シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

昭和21年のシャンソンの楽譜集

昭和21年5月といえば、終戦から1年経っていない時期である。

そんな混迷の時期に、シャンソンの楽譜集が刊行されていたことが分かり驚いた。

 

『シャンソンアルバム Vol.1 Vol.2』は、大阪府豊中市岡町にあった「ムジク社」という出版社から刊行された。

編集発行者は、新島忠成という人物であり、詳細はわからなかった。

ただ「ムジク社」は、終戦後まもなくに楽譜を中心に刊行する出版社だったようだ。

 

表紙は青と赤の二色刷り、共に8ページ構成。

表紙画は、羽扇で口元を隠した西洋の女性がおり、背後の鏡にそのうなじが映っている。

右側にはアールヌーヴォー調の蔦模様が装飾されている。

文字のフォントも丸文字っぽくて可愛らしい。

表紙から、優雅な雰囲気が伝わってくる。

 

「Vol.1」には、ダミア「人の気も知らないで」、アルベール・プレジャン「パリの屋根の下」、スペインのタンゴ「ボレロ」(ラヴェルの「ボレロ」やジョルジュ・ゲタリーの「たそがれのボレロ」とは別の曲)が収録される。

「Vol.2」には、アルベール・プレジャンの「マドロスの唄」(映画「掻払いの一夜」の挿入歌)、リス・ゴーティーの「巴里祭」、リュシエンヌ・ボワイエの「愛の言葉を」が収録されている。

まさに戦前日本で人気だったシャンソンの代表曲が勢揃いである。

 

しかも、この楽譜集にはフランス語の原詞と日本語の訳詞の双方が記され、歌えるようになっている。

訳詞者は不明だが、「愛の言葉を」の歌詞などは、とてもロマンティックである。

 

聞かせてよ 優し愛の言葉

思い出の 楽しい語らいよ

いつの日も 君を夢に見て

悩むよ

 

私が考えるのは、この楽譜が1年前の戦時中に発売されていたら、どうなっていただろうかということである。

「非国民」と罵られ、国賊として処罰されたことだろう。

昭和20年と21年の間には常識の断絶があり、それを如実に今に伝えるのがこの「シャンソンアルバム」である。

そして戦時中とは、フランスのシャンソンに憧れ、優雅な文化趣味を夢見ても、抑圧されてしまう世の中であったことに身震いがする。

「時代によって常識は変わっても、真理は変わらない」と言ったのは美輪明宏であったが、この楽譜集は戦争が終わってもたらされた自由の結晶であり、それまで抑圧されてきたシャンソン愛の結晶であり、真理の結晶であると言えよう。

 

美輪明宏、この1曲

美輪明宏、この1曲

 

昭和30年代のシャンソンブームは、戦後日本の繁栄の象徴のように思える。

戦時中の耐え難きを耐えの日々からの開放感が、フランスの音楽文化を受け入れる豊かな土壌となったといえよう。

 

エディット・ピアフの「アコーディオン弾き」は、その時期に日本にもたらされたシャンソンである。

もともとは、第二次世界大戦直前に発表されたシャンソンで、現実派シャンソンの歌手だった初期のピアフの傑作にして、フランスの歌謡史における重要な1曲となっている。

 

このシャンソンを、美輪明宏は自身の訳詞で歌っている。

街に立つ娼婦がアコーディオン弾きと愛し合うも、やがて男は戦死し、老いた彼女は独り取り残されてしまう。

そんな女性はシャンソンのなかで歌われた絵空事の存在では決してなかった。

ピアフが生きたフランスにも、美輪が生きた日本にも沢山いたはずなのである。

しかし、こうした人々がいることは「もはや戦後ではない」というかりそめの言葉によって淘汰されてきたのではないだろうか。

美輪は、戦後日本の繁栄の象徴であるシャンソンを用いて、こうした人々の存在を汲み取った。

言うなれば、これは美輪の世の中に対する皮肉であり、反骨精神のあらわれである。

それが美輪の代表曲を創出し、かつ日本のシャンソンにおける重要な1曲たらしめたことの大きな意義を、美輪の訃報を受けて改めて考えていきたい。

 

