シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

小津安二郎

東京物語」などで知られる映画監督の小津安二郎は、昭和初期からシャンソンを愛聴していました。
彼が好きだったのは、

ミスタンゲット「サ・セ・パリ」
ラケル・メレ「ヴァレンシア」
(Mistinguett「Ça c'est Paris」
Raquel Meller「Valencia」)

というシャンソンでした。

戦後、小津は音楽家斎藤高順にこれらと似たような楽曲を作らせて、自身の映画作品に挿入しました。
そのタイトルは「サセレシア」。
小津自身による命名で、無論「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」のタイトルを掛け合わせたものです。

「サセレシア」を聴いてみますと、タイトルだけでなく曲調まで原曲にそっくりで、盗作云々を超越した清々しさがあります。
小津安二郎を通じて、シャンソン愛の色々なカタチを確かめることができます。

聞かせてよ愛の言葉を?

聞かせてよ愛の言葉を」という、素晴らしいシャンソンがあります。
原曲は1930年(昭和5年)にフランスでレコード化した、リュシェンヌ・ボワイエの「PARLEZ MOI D'AMOUR」。
そして、昭和7年に日本でもレコードが発売されましたが、そのときの邦題は「甘い言葉を」でした。

では「甘い言葉を」は、いつから「聞かせてよ愛の言葉を」になったのか。私はとても気になりました。

現在「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルで歌われている日本語の訳詞は、このようなものです。

聞かせてよ 好きな甘い言葉
話してよ いつものお話しを
何度でもいいのよ その言葉
「愛す」と

これは佐伯孝夫さんの訳詞で、昭和27年に淡谷のり子さんが歌いました。
しかし、そのレコードには「聞かせてよ、あまい言葉」と書いてあるのです。
タイトルが違うのです!

では「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルはどこからやって来たのか?

答えは、水星社から出版された楽譜集『シャンソンアルバム(4)』にありました。
そのなかに収録されている「あらかわひろし」さんの訳詞のタイトルが「聞かせてよ愛の言葉を」とありました。
この訳詞は、次のようなものです。

愛のその 言葉を 繰りかえし
甘くこの 胸に 囁いてネ
愛のあの 言葉を 心から
私に

つまり今日まで、佐伯孝夫さんの訳詞は、「あらかわひろし」さんの訳詞のタイトルで紹介されていたのです。
なんだか、佐伯さんに申し訳なくなってきました。

ちなみに「あらかわひろし」さんは、牧野剛さんという人のペンネームです。
しかも、牧野さんは「音羽たかし」というペンネームも使っていました。
この「音羽たかし」は、キングレコードに所属する作詞家が共有していたペンネームで、Wikipediaによれば、カンツォーネの「愛は限りなく」という楽曲を訳した「音羽たかし」は牧野さん、ジャズの「テネシーワルツ」を訳した「音羽たかし」は、和田壽三さんという人らしいです。

さらに「聞かせてよ愛の言葉を」の訳詞は、「あらかわひろし」「音羽たかし」「菅美沙緒」の3名の名前がJASRACに登録されていて、この楽曲が何かに使用されると、この3名に著作権料が分配されるらしいです。
つまりこれは、牧野剛さんを「あらかはひろし」として雇用した水星社、そして牧野さんが「音羽たかし」として勤務しているキングレコードに、著作権料が流れるように仕組まれているのです。

何事にも金銭が絡むのが芸能の世界です。しかしながら、一番損をしているのは佐伯孝夫さんです。
今さら「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルを変更するのは難しいですが、せめて私は今後「聞かせてよ、あまい言葉」のタイトルで紹介していこうと思います。

追記
調べてみたところ、昭和34年にビクターレコードから淡谷のり子聞かせてよ愛の言葉を』というタイトルのLPレコードが発売され、佐伯さんの訳詞が「聞かせてよ愛の言葉を」として掲載されていました。
あらかわひろしさんの訳詞が掲載されている『シャンソンアルバム』は昭和38年出版でした。
なので、当初「聞かせてよ、あまい言葉」として発表された訳詞のタイトルが、後年改名されたというのが真相のようです。

