シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

森敦「月山」&岸洋子「月の山」

死体のある風景 作家とシャンソン
⛰️森敦「月山」

作家の森敦は、1912年に長崎で生まれた。作家の横光利一に師事し、太宰治中原中也らと同人誌を通じて交流をもった。
45年より、妻の故郷である山形県酒田市に住むも、その後は庄内地方を点々とするようになる。
73年に発表した小説「月山(がっさん)」で、翌年の第70回芥川賞を史上最高齢の62歳で受賞した。その後も作家活動を続け、89年没。

今回は、森の小説「月山」を取り上げる。
月山とは、山形県にある出羽三山のひとつで、古来より修験道が盛んであった。また、地域の言い伝えでは、死者の魂は月山に飛んでいく、という「あの世の世界」の象徴として語られている。

物語の主人公の男は、放浪の末に月山のふもとの寒村の寺に身を寄せて冬を越す。
この村は、他の地域との交流を絶ち、密売酒でひそかに生計を立てている。主人公は、世間と断絶した村での生活を通じ、村人たちが月山に寄せ集まった死者のようであり、この村があの世のように思えてくるのであった。

ところで、この村には即身仏(そくしんぶつ)を信仰する風習がある。即身仏とは、昔の偉い僧侶が生きながら仏になるために、断食をして餓死し、ミイラとなったものである。
しかしこの村では、行き倒れになった行商人の死体をミイラにして、即身仏と偽って観光資源にしようとしていた。(ちなみに、これはフィクションであり、庄内地方に実際に祀られている即身仏とは関係はない)

やがて春が来ると、主人公は村から出ていく。彼の友達が迎えに来たからだ。その友達は主人公に、
「この村の土地開発を持ちかけたら、村人みんなが喜んで、密売酒を差し出した」
ことを告げる。
世間から隔離されたあの世のような村も、やがては行商人の即身仏のように、まがい物になっていくことが暗示されて、物語は終わる。

ところで、森の「月山」を読んで感銘を受けたのが、当時かけだしの音楽家新井満だった。
新井は、「千の風になって」の作曲者として知られている。

森と仲良くなった新井は、酒の席で「月山」の文章に即興で曲をつけて歌った。それに感動した森は、新井に小説を楽曲化する許可を与える。
そして新井は、76年に「組曲月山」を発表した。これは、小説の文章に曲をつけるという意欲作で、好評を得る。

この組曲の冒頭の楽曲「月の山」に注目したのが、シャンソン歌手の岸洋子であった。彼女は山形県酒田の出身で、同郷の作家が故郷の山を楽曲にしたことに、興味を抱いたのだろう。
岸は、78年のアルバム『雪枕』に同曲を吹き込んで収録している。

岸の「月の山」を聴くと、月明かりに浮かび上がる「あの世の世界」が静かに立ち現れてくるようだ。

彼方に白く輝く まどかな山があり
この世ならぬ月の出を 目のあたりにしたようで
かえってこれが あの月山とは
気さえつかずにいたのです。

思えば、岸は70年に膠原病で倒れて以来、その歌声に灰暗い死の影が漂うようになった気がする。それは、92年の最期のライブまで徐々に色濃くなっていった。しかし、それが彼女の歌い手としての美しさを際立たせたと私は思う。
もしかしたら、彼女の魂はすでに月山のふもとの寒村あたりを飛んでいたのかもしれないとさえ感じるのである。

「死体のある風景 作家とシャンソン」シリーズ、最後の3回目のテーマがなかなか決まらずにいたが、岸の「月の山」が森の小説をもとにしていることを知り、ようやく完結することができた。何事も粘り強くいれば、不思議と道が開けることを強く感じた執筆であった。

綾部肇

f:id:enjiro:20210730120346j:plain

以前、フランスの作曲家でピアニストのエミール・ステルン(Emile Stern)について調べたことがあった。その際に、「日本のエミール・ステルン」と呼ばれたピアニストがいたことを知った。綾部肇さんという人である。

私は、生前の彼がシャンソン関係者に大変慕われた人物であったというのは聞いたことがあったが、詳しい経歴などを記した資料を一切見たことがなかった。しかしながら、晩年の綾部さんが石井好子さんの専属ピアニストだったことで、彼女の著書にわずかながら彼のことが記されていたので、紹介したい。