この動画には、美輪の銀巴里でのライブ音源が収録されており、2曲目の「アコーディオン弾き」が、数ある音源のなかで一番良い。

ちなみに1曲目の「あきれたあんた」は、私がはじめて観た美輪のコンサートで最初に歌われた曲で、感慨深い。

 

https://youtube.com/watch?v=e4QZcH-VBlw&si=VtvmOFukGWZiTtOB

千和裕之様『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』

千和裕之様『タカラヅカとシャンソンの時代 深緑夏代と千秋みつるが奏でた歌物語』

を拝読しました。

 

シャンソン歌手の姉妹である、深緑夏代さんと千秋みつるさんの歩みが綴られた1冊だ。

深緑さんは宝塚歌劇団で春日野八千代さんとの「カルメン」でトップスターになり、越路吹雪さんとのコンビで黄金時代を築き、退団後はシャンソン歌手として圧倒的な存在感を示すと同時に宝塚の後輩やカルチャースクールでのシャンソン教室で多くの後進の育成をした指導者として、今なおその名が語り継がれる人。

千秋さんもまた、進学の道を閉ざされて宝塚歌劇団で活躍するも、実家の家計のために映画やテレビドラマの俳優に転身。しかし目立ったヒット作には恵まれることはなかった。やがて宝塚OBと俳優の肩書を生かしてブティックを経営して、そこのパーティーやショーで歌をうたうようになると、やがて姉と同じシャンソンを志すようになった。そして現在も、姉の年齢を超えて、月に1回のシャンソニエのステージに出演している。

この2人の人生が、取材による証言と、雑誌等の資料、さらには戸籍や病院のカルテといった重要書類を精査し、詳細に記されている。

作者の実に丁寧な取材と構成力が伝わってくる。

 

ふたりの経歴を並べて一見すると、それは活躍のスケールの差から陰と陽に対比されるように思われる。

しかしながら私は、結局この姉妹は似た者同士だったのではないかと感じた。

深緑さんは宝塚でスターになるも、シャンソン歌手になってからは、越路さんのように戦後歌謡史に名前を残さなかったし、石井好子さんのように私財を投じてシャンソンの業界全体の発展に寄与することもなく、シャンソンに関わるコミュニティのなかで活躍して名声を残した人だった。

それは、本書に記された萬あきらさんのインタビューにある「うまくいかない部分もあって、ジレンマも感じていたのではないか」という発言に集約される。

この「うまくいかない部分」については、本書には触れられておらず、読者はそれについて推しはからねばならない。

私なりの結論は、深緑さんはシャンソンに心酔し、広めたいという強い思いを抱きながらも、それをプロデュースする才がなかったということだ。

その点で私はこの姉妹は似た者同士だという感を抱き、それは千秋さんの「不器用な姉妹が生きていたということ」という発言に繋がるだろう。

一方で私は、深緑さんが後進にシャンソンを指導し、それが現在の千秋さんはじめ多くの歌手の活動の原動力となり、現在までシャンソンという音楽ジャンルが存在していることに繋がっていることは、彼女だからこそできた偉業として評価したい。

 

