
青木健一さんは、「パリ祭」「シャンソン・フォリー」「フェスティバル・ドゥ・シャンソン・プリスリーズ」などのシャンソンに関わる大規模なコンサートの司会を長年つとめられている方だ。
御尊父はNHKのアナウンサーの青木一雄さんであり、まさに生まれながらにして、そのキャリアを約束された人である。
しかしながら、青木さんの人生には大きな転機があった。
それは、1年半かけてロシアからヨーロッパを経由してアフリカまで旅をし、そこからフランスに渡って2年間暮らしたことである。
そして、そのことが青木さんの自叙伝『巴里11区の屋根裏』に記されている。

この本は、青木さんがフランスから帰国して間もなく、1979年に出版されている。
このとき、青木さんはまだシャンソンの催事の司会者にはなっていない。
だがこの本には、青木さんが将来シャンソンに関わっていく運命の伏線が散りばめられているのだ。
青木さんは早稲田大学に進学し、英語は堪能でボクシングや武道、陸上競技などの経験もあり、まさに文武両道のハイスペック男子であった。
卒業後はNHKに就職するも、やがて管理社会や出世コースを歩むことを強いられる自分の人生に疑問を抱くようになったという。
3年後にNHKを退職すると、ハイヤーの運転手になった。
それは24時間勤務で、仮眠をしていても客に呼ばれれば起きなければならない過酷な環境だった。
満を持して、青木さんはアフリカに行く旅に出る決心をする。
それは、アフリカで幼い頃から憧れていたシマウマを見るための旅であり、モスクワ、ウィーン、マドリード、サハラ砂漠を経由する行程であった。
この時の青木さんは、長髪にジーンズ、ギターを抱えたまさにヒッピーの様相で、各国の日本大使館ではその外見から冷遇を受けたという。
その旅行記の一番の読みどころは、サハラ砂漠を6日間かけて車で横断する場面である。
砂に埋まったタイヤを掻き出して車を押したり、片時も水の入ったタンクを手放さなかったことや、見渡すかぎり砂地しかない生き地獄の様は、読者も喉がカラカラになってくる。
ところで、青木さんは旅の途上でギターで弾き語りをしたそうだ。
そのうちの1曲は、シャンソン歌手の青木裕史さんが青木清名義でヒットさせた「旅の終り」であったという。
そして、旅人の青木健一さんにさらなる人生の転機を与えたのも歌であった。
アフリカで念願のシマウマを見たあと、青木さんは次の行き先を考えていた。
思い描いていたのは、インドと南米に行くことであった。
そのためにアムステルダムで日本料理屋のウェイター、ストックホルムでは皿洗いのバイトをした。
しかし、青木さんはフランスで語学を学ぶ決心をする。
そのきっかけは、北アフリカの汽車のなかで居合わせたアラブの青年たちが、青木さんのギターを借りてジョルジュ・ムスタキの「時は過ぎてゆく」を弾き語ったことだった。
「これは一体誰の曲なのだろう、この歌詞の意味をきちんと理解してみたい」
こうして、青木さんは旅で出会ったフランス人の友人を頼ってフランスに行き、2年間ソルボンヌ大学で語学を勉強したのであった。
青木さんのフランスでの日々についての記述で一番目を引くのは、やはりムスタキのコンサートに行ったときのことである。
すり鉢状の劇場で、どん底の部分がステージになっており、そこに立つ白い衣装のムスタキが歌う「時は過ぎてゆく」「私の孤独」「生きる時代」、観客と一緒に歌った「異国の人」の感動は、まさにアーティストと観客の一体感の極致であったと記されている。
現在の青木さんのシャンソンのコンサートの司会をなさる原動力は、ここにあるのであった。
約4年の旅を終えて帰国した青木さんは、本のあとがきで、外国での経験や価値観の違いを理解しつつ、再び日本の社会で生きる決心を綴っている。
青木さんが、パリと東京でリーヌ・ルノーとサンクオムのステージの司会に抜擢されるのは、それから10年後のことである。