その方が楽屋からステージに現れたとき、小さなお姿に驚いた。
ゆっくりとマイクスタンドまで歩まれ、ピアノにもたれてお顔をあげたとき、その眼光の鋭さに居抜かれた。
大阪ベコーにおける出口美保様のステージを、長年の念願叶って観覧した。
出口様のシャンソンは、身を削って悟りを得る「千日行」のようである。
センチメンタル、ヒロイズム、芝居っ気、化粧っ気など、いわばシャンソンの肉体というべきものを削りに削って、骨と皮しか残さない。
ただ、出口様が歌の合間に話された、師匠の菅美沙緒様のことや、幼児期に転んで配給のビールを割って指が動かなくなったこと、空襲で燃える四天王寺の五重塔が火炎を帯びて美しかったこと、それらが記憶も含めて、氏のシャンソンであるのに気づく。
骨と皮のシャンソンの世界には、出口様自身の熱い血潮が通っているのだ。
それにしても、「さくらんぼ実る頃」に溢れる新緑の息吹、「ブルージンと皮ジャンパー」の酔いどれ歌のような哀愁、「ボンボワヤージュ」の女心の機微が、聴衆の胸に迫るのは何故だろうか。
出口様は、歌われるとその存在感が巨大になり、空間と人の心を統べてゆく。
「心を掴む」とは、まさにこのことだ。
私は出口様に、人間の本質を突き詰めるうちに徐々に線が細くなる一方でサイズが巨大化していったジャコメッティの彫刻を重ねている。
出口美保様の心身は、孤高の美として屹立している。
この日のご共演は、笠井美幸様と夏原幸子様。
笠井様の「君踊るとき」は、ジルベール・ベコーのシャンソン。パンチのある歌声と丁寧な歌い上げが素晴らしかった。
この曲は、アグレッシブで攻めると騒がしく、きっちり歌うとつまらない、双方のバランスが求められるが、笠井様は絶妙な平衡感覚で聴衆の心を捉えていた。
夏原様は、歌声やステージアクト、トークに至るまで愛らしく、まさに「いとはん」という印象。
心に残ったのは、ご自身の訳詞によるマリー・デュバ「幻覚のタンゴ」。ユーカリの葉を刻んでタバコにしたり、ナフタリンを鼻から吸う狂気を、おどろおどろしく表現せず、子供の悪戯のように歌い上げたのは、いとはんの本領であろう。