ところで、深緑さんと千秋さんはアンチエイジングの人というのが私の印象である。

特に深緑さんは、日本のシャンソンに「老い」の概念をもたらした人だ。

代表曲「生きる」で老いてもなお精一杯生きることの尊さを歌い、「貴婦人」では落魄の美を歌った。

そして深緑さんは80歳を超えても現役を貫き、千秋さんは90歳を超えた今なおステージに立っている。

だからこそ、このアンチエイジングのイメージが際立つ姉妹の心身に、徐々に年波が寄せてくる様子は鬼気迫る。

壮絶な深緑さんの臨終に至るまでの様子や、千秋さんの人生のポリシーと積年の愛憎、後期高齢者がぶつかる障壁を抱えながらの生活の様子は、正直胸が痛んだ。

それと同時に、それを慈しむように眺め、尊厳をもって汲み取った作者に人徳に感嘆した。

この書籍の一番の白眉は、ふたりの姉妹を見つめる作者の慈愛が感じられる点だと言える。

古武士のような御方 悼・田中朗さん

古武士のような御方

私が田中朗さんと知り合ったのは、氏が出演していた西荻窪のライブハウス「奇聞屋」を通じて、氏からCDを買ったのがきっかけであった。
「よかったらメールで話しませんか?」
と仰るのでアドレスをお教えしたところ、その日から怒涛のようにメールが届き、返信が遅れると気揉みした文面の催促のメールが送られてきた。
(さて、これは厄介な…)
と内心思ったが、メールのやりとりをすることに応じたのは私なので、こまめに返信をする日々が始まった。

あるとき、家で飼った小鳥が死んでしまったというメールが届き、
「今日はもう何もメールに書けません…」
と悲嘆が書かれていた。
それを読んで、「田中さんは純粋な方なのだ。この頻回のメールはその表れなのだ」と感じ、私の氏に対する心情は変化していった。
ここから、私と田中さんの本当のお付き合いは始まったと思う。

シャンソンを愛し、業界に背を向けた人だった。
その根底には、戦前生まれの田中さんが戦時中の軍国少年を経て、敗戦後に国民を騙して戦争に駆り出した国家への憎悪、反権威主義があった。
その姿勢に私は薫陶を受け、田中さんのお人柄で一番好きなところである。

田中さんには、私が評論を書いていることは伏せていた。
氏は音楽評論家を嫌っていたし、私も執筆目的で田中さんに近づいたと思われるのが嫌だった。
でも、もし田中さんが拙稿を読むことがあったときのために、恥のない文章を書いてきたつもりだ(ただ、この数年は恥ずかしいものも書いた気がする…)。

なので、私は田中さんにシャンソンのことは質問しなかった。
田中さんが徒然と送ってくるメールに返信するだけであった。
なので、田中さんからシャンソンについてのメールが送られてくるととても嬉しかった。
ある時、田中さんが「銀巴里」の開店間もないころに専属歌手をしていた頃について書かれたメールが届いた。
私は、とある歌手について手持ちの資料に書いてあった情報をもとに質問を送ったところ、
「そんなのは嘘の情報。誰がデタラメを言っているのだ」
とにべもなく返され、芸能関係の資料における信用性の低さというものを実感した。

田中さんは「銀巴里」の話の中で、浅川マキを「日本のグレコ」と呼んでいた。
浅川マキと長谷川きよしの3人でライブをしたことは、楽しい思い出だったようだ。
そういえば、長谷川きよしはエッセイなどで田中さんのことを良く取り上げている。
長谷川きよしの「ミラボー橋」はフランス語で歌われているが、歌詞カードの対訳は田中さんのものであった。

田中さんはフランス語が堪能で、シャンソンだけでなくフランスからの来日歌手の通訳、公演の司会をつとめられた。
そのときの話もメールに記されていた。
ジルベール・ベコーシャルル・アズナヴール、ダリダ、ミシェル・ポルナレフなどの通訳をつとめたそうだが、なかでもイヴェット・ジローとマルク・エラン夫妻がフランスと日本の2カ国を活動拠点にしていた時期は、田中さんがゼネラルマネージャーをなさっていた。
この夫妻のお客への思いやりの深さ、不備がある公演会場であっても不平不満を言わない心の広さを尊敬されているようであった。

田中さんは司会業をするなかで、話し方の術を会得していったという。
話し始めに「あー」「えー」は言ってはならないことや、森繁久彌志ん生、小さん、徳川夢声の話術を参考にしていることを教えてくださった。
これは、数年後に私がラジオ番組をもったときに大いに生かされ、森繁と加藤道子の「日曜名作座」のテープは私にとって教材となった。