戦時下のシャンソン

敵性音楽ー戦時下のシャンソン

昭和16年に太平洋戦争が始まると、日本で洋楽は駆逐されていく。
とはいえ、開戦当時はそれほどではなかったようだ。なぜならば、軍部が「明るく戦争を乗り切る」という方針を推奨していたからだ。国民に我慢を強いるよりも、明るく楽しく戦時下を乗り切ったほうが、「耐えがたきを耐え」ることができるという考えだった。現に、戦時下では漫才などの娯楽が発展し、洋楽ではハワイアンが良く聴かれていたそうだ。

その流れが変わったのは、昭和18年頃からである。戦局の悪化により、「兵隊が戦っているのだから、国民も生活を引き締めなければならないのではないか」という声が高まった。
こうした声をあげたのは、軍人や一般庶民ではなく、教員や公務員などの特殊な人達であった。

その最中、当時の内閣情報府から発行されていた雑誌「写真週報 昭和18年2月3日号」に、ひとつの記事が掲載された。
それは、「米英レコードをたたき出そう」というタイトルで、敵国のレコードを捨てて、真の日本人として出直そう、という内容であった。
その上、この記事には「廃棄すべき敵性レコード」という題で、捨てるべきレコード1189枚のリストも掲載されている。
その内容は、「峠の我が家」や「ロンドンテリーの唄」などの唱歌として普及した楽曲や、「セントルイスブルース」「ダイナ」などのジャズ、「アロハ・オエ」などのハワイアンが中心だ。しかし、中には同盟国のドイツの楽曲も入っていたりして、いい加減さと同時に、とにかく洋楽を駆逐しようという不気味な意地が伝わってくる。
さらにレコード店では、このリストに掲載されたレコードを引き取るサービスをしていたようだ。

そして、このリストの中には、シャンソンのレコードも含まれている。日本語のタイトルのみでは、どれがシャンソンなのか明確に判別ができないため、それらしいタイトルのレコードを以下に示す。

【ビクターレコード】
JA555「巴里は夜もすがら」
677「モンシータ」
JK18 「巴里の夜中」
JA815「モンテカルロの一夜」
22681「オルガ」
24068「あわれなアパッシュ」

コロムビア
J1450「可愛いトンキン娘」
J2483「マンダレイの恋人」
J2961「ヴェニ・ヴェニ」
J2968「サ・セ・パリ」
JX91「ヴィエニ・ヴィエニ」
JX238「小さなフレンチカジノで」

【ポリドール】
A272「サ・セ・パリ」
A392「暗い日曜日

【日本テレフンケンレコード】
30614「巴里のシャンソン

【テイチク】
N225靴屋の大将/小さな喫茶店
50006「コンチネンタル」
50318「ヴァレンシア」
T8068「バラのタンゴ」

約1200枚の廃棄レコードのリストに、シャンソンのレコードは19枚しかない。全体の1%である。
これはあくまで「鬼畜米英」に基づくリストであるため、フランスのレコードが除外されたのであろう。その上、当時のフランスはドイツの占領下だったため、廃棄対象から免れたとも考えられる。とはいえ、昭和6年以降、コロムビアから大量に発売されたシャンソンのレコードがリストから漏れているのは意外であるし、一応公的にはシャンソンのレコードの所有が認められていたというのは、特筆すべき史実である。

とはいえ、当時の日本人にとって洋楽は全て「敵性音楽」という認識であったことに変わりはない。洋楽というひとつのジャンルを、国ごとに細分化する考え方がなかったのであろう。例え、同盟国のドイツやイタリアの楽曲であっても、つまりは洋楽なので敵性音楽であった。

このとばっちりを最も受けたのが、淡谷のり子さんだった。歌曲やジャズ、シャンソン、タンゴをレパートリーにする彼女にとって、この「敵性レコード」は歌手活動の封じ手に他ならなかった。
彼女は、中国の戦地で慰問公演をしているが、そこでは禁止されていたドレスを着て、メイクを施し、洋楽を歌いまくった。もちろん軍部からは叱責され、始末書を書かされた。その一方で、彼女への公演依頼は尽きることがなかったという。国策に忠実な軍人もいれば、せめて最期くらい好きな楽曲を聴いて死にたい、という人情溢れる軍人もいたからである。
当時淡谷さんが所属していた日本コロムビアレコードは、彼女にレコードを吹き込ませず、敵国の戦意喪失を狙ったラジオ放送で洋楽を歌わせていた。そして、昭和20年には一方的に彼女を解雇する。
戦後になって進駐軍が来ると、日本コロムビアは手のひらを返して、淡谷に再就職のオファーをしたが、彼女はきっぱりと断った。
淡谷さんほど、歌手として戦時中を強く生きた人はいないだろう。

