎さんが提案したのが、カンツォーネであった。
当時のことを、芦野さんは自伝に記している。

「石坂氏は、すでにウエストミンスターからシャンソンのLPが二枚出ていることを考慮して、私の東芝での第一弾はカンツォーネのLPにしようと提案された。曲目は「ゴンドリエ」「コメ・プリマ」「ルナ・ロッサ」「ヴォラーレ」などで、タイトルはいろいろ二人で考えたすえ、『唄はゴンドラとともに』と決まり、まもなく期待をもって発売された。しかし、放送やコンサートなどで好評だったシャンソンを入れなかったので、思ったほど売れなかった。」


まず、日本のシャンソン歌手で、最初にカンツォーネをレパートリーにしたのは、芦野さんだったことが分かる。芦野さんが、音楽の流行に敏感なレコード会社に所属したことが、氏だけでなく、日本のシャンソン界のレパートリーが広がったといっても過言ではないだろう。
とはいえ、『唄はゴンドラとともに』の収録曲である「ゴンドリエ」「コメ・プリマ」はダリダ、「ルナ・ロッサ」はリュシエンヌ・ドリールによって、すでに日本ではシャンソンとして認知されていた楽曲であったことにも注目したい。いきなり、イタリアのカンツォーネではなく、日本でシャンソンとして馴染みのある楽曲を収録したことは、シャンソン歌手としての芦野さんのイメージの配慮と、新しい音楽を紹介することへの慎重さが伝わってくる。

そして、同時期にカンツォーネに取り組んだもう1人の歌手が、荒井基裕さんだ。


荒井さんは、1919年(大正8年)生まれ。陸軍の軍楽隊で管楽器を志し、終戦後はテノール歌手に転向した。そして、1954から1956年(昭和29~31年)にかけて、イタリアに留学している。そのとき、荒井さんはローマの街角で、イタリアの流行歌カンツォーネを耳にして、その虜になってしまう。
そして帰国後の1958年に日本で「ヴォラーレ」がヒットしたことで、本場のカンツォーネを日本に普及させる決心をしたのであった。

1959年(昭和34年)、荒井さんは「イタリア民謡祭」というジョイントライブを、日比谷公会堂で開く。
そのプログラムを見ると、柴田睦陸さん、藤原義江さん、立川澄人さん、大谷洌子さんなどのベテラン声楽家が歌うナポリ民謡に混ざって、シャンソン歌手の山本四郎さん、中原美紗緒さん、そして芦野宏さんがカンツォーネを披露している。この人選は、カンツォーネを日本のシャンソン歌手が歌うことで、ポピュラーソングとして普及させる狙いがあったからだろう。ちなみに、山本さん、中原さん、芦野さんは、当時のNHKのポピュラーソングの番組の専属歌手という共通点がある。
その後も、「イタリア民謡祭」は、1962年(昭和37年)に岸洋子さん、翌年は宇井あきらさん、堀内環さんをゲストに招いて開催されており、これによってシャンソン界にカンツォーネがレパートリーとして定着してゆくこととなる。

ところで、1958年(昭和33年)には、まだ日本にカンツォーネという言葉は定着していなかった。無論、イタリアの流行歌をカンツォーネと呼ぶようになったのも、荒井さんの尽力である。
その後の荒井さんは、カンツォーネを普及させるために、各地でレコードコンサートを催すようになった。
そして、荒井さん1962年(昭和37年)にイタリアの男性歌手クラウディオ・ビルラの来日公演の主催を任される。クラウディオ・ビルラは名曲「アモール・モナムール・マイラブ」を歌った歌手であり、その三越劇場での来日公演は大入りであったという。そのときの公演名が「日伊交歓カンツォーネ・コンサート」とあるので、この頃には、カンツォーネという呼び名が広まっていたと推測される。
ちなみに、このビルラの来日公演の共演者は岸洋子さんであり、やはり日本のシャンソン界とカンツォーネの繋がりが密接であったのが分かる。

現在シャンソニエで当たり前のように耳にするカンツォーネ、そのきっかけを探ると、当時の日本人の世界の音楽への関心の高さを感じることができる。それに思いを馳せながら、シャンソン歌手が歌うカンツォーネに耳を澄ませてみたい。

画像は、芦野宏さん『唄はゴンドラとともに』ジャケット、荒井基裕さん自伝『カンツォーネとともに歩いた道』