田中さんからは「良い物を見て、良い物を聴きなさい」と言われた。
田中さんが青春時代に観たというフランス映画の「リラの門」は、DVDを贈ってくださった。
ジョルジュ・ブラッサンスが出演している映画で、ルネ・クレール監督作品のなかでもストーリーがしっかりと作られた見応えのある一作だった。
今でも私が一番好きなフランス映画は「リラの門」である。

そんな田中さんのライブを観てみたいと思い立って上京したのは、2018年の晩秋のことだ。
西荻窪の「奇聞屋」の階段を降りて、店内に入るとテーブルが2列に置かれている。
そして右の壁際に座って、コーヒーカップを啜っていたのが田中さんだった。
その姿は、鎧をまとった戦国武将の肖像画のようであり、まるで「古武士」のような風格だった。
私は挨拶するのも恐ろしくなり、テーブル席の端っこに座ったのであった。

田中さんは、学生時代にフランス語を極め、歌手の道に入った。
当時はジルベール・ベコーの早口のシャンソンに惹かれて「これが新しいシャンソンだ」という発見をして、彼の曲をレパートリーにしていた。
師事したのは、ピアニストのジャック滋野であった。
やがてピアニストの菅野光亮と出会い、彼の伴奏で歌い始めたが、菅野の急死後は自らピアノの前に座り弾き語りをするようになった。
田中さんはピアノの弾くとき楽譜を置かなかった。

「訳詞とは原詞をそのまま翻訳するものではなく、その背景にあるものを掴み取るもの」
という信念をもってらっしゃった田中さんは、それを表現するために歌と歌の合間に語りを挿入した。
それは原詞を暗記した上で、アドリブで語るものであった。
なので、氏のシャンソンは同じものが歌われることがなかった。
「歌手たるもの、床屋の赤と青の回転のような、繰り返しではあってはならない」
と仰っていた。

そのときの田中さんのシャンソンは今でも覚えている。
ダミアの「かもめ」を1人の水夫の語りで10分以上歌ったり、イヴ・モンタンの傑作「はるかなる友」やミシェル・ルグランの「風のささやき」は聴き応えがあった。
私は背筋を伸ばして身を硬くして緊張しながら聴いたのであった。

休憩時間、田中さんが客席ひとつひとつに挨拶にきた。
私がメールの主であることを伝えると、
「君か、君か」
と表情がほころんだ。
先程の古武士とは打って変わっての好々爺の顔であった。

そして、ライブが終わった後も、にこやかに挨拶まわりをしている田中さんに
「あの…「ミラボー橋」がどうしても聴きたくて」
とおずおずと言うと、
「やりましょう」
と一言おっしゃった。
その瞬間に、田中さんの表情は古武士に戻っていた。
そして田中さんが再びピアノの前に座ると、帰り支度をする客席は静まり返った。
そのときのライブは、私のなかで思い出に残るシャンソンのステージの5本指に入るものだ。

それからひと月しなかったと思うが、田中さんから「耳が聞こえない」とメールが届いた。
メニエール病を患われ、聴力を失い、めまいに襲われたという。
そして12月、奇しくもこの年に「奇聞屋」もまた閉店することになった。

クリスマス近くだったと思うが、夜に田中さんから電話が来た。
「奇聞屋の最後のライブで、僕は自分の卒業式をしようと思います」
私は何も言えなかった。

田中さんとはその後もメールをしたが、その頻度は減っていった。
最後に頂いたメールは、ちょうど香港の民主化デモが過熱しているときだった。
「日本の若者も、権力に立ち向かわねばならない」
そのメールが届いた翌日に、田中さんは倒れられたと聞く。
年齢を重ねるごとに自身のシャンソンを進化させていった田中さんにとって、その道が突然閉ざされてしまったことは、どんなにか無念だったろうと思う。

