シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

銀座「鳩ぽっぽ」がロケ地のドラマ

水谷豊主演のドラマ「探偵 左文字進12」に、かつて銀座にあったシャンソニエ「鳩ぽっぽ」が出てきてびっくり。

佐野史郎演じる被疑者の亡き恋人が、シャンソン歌手として出演していた店という設定で登場しました。

 

店内の様子をはじめて見ました。

入口には、鳩ぽっぽで製作された「ハートぽっぽ」というタイトルのレコード(店の周年記念ディナーショーの実況録音盤)、広瀬敏郎さんのCD(広瀬さんは鳩ぽっぽの深夜0時からのショータイムに出演されていた)、大野修平先生編集の冊子「プチるたん」が見える。

そして、一番の驚きは店のステージの正面に辻村寿三郎さんの妖美な人形が飾られていることだ。

ジュサブロー人形の前で歌える、ジュサブロー人形と歌手を見ながらシャンソンを聴ける、なんて贅沢な店だったのだろう!

ちなみに、このドラマでは津川雅彦、朝丘雪路夫妻の娘、真由子がシャンソン歌手役で出演したり、水谷豊が「すみれの花咲く頃」を歌ったり、BGMでマイルス・デイヴィスの「枯葉」が流れたり、シャンソンが盛りだくさんな構成であった。

堀内周さんのCD

 

かねてより聴いてみたかった、堀内周さんのシングルCDを入手した。

 

堀内さんは、深緑夏代さんのご門下で歌手を志されて、京都を中心にシャンソンのお店や指導者としても活躍された方。

2019年に逝去されている。

 

このシングルは、1995年に自身の会社「オフィス・シュウ」より発売されている。

95年は終戦50年、ピアフの生誕80年にあたり、そして阪神淡路大震災が起こった。

収録曲の「鶴」は反戦歌、「愛の讃歌」はピアフ讃歌、そしてこのシングルの売上は震災支援に募金されるとある。

 

堀内さんの歌声は、往年の男性シャンソン歌手らしく品があって、ビブラートが効いたものである。

初めて聴く堀内さんの歌声を通じて、「上品(じょうぼん)」というものがあった良き時代に思いを馳せた。

ベトナムのシャンソン歌手たち

ベトナムのシャンソン歌手

 

19世紀から第二次世界大戦後まで、ベトナムはフランス領であった。

戦後になって、フランス領は資本主義国の南ベトナムとなり、社会主義国の北ベトナムとの分断の時代を迎える。

南ベトナムは、イギリスやアメリカの支援を受けて発展するが、フランス領時代の特にインテリ層はフランス語と英語、ベトナム語の3カ国語が話せたという。

やがて、ベトナム戦争が起きて、1975年に北ベトナムが南ベトナムを陥落して南北統一をすると、南ベトナムの人々はアメリカに亡命し、現在ベトナムでフランス語を話せる人々はほぼいなくなったという。

 

こうした歴史のなかで、1960年代から70年代にかけて南ベトナムルーツの歌手がフランス語や英語を用いてシャンソンをはじめとする洋楽をカバーしたり、オリジナル曲を歌うことがもてはやされた時期があった。

ベトナムにおけるフランスのシャンソンをカバーの特徴は、まずフランス語で原曲を歌ったあと、ベトナム語の訳詞で歌うという二段構造である。

これは、フランス語が分かるベトナムのインテリ層を喜ばせ、かつフランス語を知らない人々にシャンソンの魅力を伝えるという意図があった。

ベトナムにおけるシャンソンの受容は、日本のように戦前のシャンソンから現代のシャンソンまで幅広い曲をカバーするものではなく、当時最新のシャンソンをカバーするものであった。

面白いのは、ベトナム語の破裂音がフランス語との相性が良く、違和感なくベトナム訳詞のシャンソンを楽しめる点である。

この時期、フランスはいわゆるイエイエのブームであり、おそらくベトナムで最もカバーされたのはシルヴィ・ヴァルタンのシャンソンであったと思われる。

こうしたシャンソンをカバーした南ベトナムルーツの歌手は、ベトナムでデビューしてベトナム戦争でアメリカに亡命し、そこで歌手活動をするという遍歴をもれなくしている。

 