綾部さんは1932年頃に生まれた。彼がどのような経歴でシャンソンのピアニストになったのかは分からないが、昭和20年代シャンソンブームのころから活動を始めていたようだ。
石井さんの周りには、寺島尚彦さん(いまなお歌われている「さとうきび畑」を作った人)、岩崎洋さんなどのピアニストがいたが、彼らは教育者になったり、活躍を海外に広げるなか、綾部さんはシャンソンの業界に留まりつづけた。
石井さんが主宰していた「パリ祭」のバンドマスターを寺島さんから引き継いだり、彼女のリサイタルのピアニストをつとめていた。

また綾部さんは、東京オリンピックメキシコオリンピックで、女子床上体操の伴奏者としても活躍した。そんな彼のピアノはミスタッチが一切ない、心の行き届いたものだったという。その軽快なタッチが、エミール・ステルンばりに美しかったそうだ。
また、編曲者としての腕も素晴らしいもので、石井さんは自身のリサイタルで彼が手掛けたドイツ映画の主題歌メドレーを高く評価している。

石井さんの著書には、綾部さんの最期の様子が記されている。
1977年初頭に開かれた石井さんのリサイタルで、綾部さんはピアニストをつとめたが、声がかすれて苦しそうにしていた。「扁桃腺が悪い」と本人は言ったが、7月の「パリ祭」ではさらに声がかすれ、11月には声が聞き取れなくなっていた。石井さんは綾部さんのマネージャーに受診をすすめるも、本人が病院に行こうとしない、と返される。それでも、本人は元気で何度もリハーサルをしていたという。
翌年の78年1月14日、綾部さんは病院で急死する。喉頭ガンが全身にまわっていたという。10日前まではピアニストの仕事をしていたらしく、まさに急な訃報だった。享年45歳。
その葬儀では、知人たちは遺体にすがって泣いたという。

私は、そんな綾部さんの音源を聴いてみたいと思うようになった。
見つけたのは、「OTTO」というアルバムに収録されたボニー・ジャックス「窓をひらいて」という楽曲の伴奏をしているものだった。

この「OTTO」というアルバムは、当時音質が良かったという「4チャンネルステレオ」というレコードの宣伝と試聴のために作られた。様々なジャンルの楽曲が収められたなかに、「窓をひらいて」はある。
この楽曲は「aprite le finestre」というイタリアのカンツォーネ。また、ボニー・ジャックスの音源はリサイタルのもので、綾部さんが彼らの専属ピアニストだったことも分かった。

楽曲は明るい曲調で、ボニー・ジャックスの重唱によく合っていた。また、間奏の綾部さんのピアノも華麗なタッチが冴えている。
とはいえ、この1曲だけではまだまだ綾部さんの魅力は掴めない。きっと、他にも綾部さんの伴奏を収めたレコードがあるはずだ。今後、様々な曲調のものを聴く機会に恵まれればと思っている。

中原美紗緒

私が愛聴するシャンソンのアルバムのなかに、中原美紗緒さんの35周年リサイタルのCDがある。
1991年、銀座ガスホールにおけるライブ盤だが、シャンソン独特のしんみりした楽曲を廃した、華やかで健康的なステージだ。そうしたコンサートはつまらない、と思うかもしれないが、明るい楽曲をオーディエンスの心に響くようしっかりと聴かせるのが彼女の本領であり、魅力なのだ。
このコンサートの楽曲の大半はフランス語で歌われる。彼女はMCの中で「歌手活動をするなかで、このままではいけないと思い、頑張った」という主旨のことを語っており、彼女の人生に何があったのか調べてみたいと思っていた。
この度、中原美紗緒さんの自伝『唄に恋して』を読み、その片鱗を知ることができた。

美紗緒さんは1931年東京生まれ。父は陸軍省の設計士で裕福な家庭だった。そして、その父の弟は、イラストレーターの中原淳一さんである。ちなみに、「美紗緒」という名前は本名で、中原淳一さんが命名した。
美紗緒さんが歌に目覚めたのは戦時中の小学1年生のときだった。近所の音楽大生に誘われて、夫が戦地にとられた妻子のための慰問公演に参加したのがきっかけで、慰問歌手として活躍するようになり、映画にも子役で出演するようになる。
また、学校には中原淳一さんがデザインした服を着て行き、周囲から虐められるもめげずに反撃する子供であった。