田中さんと、山田風太郎の『人間往生図鑑』についてメールで話したことがある。
私が「平櫛田中という彫刻家は107歳で往生したが、30年分の木材を買い込んでいた」という話をすると、
「人間はそうありたいものだ」
と仰っていた。
いま、私もまたこのエピソードを噛み締めている。 

 

田中さんとの思い出を振り返り、私は
「良い物は良い、悪い物は悪い」
と言える人間でいたいと思った。
田中さんは自身の審美、正義、信条、純粋を貫いた人だったと感じている。

 

田中朗さんは、11月26日に逝去されました。

クミコさんのコンサート「人生は美しい、シャンソンティックな歌たち」

先日、片耳がいよいよ聞こえなくなり、もうシャンソンを聴くのは無理かなと観念しております。
そのため、最近はお誘いいただいたライブなどをお断りしておりましたが、今日はクミコさんのコンサートがあり、そちらはすでにチケットを買ってあったので、観覧しました。
もしかしたら、私にとってこれが最後のコンサートの観覧になるかもしれません。

今回のクミコさんのコンサートは、「人生は美しい、シャンソンティックな歌たち」というタイトルで、ゲストは竹島宏さんとドリアン・ロロブリジーダさん、伴奏は大貫祐一郎さんであった。

クミコさんにとって「シャンソンティック」とは何だろうか、と私は考えた。
今回のプログラムを通じて、クミコさんはシャンソンで「運命の理不尽」「人間の狂気」「絶望からの希望」を歌いたいのではないかと思った。
例えば、街の人混みに揉まれるゼスチャーをしながら歌う「群衆」では、自分の思い通りにならないで引き裂かれていく運命を表していた。
また、「バラヲ、バラヲ、クダサイ、ヒャクマンボンノ、バラヲクダサイ」と片言で絶叫する「百万本のバラ」は、「街中のバラを贈る」という凶々しい恋狂いを表現している。
そして、「人生は美しい」「愛しかない時」は、まさに絶望的な状況でも希望を見出そうとする健気な思いが歌われている。
これは初めて知ったことだが、「人生は美しい」には佐世保空襲を経験した古賀力さんが防空壕から出て見た夜明けの光景が描かれているという。

クミコさんにとって「シャンソンティック」は「ロマンティック」を単にもじったものではない、表現者としての信念が込められているように思った。

ゲストの竹島宏さんは「巴里の屋根の下」を歌われた。
いまではこの曲がシャンソニエで歌われることはめったにないが、かねてより私は若手演歌歌手が、この牧歌的なシャンソンを歌ったらどんなにか面白いだろうかと思ったので、とても満足した。
ドリアン・ロロブリジーダさんは「それぞれのテーブル」を歌われ、ちあきなおみさんへのリスペクトを感じた。
私は、アコースティックで歌われた「帰ろかな」(北島三郎)に強く惹かれた。

早瀬一也(早瀬かず椰)さんのレコード

早瀬一也(早瀬かず椰)さんのレコード

このレコードは、1968年に発売された早瀬一也さんという人のものだ。
A面の「愛の夢」はさわやかな青春歌謡、B面の「雨の中の恋」はねっとりとしたムード歌謡である。
個人的には「雨の中の恋」が早瀬さんの本領のように思う。

多分、早瀬一也さんは流行歌手としての知名度は高くなかったのだと思う。
ただ、早瀬さんにはもうひとつの顔があった。
それは「早瀬かず椰」の名前で、新橋のシャンソニエ「アダムス」の経営者をつとめていたことだ。

「アダムス」のことは、深江ゆかさんの御芳書や竹下ユキさんのブログに詳しい。
毎夜、自分のお眼鏡にかなったシャンソン歌手を1〜2名のみ出演させて、自分は決して歌うことなく経営に徹した人だったという。
こうした極上のステージを提供するお店のコンセプトは多くの人に愛され、「アダムス」は伝説の店として語り継がれているそうだ。