ところで、慰問は戦地だけでなく軍需工場でも行われた。こちらは、軍部主導のものではなく、今でいうボランティアだったのであろう。
これに率先して参加していたのが、当時大学生だったクレイジーキャッツ植木等。彼は同級生とバンドを組んで、工場での慰問でシャンソンやジャズを披露し、女工たちに喜ばれたという。
例え軍部が洋楽を禁じても、それを聴いた人々の湧き上がる思いまでを統制することはできなかったのだ。

最後に、淡谷さんの自伝のなかにある一文を紹介したい。

「歌などというものはどんな権力で強制したところで、人々のほんとの心の底にしみ込むものではない。」


戦前日本におけるシャンソンの記事が溜まったので、本にまとめようと思います。
来年3月までに形にしたいです。

『戦前日本シャンソン史』自費出版100部 1300円前後

黒田進

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「日本最初のシャンソン歌手ー黒田進」

日本で、シャンソンを専門に歌う「シャンソン歌手」が登場したのは、戦後のことである。宝塚OBの橘薫さん(昭和5年にレビュー「パリ・ゼット」で「すみれの花咲く頃」を歌った人)が、その開祖だ。そして、パリの視察から帰国したイラストレーターの中原淳一さんが「シャンソン歌手」という言葉を作り、盟友の歌手、高英男さんのキャッチフレーズとしたことで、定着した。

戦前には、シャンソンを専門に歌う歌手はまだ登場していない。なぜなら、レコード会社の業界では、外国の楽曲は全て「ジャズ」というジャンルで統一されていたからだ。レコード会社の専属歌手は、アメリカのジャズ、フランスのシャンソン、ドイツのタンゴなどを「洋楽」のひとくくりで、歌わされた。

歌手の淡谷のり子さんは自伝のなかで、昭和10年頃からレコード会社の指示で、ジャズやシャンソン、タンゴなどの洋楽全般を、ごった煮で歌わされたことを回想している。彼女の後輩歌手で、洋楽全般を歌っていたディック・ミネも、同じような状況でレコードを吹き込んでいたのであろう。
ちなみに、淡谷さんがシャンソン一筋に目覚めるのは戦後になってからだ。自身が中年を迎え、自分に合った音楽のジャンルを模索するなかで、シャンソンに行き着いたという。

しかしながら、淡谷さんよりも以前、思いがけない巡り合わせで、シャンソンを多くレコードに吹き込んでいた歌手がいた。黒田進さんである。そして彼こそ、のちに「緑の地平線」や「人生劇場」などのヒットで流行歌手として活躍した楠木繁夫さんであった。

黒田進さんは、明治37年高知県で生まれた。大正13年東京音楽学校に進学するも、学生運動に荷担したことで除籍される。
昭和4年、彼は名古屋にあったレコード会社「ツルレコード」の専属歌手となる。
ツルレコードは、大正12年に創業し、NHKラジオの名古屋支局と連動して楽曲をリリースしていた。このレコード会社の商戦は独特であった。例えば、外国映画が流行ればその主題歌、エログロナンセンスが流行ればエログロ歌謡、戦争が始まれば戦時歌謡といったように、当時の流行を追いかけた楽曲を製作していたのだった。
黒田さんが入社した頃は、外国映画が流行っていたのか、彼は映画音楽を中心に吹き込んでいる。そして、昭和6年頃に発売されたレコードの中には、シャンソンが多く含まれていた。

昭和5年公開の「掻払いの一夜(Un Soir de Rafle)」から、

・「掻払いの一夜(Albert Prejean「Si l'on ne s'etait pas connu」)」

「巴里っ子(Le Roi des Resquilleurs)」より

・「恋の巴里っ子」(Georges Milton「J'ai ma combine」)

