シャンソン歌手のクミコさんのオリジナル曲に「フローズン・ダイキリ」(作詞・松本隆)というのがある。
酔うとこの世の果て 境界に立って
日々の暮らしが流れる川を見るの
過去っていいね 心が和む
なるほど、これは境界線の歌だ。
現代と過去の岸辺に立って、川の流れを見つめながら、昔の思い出にひたっている。
思えば、日本のシャンソンというのは麗しき時代のパリをイメージさせる音楽だと言えるし、ならばシャンソン歌手は過去と現代の岸辺に立つ存在と言えるだろう。
しかし、境界線とは優しい世界の産物とはかぎらない。
コロナ禍の人々の分断、戦争による国々の断絶など、境界線には厳しさもつきまとう。
その厳しい境界線に立って、過去と現代を、ひいては世界を見つめているシャンソン歌手はどれほどいるだろうか。
蜂鳥あみ太=4号さんは、ライブで一切シャンソンを歌わず「ノーシャンソンでフィニッシュ」を芸風とするシャンソン歌手である。
ただ私は、あみ太さんが本当に「ノーシャンソンでフィニッシュ」をしているのか、ということが常の疑問となっている。
そんなことを思い始めたのは、あみ太さんがレパートリーにしているロシアのアレクサンドル・ヴェルティンスキー(「長い道を」)や、ピョートル・レスチェンコ(「ウイジー」)、ドイツのクルト・ヴァイル(「地獄の百合」)が故郷を追われて亡命し、流れ着いたパリで演奏活動をしていたことを知ったのがきっかけだった。
彼らの音楽はパリの人々に受け入れられただけでなく、同じ亡命者たちの心の拠り所にもなったのである。
ここで1つの問いが生まれる。
それは、たとえフランス語でなくても、パリで歌われた音楽はシャンソンになり得ないのか、というものである。
この疑問は、これまでの日本のシャンソンが見落としてきたものであり、あみ太さんがこうした楽曲を「シャンソン」と見なしていることは画期的だと言えよう。
ところで、ブラックユーモアで「フランスは旅行者には天国、移民には地獄」という言葉があるらしい。
亡命者にとって、パリは地獄であり、その住民たちに受け入れられるための音楽は、まさに血の涙のごとき「地獄シャンソン」だった。
「地獄シャンソン」、それはパリに流れ着いた者達の「怨歌」ではなかろうか。
そして、あみ太さんがそれを現代に蘇らせて絶唱する姿は、まさに「現実派」であり「悲劇的」なシャンソン歌手そのものだと言えよう。
現に、あみ太さんは亡命者たちの楽曲は歌っても、ソ連に残って音楽活動をしたウラジーミル・ヴィソーツキーやブラート・オクジャワを歌わない。(皮肉にも彼らの楽曲は、日本のシャンソン歌手たちによって広められた)
あみ太さんは、分断や断絶といった境界線に立ちつづけ、さまよえる故郷喪失者たちの心に寄り添う歌い手なのである。
あみ太さんは、こうしたバックボーンを決して表には出さない。
あくまで全身網タイツのキワモノなエンターテイメントに徹し、分かる人にだけ分かれば良いというスタンスを貫く。
こうしたインテリジェンスやヒューマニズムを語り始めると、途端にその芸が陳腐になることを、あみ太さんは熟知している。
これぞ悪魔の捨て子の叡智である。

【速報】
蜂鳥あみ太=4号&田村賢太郎 LIVE in 札幌
「ぶさほうなシャンソン」
1部 トークショー
田村賢太郎「アコーディオニストの長い道」
蜂鳥あみ太=4号「俺の名盤、この1枚」
(聞き手、峰艶二郎)
2部 白熱ライブ
「地獄シャンソンを聴け!」
日時 5月19日(月)
18時半開場
19時開演
場所 めし・カフェ・一風来
料金 4000円
(ワンオーダー制)