私は早瀬一也さんのレコードを聴きながら、なぜ氏がシャンソン歌手にならずに、裏方に徹したのかを考えている。
やはりシャンソンには、人が一生をかけてしまう魔力のようなものがあるのだと思う。
人によってはその正体を、評論家やシャンソニエの経営者など、業界を支える側から知ってみたいと思う場合があるのだろう。
早瀬さんはそれを見つけたのか、あるいはお店を営みながらそれを追い求めていたのだろうか。
私もまた、シャンソンの魔力を突き詰めようと思えば思うほど、それは遠ざかっていくのを感じている。

ちなみに、早瀬さんは2004年に若くして急逝されている。

日航ミュージックサロンのプログラム

日航ミュージックサロンのプログラム

戦後のシャンソンの資料を読んでいて、たびたび目にするのは「日航ミュージックサロン」という店の名前である。
かつて、銀座8丁目にあった銀座日航ホテルの地下にあったというライブハウスだ。

 《日航ミュージックサロンは、1959年(昭和34年)に開業したホテルの地下にあり、シャンソンを聞ける銀座の名物スポットだった。その後、バーに改装され、同ホテルも2014年(平成26年)に幕を下ろす》
([時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<11> 銀座で歌手デビュー 読売新聞オンライン)

日航ミュージックサロン」は、金子由香利さんや古賀力さんが専属歌手として出演し、平野レミさんはここで歌手デビューしたらしい。
そして、この店に出演する歌手は銀座7丁目にあった「銀巴里」には出演できなかったという話もある。
しかしながら、「日航ミュージックサロン」に関する資料は皆無に等しく、店の内装やどんな営業スタイルだったのかなど、いままで謎であった。

今回「日航ミュージックサロン」のスケジュール表を手に入れたことで、少しだけこの店の在りし日の光景が見えてきた。

このプログラムは、いつのものかは分からない。
しかし、出演者のなかに平野レミさんがおり、彼女は60年代後半の学生時代から専属歌手だったことと、1970年にレコード会社からメジャーデビューしていることを考慮して、1965〜69年頃の物だというのが推測できる。
営業は昼の喫茶、夜のライブハウスという二形態だった。
とはいえ、昼にライブを催している日もある。

ライブはシャンソンがメインで、時々ラテンのステージがあったようだ。
専属バンドは、吉村英世(寿紘)クインテット
時々、寺島尚彦さんや荻原秀樹さんのバンド、ラテンの岸笙司さんのバンドが入っている。

専属の出演者を見てみると、金子由香利さん、仲マサコさん、須美杏子さん、田代美代子さん、大木康子さん、平野レミさん、有馬泉さん、山崎肇さん、古賀力さん、川島弘さんなど、シャンソンのビッグネームが並んでいる。
また古いシャンソンの資料に出てくる、久城千永子さん、真木みのるさん、戸川聡さん、横井公二さんの名前があるのも嬉しい。
ラテンでは、「ルパン三世」の挿入歌を歌った広石吉郎YOSHIRO広石)さん、さらには菅原洋一さんまでいる。
そして、「特別出演」として、淡谷のり子さん、岸洋子さん、ビショップ節子さん、芦野宏さん、宝とも子さんといった、レコード会社に所属するメジャー歌手の名前がある。

それにしても、出演者の組み合わせもウットリする。


淡谷のり子・金子由香利・山崎肇」、「仲マサコ・須美杏子・有馬泉」、「大木康子・田代美代子・横井公二」、「仲マサコ・真木みのる・古賀力」など、語り継がれるべき人選である。

こうして見ると、「日航ミュージックサロン」は「銀巴里」とはまた異なる特色のプログラムを組んだ店だったのが分かる。
この二店が、シャンソンを通じて銀座でしのぎを削っていた時代に、しばし思いを馳せた。