ベトナムのシャンソン歌手として、注目されるべき人は、タン・ラン(Thanh Lan)という女性である。

タン・ランは両親が南ベトナムにルーツを持ち、北ベトナムで生まれ育ったが、この経歴が彼女を波乱の人生をもたらすこととなる。

高校で音楽を学び、大学ではフランス文学を専攻して、音楽学校にも通った。

このとき、タン・ランはフランス語、英語、ベトナム語を話すことができたという。

やがて歌手デビューしたタン・ランは、上記のような原語とベトナム語の二段構造でシャンソンをはじめとする洋楽をカバーし、インテリ層を中心にファンを獲得していく。

また、タン・ランは俳優としても成功している。

注目すべきは、日本の映画監督の長田典雄が南ベトナムの首都サイゴンを舞台にした作品「ナンバーテン・ブルース」を撮るにあたり、タン・ランを主演に抜擢したことである。

この映画は、南ベトナムで殺人を犯した日本人男性が恋人のベトナム人(タン・ラン)を連れて、北ベトナムに逃亡するという物語であった。

それが縁で、タン・ランは日本のヤマハ音楽祭に出場し、日本の歌謡曲のレコードを日本語で吹き込んで発売している。

しかし、ベトナム戦争が起こると「ナンバーテン・ブルース」は公開できなくなり御蔵入りしてしまう。

この映画が公開されたのは、2013年になってからであった。

 

ベトナム戦争のさなか、多くの南ベトナムの人々が亡命するなか、タン・ランは亡命の機会を失い、ベトナムに留まることとなる。

終戦後にベトナムが社会主義国になると、タン・ランは政府から検閲を受け、音楽シーンから姿を消すこととなる。

しかし、政府から許された楽曲を歌うことや映画作品に出演すると、タン・ランの出身地である北ベトナムのイントネーションと、南ベトナム時代の素養の豊かさが感じられる歌声や演技がもてはやされる。

 

そのようななかで、1993年にタン・ランはアメリカツアーを企画し、同時に亡命を企てる。

しかし、アメリカ人たちはタン・ランを社会主義国であるベトナムのスパイと見なした。

タン・ランのコンサートの会場には、彼女を糾弾する人々で溢れたという。

タン・ランが南ベトナムにルーツを持ちながらも、ベトナム戦争後もベトナムに留まり、政府の容認のもとで芸能活動をしたことに厳しい目が集まった。

しかし、結果としてタン・ランはアメリカでの市民権と永住権を獲得し、それによってスパイの疑いは晴れることとなった。

その後、タン・ランはアメリカで自分と同じような南ベトナムルーツのフランス語を話せる亡命歌手たちと活動するが、現在は芸能活動をしていないという。

 

ちなみに、タン・ランと同じような経歴の南ベトナムルーツのシャンソン歌手は、ゴック・ラン(Ngoc Lan)、キエウ・ンガ(kiều nga)等がいる。

 

タン・ランが歌う「アイドルを探せ」

https://youtube.com/watch?v=oyQ42BCHbhg&si=FuadG8XG_mUUof1A

 

ゴック・ラン(Ngoc Lan)、キエウ・ンガ(kiều nga)が歌うシルヴィ・ヴァルタン「Toi Jamais」

https://youtube.com/watch?v=NhNIpRj9tak&si=KMaJQqYB5jFuGh5C

岩見沢 シャンソン酒場peuple 1年ぶり

1年ぶりに、岩見沢「シャンソン酒場peuple」へ。

おそらく日本で唯一、シャンソンのレコードを聴かせるシャンソニエ。

今月で現在地での営業39周年、移転前の営業歴も合わせると54周年らしい。

先日マスターから電話を貰い、「美輪さんが亡くなったのがショックだった」とのこと。

それなら一緒に美輪さんのレコードを聴きましょうよ、ということで訪店。

1977年発売のライブ盤「老女優は去りゆく」を流してもらう。

このレコード、何年か前にCD化していたけど、レコードで聴くと針を落とす音とかが重なって、なんとも温かみあるサウンドだった。

美輪さんが亡くなって、「ヨイトマケの唄」を聴きに、お店に来る客が増えたそう。

でも、そんな客に美輪さんのシャンソンを聴かせると「こういう曲を歌ってたのを知らなかった!」と、たまげるらしい。

 

その昔、岩見沢に美輪さんを呼ぶ話が持ち上がり、マスターが札幌のホテルで美輪さんと対談したらしい。

結局実現はしなかったけど、「美輪さんは小柄な人だったが、姿勢が良いので大きく見えた」とのこと。

 