高校生になった美紗緒さんは、東京芸術大学を志し、声楽とピアノの稽古に明け暮れる。その背中を押したのは、中原淳一さんと彼に私淑するシャンソン歌手の高英男さんであった。

そして芸大の声楽科に合格し、美紗緒さんは中原淳一さんの家に下宿する。その際に、中原淳一さんが主催する雑誌『それいゆ』のモデルになり、撮影後に貰ったドレスを着て通学した。
同時期、美紗緒さんは自分が今後声楽家として活動するには実力が足りないと思うようになる。そんなときに出会ったのが、リュシエンヌ・ドリール(Lucienne Delyle)のシャンソンのレコードであり、彼女はシャンソン歌手を志すようになる。

そんな彼女に力を貸したのが、中原淳一さんと高英男さんであった。当時、日本を代表するシャンソン歌手の高さんと、彼のプロデューサーのような立場だった中原淳一さんは、NHKの「虹の調べ」という音楽番組や、日本劇場の出演、さらにはレコード会社の専属契約などを、トントン拍子で進めていく。中原淳一さんは、イラストレーダーとは別の顔でシャンソンブームのインフルエンサーとして、劇場やラジオ、テレビ局などにも顔が利いたのである。
こうして美紗緒さんは、中原淳一さんの姪で『それいゆ』のモデル出身のアイドルシャンソン歌手として、活躍していく。
この時ヒットしたのが「河は呼んでいる」(L'eau vive)「フルフル」(Frou Frou)といった楽曲で、はっきりいってアイドルらしいぶりっ子な歌詞である。ただ、近所の優しいお姉さんのような安心感のある彼女の歌声は、聴くもののハートをグッと掴む。童謡のような歌詞を成熟した歌声でレコードに吹き込んだのが、彼女の強みであった。
また、テレビドラマ「あんみつ姫」の主役も当り、歌手兼女優のアイドルとして活躍していくこととなる。

そんな美紗緒さんのスケジュールは多忙を極め、ストレスを溜めながらも、着実にこなす日々を続けた。しかし30歳になるとき、周りの人が徐々に結婚していくのを目の当たりして、自身も結婚に踏み切ってしまう。
音楽と芸能界一色だった彼女にとって、家庭に入ることもまた苦痛であった。仕事と家庭の両立をするも、夫からなじられて、精神的に追い詰められていく。しかし、そんな時に子供を妊娠したことで、美紗緒さんは家庭に生きることを決めて、1966年に芸能活動を休止する。

ここまで見ると、美紗緒さんの半生は、中原淳一さんにお膳立てされてきたという印象だ。中原淳一さんに命名され、小学校に彼の服を着て行ったときから、これは運命付けられていたように思われてならない。

そんな美紗緒さんが、自分の殻を破ったのは2人の子供が小学校高学年になり、手がかからなくなった時だった。
「もう一度歌いたい」という思いが沸き上がったのである。

美紗緒さんは家庭に入る際に、使っていた楽譜などを全て焼却処分し、レコードは押入の奥底にしまい、歌番組は観ないように徹底していた。しかし、その押入からリュシエンヌ・ドリールのレコードを12年ぶりに聴き、芸能界復帰を決意するのである。

1978年に、美紗緒さんは自らの意思でカムバックを果たす。しかし、そのときは芸能界も様変わりしていた。
例えば、レコーディングだ。現役のときはオーケストラと歌手の同時録音が当たり前だったが、復帰後は伴奏と歌手の録音はバラバラ。さらには歌も、まずサビから、そのあと他のパートを歌って、最後に合成するというもので、彼女はレコードに失望してしまう。
また美紗緒さんは、「その年齢に合った楽曲を歌いたい」と思っていたが、オーディエンスが求めるのはアイドル時代の楽曲であり、そのギャップにも悩んでしまう。
そんななかで、彼女は毎日シャンソンのレコードを聴いて研究し、シャンソン専門のライブハウスである「シャンソニエ」に出演したり、教室を持ってみたり、ファッションショーで歌ってみたりしながら、切磋琢磨していく。
復帰後の美紗緒さんは、こうした手探りのなかで、歌手活動をしていたのである。

