シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

日本におけるイヴェット・ジローという存在

日本のシャンソン史のなかで、イヴェット・ジローはどのように位置づけられるかを考えてみた。
彼女は1955年に初来日して以来、徐々に日本との交流を深め、やがて半年ずつ日本とフランスで生活するようにまでなり、それは歌手を引退する99年まで続いた。

ジローは、第二次世界大戦直後にデビューし、「あじさい娘」と「バラ色の桜と白いリンゴの花」というヒット曲をもつ。
彼女は終生、そのヒット曲を大切にしていた。
日本でのコンサートでは、これらに加えて「愛の讃歌」や「詩人の魂」(ジローはこの曲で賞を得ている)など広く知られたシャンソンを歌った。
そんな彼女を、私は日本人向けのシャンソンを歌う無思想な人だと思っていた。

先日、ジローの半自叙伝『幕が下りる前に』を読んでみた。
この本の中には、彼女の歌手としての活動の記録、そして日本での日々とその思いが記されている。

ジローは、第二次世界大戦が終わって間もなく、27歳で歌手デビューをする。
彼女の潤いのあるアルトが評判となり、ヨーロッパに駐留するフランス、イギリス、アメリカなどの軍人への慰問が主な活動だった。
彼女の転機は、ピアニストのマルク・エランとの婚約であった。
エランは、当時ヒットしていたグループ「シャンソンの友」のメインメンバーであり、ジローは彼をグループから引き抜くようなかたちで結婚してしまった。
ジローは明言していないが、このことは芸能界での確執を生んでしまったと推測される
夫婦は、新たなプロダクションと契約して海外への巡業を行うようになる。

1955年の初来日は、本来ジロー夫婦の10日間のバカンスの予定だった。
しかし、飛行機から降りると日本人からの熱烈な出迎えを受け、さらにはその10日間でリサイタルやラジオ番組の出演などの日程が組まれていた。
この時、ホストをつとめたのはシャンソン評論家の蘆原英了さんであった。
ジロー夫婦は、蘆原さんから日本でのしきたりを学びつつ、10日間の日程をこなした。
ちなみに、当時の日本人はジローを「二郎」を捉え、さらにその低音の歌声から、彼女を「ムッシュ・ジロー」と勘違いしたという。

この初来日は評判を呼び、翌年以降も来日の仕事が舞い込み、ついには石井好子音楽事務所主催の巡業では6ヶ月で150本のコンサートをこなすまでになる。
この時、石井好子さんの発案でジローのコンサートの司会をつとめたのは、シャンソン歌手の田中朗さんだった。
田中さんは、それまで司会業の経験はなかったが、ジロー夫妻と接するうちにその力量に目覚め、以来多くの来日歌手の司会をつとめるようになる。

こうしたなかで、ジロー夫妻は徐々に日本に親しみ、心を開いていく。
やがて、1年の半分をフランス、もう半分を西麻布のアパートで生活し、両国での歌手活動を展開するようになった。
ちなみに、日本で仕事のゼネナルマネージャーは田中さんがつとめ、ジローが引退するまでその関係は続いた。

ところで、フランスでのジローの秘書が、演出家として知られた岡田正子さんだったことは驚いた。
当時、岡田さんは日本大使館につとめており、その縁でジローの秘書をしていたという。
ジローが来日したときは、岡田さんの実家の豪邸で過ごしたという。
岡田邸から贈られたジローお気に入りの一基の石灯籠は、彼女の邸宅の庭に飾られていた。
さらに、岡田さんの夫は外交官で作曲家の戸田邦雄さんであり、彼はジローに数篇の詞やシャンソンの訳詞を提供している。

1970年初頭、ジローは両親を亡くし、精神的に落ち込んでいた。
そのときに、日本の布教者から「禅」の思想を教えられた。
彼女は、禅の教えである「いままで詰め込んできたものを空にする」「なにもないところから、何事かを考える」という、「無我」の概念に興味を示した。

やがて彼女は、自身のシャンソン「無我」を取り入れていく。
それは、広く知られたシャンソンの数々を、はじめて知った楽曲のように歌うことであった。
そうすることで、彼女はこれまで歌い慣れたシャンソンが、そのステージごとに異なる世界が見えてくる発見をした。
彼女が日本で、日本人に馴染みのシャンソンを歌い続けたことは、禅の思想の実践だったのである。

ジローにとって、日本での歌い手として経験やスタンスは、そのスキルを高めるものであったといえよう。
日本のシャンソンファンの多くが観たことがあるであろうジローのステージを、私も一目観てみたかったと思う。