話は広がって、岩見沢にイヴェット・ジローや深緑夏代さんが来た話になり、東京の銀巴里に行ったら、偶然に金子由香利さんのライブを観れたエピソードで盛り上がる。

なので、2枚目は金子さんのレコード。

「愛は燃えている」は北海道にぴったりだという、あんまり実のない話題に華が咲いた。

 

最後に1曲好きなシャンソンをかけてくれるというので、ジョセフィン・ベイカー「マヤリ」をかけてもらう。

うだるような熱帯夜にはぴったりな曲で、実は中年期の美輪さんがカバーしてたシャンソンでもある。

1年以上ほったらかしにしていたボトルのウイスキーの酔いが、いいかんじにまわってくる。(よくボトルが残ってたな⋯)

 

最後はマスターとツーショットを撮る。

思えば、数年来のお付き合いで写真を撮ったのははじめて。

額に入れて届けてほしいと言われたので、いずれまた訪店しなければならない。

 

 

 

 

昭和21年のシャンソンの楽譜集

昭和21年5月といえば、終戦から1年経っていない時期である。

そんな混迷の時期に、シャンソンの楽譜集が刊行されていたことが分かり驚いた。

 

『シャンソンアルバム Vol.1 Vol.2』は、大阪府豊中市岡町にあった「ムジク社」という出版社から刊行された。

編集発行者は、新島忠成という人物であり、詳細はわからなかった。

ただ「ムジク社」は、終戦後まもなくに楽譜を中心に刊行する出版社だったようだ。

 

表紙は青と赤の二色刷り、共に8ページ構成。

表紙画は、羽扇で口元を隠した西洋の女性がおり、背後の鏡にそのうなじが映っている。

右側にはアールヌーヴォー調の蔦模様が装飾されている。

文字のフォントも丸文字っぽくて可愛らしい。

表紙から、優雅な雰囲気が伝わってくる。

 

「Vol.1」には、ダミア「人の気も知らないで」、アルベール・プレジャン「パリの屋根の下」、スペインのタンゴ「ボレロ」(ラヴェルの「ボレロ」やジョルジュ・ゲタリーの「たそがれのボレロ」とは別の曲)が収録される。

「Vol.2」には、アルベール・プレジャンの「マドロスの唄」(映画「掻払いの一夜」の挿入歌)、リス・ゴーティーの「巴里祭」、リュシエンヌ・ボワイエの「愛の言葉を」が収録されている。

まさに戦前日本で人気だったシャンソンの代表曲が勢揃いである。

 

しかも、この楽譜集にはフランス語の原詞と日本語の訳詞の双方が記され、歌えるようになっている。

訳詞者は不明だが、「愛の言葉を」の歌詞などは、とてもロマンティックである。

 

聞かせてよ 優し愛の言葉

思い出の 楽しい語らいよ

いつの日も 君を夢に見て

悩むよ

 

私が考えるのは、この楽譜が1年前の戦時中に発売されていたら、どうなっていただろうかということである。

「非国民」と罵られ、国賊として処罰されたことだろう。

昭和20年と21年の間には常識の断絶があり、それを如実に今に伝えるのがこの「シャンソンアルバム」である。

そして戦時中とは、フランスのシャンソンに憧れ、優雅な文化趣味を夢見ても、抑圧されてしまう世の中であったことに身震いがする。

「時代によって常識は変わっても、真理は変わらない」と言ったのは美輪明宏であったが、この楽譜集は戦争が終わってもたらされた自由の結晶であり、それまで抑圧されてきたシャンソン愛の結晶であり、真理の結晶であると言えよう。

 

美輪明宏、この1曲

美輪明宏、この1曲

 

昭和30年代のシャンソンブームは、戦後日本の繁栄の象徴のように思える。

戦時中の耐え難きを耐えの日々からの開放感が、フランスの音楽文化を受け入れる豊かな土壌となったといえよう。

 

エディット・ピアフの「アコーディオン弾き」は、その時期に日本にもたらされたシャンソンである。

もともとは、第二次世界大戦直前に発表されたシャンソンで、現実派シャンソンの歌手だった初期のピアフの傑作にして、フランスの歌謡史における重要な1曲となっている。

 