その結実が、冒頭に述べたリサイタルの音源であった。アイドル時代のような明るい楽曲をレパートリーにしつつ、フランス語での歌唱を入れることで、歌手としての成熟を魅せるステージとなっている。

このリサイタルでの佳曲は、シャルル・アズナブール「君を待つ」(Charles Aznavour「Je t'attends」)だ。

はやく来てよ あなた
澄んだ眼と 焼けた膚の
たくましいあなた
そして始めましょうよ
野性味あふれる からだの恋から
(西村達郎訳詞)

この楽曲は日本語で歌われているが、非常に良くできた官能的な歌詞だ。こうした楽曲をそつなく歌いこなすことで、美紗緒さんは自立した本当の歌手になれたのだと私は思う。

その後の美紗緒さんは、ガンに罹り、闘病しながら歌手活動を続けていたという。1997年、病没。

岸洋子さんのお墓参りetc

f:id:enjiro:20210722015103j:plain

先日、岸洋子さんのお墓参りに行ってきました。
岸さんのお墓は札幌にある、というのは、私の中では都市伝説のような話でしたが、霊園の職員さんにも調べていただき、お参りしてきました。
歌碑とかあるのかなー、などと思いながら伺いましたが、本当に一般的な形のお墓でした。ですが、これもまた岸さんらしいような気もします。
この日は7月14日に近かったので、お墓の前で岸さんが歌う「パリ祭」をYouTubeで流して、参拝のひとときを過ごしました。
私の生まれた翌年に亡くなった岸さんとの、魂の交流を育むことができたような気がします。

さて、それと前後して、岸さんの珍しいカセットテープを入手しました。
1986年9月、福岡県の西中洲にあった「サパークラブ太宰」でのディナーショーの実況録音です。サパークラブというのは、お酒を楽しみながら歌や社交ダンスを楽しむ場所なのだそうです。
サパークラブ太宰」は、1978年頃創業、2007年には閉店したそうです。その「太宰」創業8周年記念のディナーショーの様子が収められています。

この当時の岸さんは、膠原病で倒れられるも復活し、84年に芸能生活25周年を迎えて、ますますの活躍が期待されていました。85年には、岸さんの隠れた名曲「コマンサバ/男の人生」が発売されてます。
しかし、このディナーショーの6年後に、岸さんは他界されました。

このディナーショーの音源では、岸さんが客席と和気あいあいと交流しているのが伝わります。また、ステージの合間に、突如オーブンマイクが始まったりと、なかなかブッ飛んだ構成です。
セットリストは以下の通り。

A面
「コマンサバ」(The shorts「Comment ça va?」)
「恋心」(Enrico Macias「L'amour c'est pour rien」)

アメリカ映画主題歌からシャンソンになった楽曲メドレー
I love Paris(Bing Crosby)
セ・マニフィーク(Cole Porter「Ce magnifique」)
サ・セ・ラムール(Tonny Bennett「ça c'est l'amour」)
I love Paris

「枯葉」(「Les feuilles mortes」)
「小雨降る径」(Tino Rossi「Il pleut sur la route」)

「夜明けの歌」

オープンマイク
「夜明けの歌」樋口さん(女性)、氏名不明(男性)

B面
「オラ、東京さ行くだ」(吉幾三)
「お祭りロック」(大木トオル)
「ラストダンスは私と」(山形弁で)

「夜霧のブルース」(ディックミネ)

「男の人生」(Dalida「Une vie d'homme」)

愛の讃歌」(Edith Piaf「Hymne  à l'amour」岩谷時子訳)

アンコール「希望」

エンディング「コマンサバ」


岸さんの代表曲とシャンソンの名曲、さらにはディナーショーらしいスペシャルな歌謡曲のカバーまで盛り沢山の内容です。
「オーブンマイク」では、観客2人がそれぞれ歌う「夜明けの歌」に直々にハモりを入れるというサービスぶりでした。だけど、多分歌った2人はセミプロのサクラだと思います。やたら歌が上手かったので。

そして、「オラ、東京さ行くだ」はぶっ飛びました。岸さんの東北弁ラップ、さすがに上手いです。
そして、特に印象的だったのが「夜霧のブルース」でした。ディックミネさんのオリジナルに対して、岸さんのは歌い方が明瞭で歌詞が聞き取りやすく、まるで彼女のオリジナル曲かと錯覚するほどです。
そして「愛の讃歌」は、越路吹雪さんが歌っていた岩谷時子さんの訳詞でした。岸さんは、永田文夫さんの訳詞で「愛の讃歌」を歌っていたので、珍しいと思いました。

