シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

岸洋子の転生ーアルバム「今今今」

最近、アニメの世界で「転生」ものが流行っている。
事故などで意識を亡くした主人公が、自分が今まで住んでいた世界とは別の異世界に転生して活躍するという内容である。
ところで、岸洋子が1971年に発表したアルバム「今今今ー岸洋子の魅力」(編曲は前田憲男)は、まさにこれまでの彼女のイメージから転生を果たした実験作であった。

このアルバムが発売される前年、岸洋子膠原病に倒れ、生死の淵を彷徨った。
自伝によれば、その症状は意識不明や食欲不振など大変なものだったようだ。
治療の甲斐があり、翌年には歌手活動を再開した彼女はシングル「甦る明日」を発表する。

心に朝を抱いて 仰げば 空は遠く
夜の闇も歌いながら 明日の波間へ出て行く

まさに歌い手の「復活」にふさわしい歌詞である。
しかし、その同年に発表されたアルバム「今今今ー岸洋子の魅力」は、それとは異なるコンセプトが見受けられる。

このアルバムは、A面は日本の楽曲、B面は欧米の楽曲で構成される。
B面は全体的にアップテンポで、これもまた岸洋子シャンソンに対する新しいアプローチなのかもしれないが、従来のしっかりとバラードを歌い上げていた頃のほうが魅力的だ。

面白いのはA面である。
5曲目の「歌い手が去って行く時」で歌手の引退をの悲しみを切々と歌い上げたかと思いきや、6曲目の「こんな気持ちは生まれてはじめて」では、ビルから投身自殺した女性の霊が岸洋子に取り憑いているというホラーストーリーが展開する。
「こんな気持ちは生まれてはじめて」の聴きどころは、

実はかねがね岸洋子のファンで
彼女に寄り添い 歌に酔ってる

岸洋子が歌うと、男性コーラスが読経のように

実はかねがね岸洋子のファンで
彼女に抱きつき 歌に酔ってる

と歌う部分である。
岸洋子に憑依する女性の霊は何者なのか。
そのヒントはアルバムのタイトル曲「今今今」にある。
ちなみにこの「今今今」は、作曲者いずみたくの1969年のミュージカルの挿入歌だ。

二度と帰らぬ時 今
それがわたしの命
今、今、このひととき
ああ 今、この今こそ

岸洋子にとって大切なのは「甦る明日」ではなく、「二度と帰らぬ時、今」その瞬間なのである。
その感慨に至ったのは、膠原病の闘病の体験が影響していると言えよう。
つまり、岸洋子に憑依する女性の霊は闘病によって臨死した過去の自分であり、病を経てカムバックし、「今、このひととき」を生きる新たな岸洋子の転生を表現しているのである。
こうした独特な価値観を歌の世界で表現したことは、岸洋子のミステリアスな魅力だと言えよう。

なお、終戦記念日になるとシャンソニエで取り上げることが多い「死んだ男の残したものは」、シャンソン歌手の宇井あきら作曲による「おもいだして」、編曲者の前田憲男の「約束」(原曲は雪村いづみ)は、岸洋子の歌い手としての関係者への心くばりだろうか。