昭和7年公開の「靴屋の大将(
Le Roi du Cirage)」より、

・「あたしゃお里が懐かしい(Y'm faut mon pat'lin)」

を吹き込んでいる。

さらに面白いのは、昭和6年公開のドイツ映画「三文オペラ(Die Dreigroschenoper)」の主題歌を2曲、翌年に吹き込んでいる。

「あいくちメッキーの唄(Moritat)」
「惚れ合った二人(Tango Ballade)」

これはシャンソンではないが、後年フランスではシャンソンとして歌われ、日本でも歌われている楽曲ので、付記しておきたい。

黒田さんの歌声は、今聴いても非常に上手い。ツルレコードは、大手レコード会社に比べればB級ではあるが、歌のテクニックが豊かな彼を看板歌手にしたことは、評価するべきだ。
こうして黒田さんは、レコード会社の方針から、思いがけず昭和一桁の頃から複数のシャンソンをカバーした最初の歌手となったのであった。

最後に、黒田さんのその後を見ていきたい。
彼はツルレコードの専属のかたわら、沢山の芸名を用いて複数のレコード会社に所属していた。昭和9年、作曲家の古賀政男さんの誘いでテイチクレコードに移籍し、楠木繁夫に改名する。そこで古賀さんの作品「緑の地平線」「人生劇場」「女の階級」などのヒット曲に恵まれた。
戦後は、ヒロポン中毒と脳溢血のため歌手活動ができなくなり引退。昭和31年、自宅で首吊り自殺をした。そのとき用いたのは、娘の縄跳びだったという。



添付画像
1.黒田進肖像

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2.ツルレコードの楽曲が収録されたCD「大名古屋ジャズ」。戦前のB級レコード会社のオムニバスアルバムは、一時期多数出ていたが、これはその中でも良作。

御礼「また来る春ー高野圭吾絵画展」

「また来る春ー高野圭吾絵画展」
短い時間でしたが、無事に終了いたしました。
お力添えと応援を頂いた皆様、そしてご来場くださった方々に、心より感謝いたします。

展覧会の様子を動画にしました。
https://t.co/0VejIkniN0

よろしければ、御高覧ください。

「また来る春ー高野圭吾絵画展」

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「また来る春ー高野圭吾絵画展」

シャンソンの訳詞家として知られる高野圭吾さんは、画家としても素晴らしい作品を遺されました。
この度、高野さんの17回忌を追悼し、故郷の札幌で小さな絵画展を開く運びとなりました。

高野さんは、他の歌手からシャンソンの訳詞の依頼を受けた際、その楽曲の世界観を絵に描き、それを詞に添えて渡していました。
当展では、その小品5点と、高野さんが二科展で特選をとった50号の油彩画「春」をご覧いただきます。

「春」は、1974年に高野さんが、絵の師である東郷青児さんが主催する二科展に出品したものです。高野さんの遺品を管理されている方の、故郷で「春」を受け継いでほしいというご好意により、この度の展示に至りました。

大変申し訳ありませんが、展覧会は12月2日(木)13~16時のみの開催となります。
短時間で心苦しいですが、お越しいただければ幸いです。

「また来る春ー高野圭吾絵画展」
12月2日(木) 13~16時 入場無料

【会場】
「ギャラリー峰」
北海道札幌市白石区本通13丁目南9番8号 渡辺宅
【電話】090-9756-3413

★駐車場がありませんので、お車でのご来店はご遠慮ください。


峰艶二郎 拝

照井詠三

ジョルジュ・ミルトンをめぐる冒険《下》
ー歌手・照井詠三

前回紹介したフランスの歌手で喜劇役者のジョルジュ・ミルトン。
1932年(昭和7年)、彼が主人公「ブーブール」を演じたもうひとつの映画「靴屋の大将(Le Roi du Cirage=靴磨きの王様)」が、フランスと日本で公開された。

この映画のあらすじを紹介する。駅の靴磨きとして働くブーブールは、客のレビューの女優の靴下を汚してしまい、廃業を余儀なくされる。その後、タクシー運転手に転職すると、街で彼女を見かけて追い回し、大騒ぎになる。しかし、ブーブールは彼女に恋心を抱く。紆余曲折あって、カジノに行ったふたりは賭けに勝ち、大金を得て靴の製造会社を興し、「靴屋の大将」となる、というものだ。

この映画でもミルトンがシャンソンを2曲歌っている。

「T'en fais pas, Bouboule(心配しなくていい、ブーブール)」
「Y m'faut mon pat'lin(私の麻布が必要です? この訳し方が分かりません、どなたかご教示ください)」