時を経て、こうした貴重な音源を聴けるのは幸せなことです。次に、岸さんのお墓参りをするときは、このテープをお供えせねばと思っています。

吾が巴里よ(モン・パリ)

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで

f:id:enjiro:20210720101314j:plain

日本で、シャンソンが歌われ始めたのは、何時のことなのだろう、という疑問がふつふつと沸き上がった。私も誕生日を迎えたことだし、日本におけるシャンソンの誕生日も調べてみようかという、好奇心からである。

この疑問を調べる上で、私は2つの条件を設定した。

1.その楽曲がフランスの流行歌であるというのを、日本人が理解していること。
2.その楽曲が、日本で流行歌として広く認知されたこと。

以上の条件を満たしてこそ、日本でフランスの流行歌である「シャンソン」という音楽が真に認知されたと見なすことができる。

調べてみると、とあるシャンソンが大正時代の日本で認知されていたのが分かった。共産主義者たちによる労働歌「インターナショナル(International)」である。
この楽曲は、もともとは19世紀フランスの、パリ・コミューンの時期(それまでの政権をパリ市民が革命を起こして倒し、市民による新政権を樹立した)に作られた。その後、「インターナショナル」はロシアを経由して日本に入ってきた。なので、当時の日本では「インターナショナル」はロシアの楽曲として認知されていたのである。これでは、フランスのシャンソンが認知されたとはいえない。

日本のシャンソン史において、日本で最初にシャンソンが歌われたのは、昭和2年9月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「モン・パリ」の主題歌「モン・パリ」(Alibert「Mon Paris」1925)だったというのが定説である。
では、この「モン・パリ」とはいかなる内容のレビューだったのか。また、劇中で「モン・パリ」以外にはどんな楽曲が歌われたのか、という疑問が湧いてきた。もしかしたら、他にも劇中でシャンソンを歌っていれば、それも日本最初のシャンソンになるはずだからだ。

それについて調べてみると、まずこの「モン・パリ」というタイトルが誤りであることが分かった。初演のタイトルは「吾が巴里よーモン・パリ」という。当初「モン・パリ」はサブタイトルであったが、昭和3年の再演の際に「吾が巴里よ」が消されて「モン・パリ」となった。
本稿では初演に従い「吾が巴里よ」で統一する。

この「吾が巴里よ」というレビューは、岸田辰彌という演出家によって作られた。岸田は、宝塚の演出家になった後、創設者の小林一三の命で1年余り欧米視察にいく。そして、パリのレビュー(寸劇と舞踊、音楽を交えたミュージカルのようなもの)を参考にして作ったのが「吾が巴里よ」であった。

では、この「吾が巴里よ」の内容を見ていきたい。
主人公は串田福太郎という男である。演じたのは、花組組長の奈良美也子で、彼女が宝塚最初の「男役」だと言われる。ちなみに、串田福太郎は、岸田自身をモデルとしている。
串田は、宝塚を出て神戸港から出港、中国、インド、エジプトを経て、フランスのヴェルサイユ宮殿に着く。その旅の過程が、レビューによって描かれるのだ。つまり「吾が巴里よ」というタイトルのわりに、パリのことはあまり描かれない作品なのである。

この劇中で歌われた楽曲のなかで、主題歌として扱われているのが「モン・パリ」だ。この楽曲は劇中の要所要所で歌われる。
そして、旅先の国々のシーンで歌われた楽曲は以下の通りである。

「先生さらば」(神戸)
「おそろしかりし」(中国)
「ロンロンロンだ」
「花を召せや」(インド)
「とこなつの國」
「あーあーあー」(アラビア海)
「恐ろしき呪は去りて」(エジプト)
「辨當辨當(弁当の旧字)」(マルセイユ)
ヴェルサイユ」(フランス)