このシャンソンを、美輪明宏は自身の訳詞で歌っている。

街に立つ娼婦がアコーディオン弾きと愛し合うも、やがて男は戦死し、老いた彼女は独り取り残されてしまう。

そんな女性はシャンソンのなかで歌われた絵空事の存在では決してなかった。

ピアフが生きたフランスにも、美輪が生きた日本にも沢山いたはずなのである。

しかし、こうした人々がいることは「もはや戦後ではない」というかりそめの言葉によって淘汰されてきたのではないだろうか。

美輪は、戦後日本の繁栄の象徴であるシャンソンを用いて、こうした人々の存在を汲み取った。

言うなれば、これは美輪の世の中に対する皮肉であり、反骨精神のあらわれである。

それが美輪の代表曲を創出し、かつ日本のシャンソンにおける重要な1曲たらしめたことの大きな意義を、美輪の訃報を受けて改めて考えていきたい。

 

この動画には、美輪の銀巴里でのライブ音源が収録されており、2曲目の「アコーディオン弾き」が、数ある音源のなかで一番良い。

ちなみに1曲目の「あきれたあんた」は、私がはじめて観た美輪のコンサートで最初に歌われた曲で、感慨深い。

 

https://youtube.com/watch?v=e4QZcH-VBlw&si=VtvmOFukGWZiTtOB

千和裕之様『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』

千和裕之様『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』

を拝読しました。

 

シャンソン歌手の姉妹である、深緑夏代さんと千秋みつるさんの歩みが綴られた1冊だ。

深緑さんは宝塚歌劇団で春日野八千代さんとの「カルメン」でトップスターになり、越路吹雪さんとのコンビで黄金時代を築き、退団後はシャンソン歌手として圧倒的な存在感を示すと同時に宝塚の後輩やカルチャースクールでのシャンソン教室で多くの後進の育成をした指導者として、今なおその名が語り継がれる人。

千秋さんもまた、進学の道を閉ざされて宝塚歌劇団で活躍するも、実家の家計のために映画やテレビドラマの俳優に転身。しかし目立ったヒット作には恵まれることはなかった。やがて宝塚OBと俳優の肩書を生かしてブティックを経営して、そこのパーティーやショーで歌をうたうようになると、やがて姉と同じシャンソンを志すようになった。そして現在も、姉の年齢を超えて、月に1回のシャンソニエのステージに出演している。

この2人の人生が、取材による証言と、雑誌等の資料、さらには戸籍や病院のカルテといった重要書類を精査し、詳細に記されている。

作者の実に丁寧な取材と構成力が伝わってくる。

 

ふたりの経歴を並べて一見すると、それは活躍のスケールの差から陰と陽に対比されるように思われる。

しかしながら私は、結局この姉妹は似た者同士だったのではないかと感じた。

深緑さんは宝塚でスターになるも、シャンソン歌手になってからは、越路さんのように戦後歌謡史に名前を残さなかったし、石井好子さんのように私財を投じてシャンソンの業界全体の発展に寄与することもなく、シャンソンに関わるコミュニティのなかで活躍して名声を残した人だった。

それは、本書に記された萬あきらさんのインタビューにある「うまくいかない部分もあって、ジレンマも感じていたのではないか」という発言に集約される。

この「うまくいかない部分」については、本書には触れられておらず、読者はそれについて推しはからねばならない。

私なりの結論は、深緑さんはシャンソンに心酔し、広めたいという強い思いを抱きながらも、それをプロデュースする才がなかったということだ。

その点で私はこの姉妹は似た者同士だという感を抱き、それは千秋さんの「不器用な姉妹が生きていたということ」という発言に繋がるだろう。

一方で私は、深緑さんが後進にシャンソンを指導し、それが現在の千秋さんはじめ多くの歌手の活動の原動力となり、現在までシャンソンという音楽ジャンルが存在していることに繋がっていることは、彼女だからこそできた偉業として評価したい。

 

ところで、深緑さんと千秋さんはアンチエイジングの人というのが私の印象である。

特に深緑さんは、日本のシャンソンに「老い」の概念をもたらした人だ。

代表曲「生きる」で老いてもなお精一杯生きることの尊さを歌い、「貴婦人」では落魄の美を歌った。

そして深緑さんは80歳を超えても現役を貫き、千秋さんは90歳を超えた今なおステージに立っている。

だからこそ、このアンチエイジングのイメージが際立つ姉妹の心身に、徐々に年波が寄せてくる様子は鬼気迫る。

壮絶な深緑さんの臨終に至るまでの様子や、千秋さんの人生のポリシーと積年の愛憎、後期高齢者がぶつかる障壁を抱えながらの生活の様子は、正直胸が痛んだ。

それと同時に、それを慈しむように眺め、尊厳をもって汲み取った作者に人徳に感嘆した。

この書籍の一番の白眉は、ふたりの姉妹を見つめる作者の慈愛が感じられる点だと言える。