この2曲は、「モン・パパ」のときのように、日本ではレコード会社の歌手によってカバーされた。リストは以下のとおり。

昭和7年、太陽レコード
榎本健一「嘆きの靴磨き(T'en fais pas, Bouboule)」×二村定一「もぐりの唄(Y m'faut mon pat'lin)」

ツルレコード
黒田進「打っちゃっとけよブブール(T'en fais pas, Bouboule)」×「あたしやお里がなつかしい(Y m'faut mon pat'lin)」

ポリドールレコード
矢追婦美子「靴屋の大将(Y m'faut mon pat'lin)」×照井詠三「ほっとけブブール(T'en fais pas, Bouboule)」

レコード会社が違えば、同じ曲でもタイトルが異なるという、なんともややこしい時代であった。

今回注目したいのは、ポリドールの照井詠三という歌手である。照井の名前には、照井瓔三、照井瀴三、照井栄三、照井榮三、という様々な表記が存在し、本人が使い分けをしていたようだ。ここでは、詠三を採用したい。

照井は、明治21年に盛岡で生まれた。郵便局で勤める傍ら、アメリカに行きたい!という夢を抱き、明治40年に渡米した。12年、アメリカで生活するなかで声楽に出会い、大正8年にフランスに渡る。そこで2年間、バリトン歌手のもとで修行して帰国した。
日本では、声楽家としてフランス歌曲の普及につとめ、ドビュッシーを紹介したのも彼らしい。YouTubeでは、彼のレコードがアップされているが、歌曲から日本民謡まで幅広く歌いこなしていたようだ。
昭和20年、東京大空襲で死去。

そんな彼のシャンソン「ほっとけブブール」である。この楽曲で一番注目したいのは、ワンコーラス目は日本語、ツーコーラス目はフランス語で歌っていることだ。おそらく、日本人がフランス語でシャンソンを歌ったレコードは、これが最初であろう。
戦後のシャンソン歌手のスタイルであった日本語&フランス語の折衷歌唱は、この時すでに完成していたのである。

さらに、照井の経歴で注目したいのは、文学詩の朗読運動をしていたことだ。照井は、「文学詩は黙読ではなく朗読することで、より深い意味を捉えることができる」という信念のもと、島崎藤村石川啄木の詩や短歌を朗読した。それは、ラジオでも流れ、レコードにも吹き込まれた。ちなみに、レコードにはバイオリンによるBGMがついているらしい。奏者は黒柳守綱黒柳徹子の父である。
彼の朗読運動は評判だったらしく、文学者が自分の作品を朗読するレコードや、戦時中は戦意高揚の詩の朗読レコードが多数作られた。

ところで、終戦後に照井の死を悼んで、再び朗読運動が起こった。中心人物は、照井と親交のあったNHK所属の津田誠。のちに、シャンソン毛皮のマリー(La Marie vison)」などの訳詞を手掛けた人物である。
津田は、照井の自宅に行くと、フランスから持ち帰った詩の朗読のレコードやシャンソンのレコードを聴かされたという。照井の朗読運動の根底には、フランスのシャンソンの影響があったのである。
津田の朗読運動は、あまり盛り上がらずに終息してしまう。しかし彼は、照井のもとで聴いたシャンソンを思いだし、文学詩に曲をつけて歌うことを思い付く。こうしてはじまったのが、レコード会社にとらわれないで日本の民衆の手による楽曲作りを目指した「日本のシャンソン運動」に発展した。
この運動も、結果的には衰退してしまったが、照井のシャンソン愛は、後進の津田に受け継がれたのである。
運動は盛り上がらなかったとはいえ、津田もまたシャンソンの訳詞家として作品を残し、いまなお歌われているのだから、照井への思いにきちんと応えたと言えるだろう。

調べてみて思ったのは、照井に戦後のシャンソンブームを体感してもらいたかったということだ。イヴ・モンタンが歌うプレヴェール、ジョルジュ・ブラッサンスが歌う中世詩、レオ・フェレが歌うボードレールルイ・アラゴンを聴くことができたら、さぞかし喜んだに違いない。
そして、彼ならきっと、日本のシャンソンにも「朗読シャンソン」という分野を築いたに違いないのである。
私が最近サボっている「ポエトリーシャンソン」も、あながち奇抜なものでなかったことが知れて、ひと安心した次第だ。