これらの楽曲は岸田辰彌作詞、高木和夫作曲である。つまりは、「モン・パリ」以外にはシャンソンは歌われていないことになる。

そして、このレビュー「吾が巴里よ」は大変ヒットした。いまだかつて日本になかったレビューの魅力に、人々は熱狂したのである。

f:id:enjiro:20210720101359j:plain

ちなみにこのレビューではじめて、宝塚では定番の「ラインダンス」が取り入れられた。ラインダンスは、マルセイユの汽車を表現するための踊りであった。当時の写真を見ると、踊り子のズボンに車輪が描かれている。
さらには、主題歌「モン・パリ」も大変ヒットした。レコードや楽譜がよく売れたという。

一見すると、この「モン・パリ」によってシャンソンは日本で歌われるようになったように思われる。しかしながら、私は当時の楽譜集の記載に注目した。
そこには、「モン・パリ」の作詞が岸田、作曲が高木とあるのだ。つまりは、「モン・パリ」は日本の楽曲として紹介され、売られていたのである。当時の日本人で、この楽曲がフランスの流行歌であることを知っていた人はどれだけいただろうか。
結果としては「モン・パリ」が、日本で最初に民衆に広く知られたシャンソンであることには変わりはない。しかし、当時の日本人が「モン・パリ」をフランスの楽曲と認知していなかったことをかんがみると、これによってシャンソンが根付いたという定説は、厳密に言えば覆されることとなる。先にのべた「インターナショナル」と同じ状況だからだ。

では真の意味で、日本人がフランスの楽曲であることを認知した上で、流行歌として口ずさむようになったのは、いつのことなのか。
それは、昭和5年10月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「パリゼット」まで待つこととなる。

パリゼット

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで ②

f:id:enjiro:20210720101200j:plain

昭和2年の「吾が巴里よ」の盛況により、宝塚歌劇団創設者の小林一三は、演出家の白井鐵造にパリ視察を命じる。
白井は、昭和3年にパリに渡ってレビューの見識を深め、昭和5年に帰国。その帰朝公演ともいうべきレビューが「パリゼット」(10月「花組」公演)であった。

この「パリゼット」は、宝塚にとって重要な演目として今に伝わっている。それは、

1.現在のレビューの基礎を作ったから
2.宝塚の代表曲「すみれの花咲く頃」が初めて歌われたから

である。

またこのレビューは、
「フランスのシャンソンが、いつから日本で流行歌として親しまれるようになったか」
という疑問の答えも孕んでいる。

本稿では「パリゼット」の内容と、劇中歌「すみれの花咲く頃」について解説し、疑問を解決していきたい。

そもそも「パリゼット」というタイトルは、1928年にパリの劇場ムーラン・ルージュで初演されたレビュー「パリは廻る(Paris qui tourne)」で、女性歌手のミスタンゲット(Mistinguett)が歌った「Parisette」という楽曲が元になっている。
「Parisette」は、「パリの看板娘」といったような意味で、「パリの看板娘に人々は様々なプレゼントをする。だけど娘さん、お金で心を売ってはいけません」という内容のシャンソンらしい。
おそらく白井鐵造は、このレビューを実際に見て着想を得たと思われるが、借用したのは楽曲のタイトルだけで、レビューの内容に共通点はない。

次に、白井が作った「パリゼット」のストーリーを見ていきたい。
主人公はフランス帰りの神原、山中の男2名。彼らが宝塚歌劇団の公演を見たことをきっかけに、パリでの恋愛を回想するという内容だ。この宝塚劇場からパリへ場面が展開するという筋立ては、「吾が巴里よ」と同じ構成である。
パリの場面では、神原はロロットというモデルと恋仲になる。そして神原がメイドに変装したロロットに手を出して決裂する過程が、喜劇的に描かれる。これは狂言の「花子」や歌舞伎の「身替座禅」をもとにしたストーリーだろう。神原とロロットのストーリーが終わると、突如として山中の女友達ジョセフィンが登場する。ジョセフィンが、かつての恋人アンドレに振られた思い出を回想したところで、いきなりラストのエトワールが始まり幕となる。
はっきりいって、ストーリー構成に難のある作品だ。

出演は、山中・アンドレの二役に奈良美也子、神原に小倉一子、ロロットに高浪喜代子、ジョセフィンに明津麗子となっている。

この「パリゼット」は、舞台装置の豪華さが特徴的だ。『宝塚少女歌劇脚本集』には、次のように記載されている。

「舞台一杯位の大きな花籠。籠の中に二十四人の花の踊子座り…」(第11場)
「美しき階段、階段の上に美しき衣装の女十人立ち並ぶ。階段の上にもう1つのカーテンあり、そこにはカーテンの房の女八人立ち並ぶ」(第二十場)

添付の画像を見ても、これが現在の宝塚のレビューの基礎となったのは明白であった。
また「パリゼット」が、ラブストーリーであることにも注目したい。それまでの宝塚の演目は、喜劇や歌舞伎の翻案が中心であり、この「パリゼット」によって、宝塚は恋愛物を演目のメインとしていくこととなる。これは、白井鐵造の慧眼だと言えよう。

そして本題である、「フランスのシャンソンは、いつから日本人に親しまれるようになったか」という疑問を解いていきたい。
鍵となるのは、「パリゼット」の劇中歌である。

最も注目したいのは、「パリゼット」が

「七ツの巴里流行歌を主題にしたレビュー」

という触れ込みで上演されたことだ。つまり「パリゼット」は、「吾が巴里よ」とは異なり、あらかじめ劇中歌がフランスの楽曲であることが明示されているのである。
(余談であるが、シャンソンを「巴里流行歌」と呼ぶのは、昭和7年声楽家の佐藤美子が日本で最初にシャンソンのみでコンサートを開いた際に用いられたと言われてきた。しかし、この研究で「パリゼット」の時点で宝塚が考えたネーミングを、佐藤が借用していたのがわかった。)

とはいえ、脚本集をみると、「吾が巴里よ」と同様に「白井鐵造作、高木和夫作及編曲」とある。しかし、昭和5年にはフランスの歌手やレコードの認知度がだいぶ高まっていたのではないかと私は推測する。
例えば、「パリゼット」には次のようなセリフがある。

山中「そしてミスタンゲットのあのしはがれ声の巴里の唄をきく時、いつも自分は今巴里にいるんだという幸福を感じた」
神原「そうそうミスタンゲット、あの時パリゼットという歌を歌っていたっけね」

さらに『歌劇』には、公演中の劇場の様子が記録されている。

「日曜日の幕間の大広間、蓄音機の大ラッパがミスタンゲット嬢のパリゼットを叩きつけて、大広間の雰囲気はヤケに興奮している。」

そして「パリゼット」の登場人物ジョセフィンにも注目したい。「Josephine」は、英語ではジョセフィンと発音するが、フランス語ではジョセフィーヌである。登場人物のジョセフィンはブルターニュの生まれという設定なので、本来ならジョセフィーヌが正しい。
なのに彼女の名前がジョセフィンなのは、当時アメリカからフランスに渡って活躍していたレビュー歌手、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)に由来するのは明白である。

ところで、昭和2年に「吾が巴里よ」が公演された際、あるフランス映画が公開されたのが分かった。タイトルは「麗美優(レビュー) モン・パリ」。これは、「La reveu des reveu(レビューのなかのレビュー)」という原題で、パリの複数の劇場のレビューを撮影した記録映画である。そして、この映画の主役がジョセフィン・ベーカーだった。
おそらくこの映画は、宝塚がレビューを日本で認知させるために公開させたものだと思われる。「吾が巴里よ」以来、レビューの人気が日本で高まるにつれ、フランスのシャンソン歌手の認知度やレコードも、レビューに関係するものを中心に国内で広まっていたのではないだろうか。

なので「パリゼット」の時点では、「吾が巴里よ」のときと異なり、フランスの楽曲を受け入れる土壌が、すでに日本で整っていた。フランスのシャンソンが真の意味で日本で親しまれるようになったのは、まさにこの時であった。

では、「パリゼット」の劇中歌を見ていきたい。

「パリゼット」(Mistinguett「Parisette」1928)
「TAKARAZUKA」(現「おお宝塚」Harry Carlton「Constantinople」1928 .
フランスでは、Alibertが歌った )
「モンパルナス」(原曲不明)
「ラモナ」(Fred Gouin「Ramona」1928)
すみれの花咲く頃」(Henri Gesky「Quand refleuriront Les Lilas blanc」1929 原曲はドイツ)
「君の手のみマダム」(「Ich küsse ihre Hand, Madame」1930 ドイツタンゴ)★
「ディガ ディガ ドゥ」(Big bad voodoo daddy「Diga diga doo」)★
「あやしきは戀」(原曲不明)

★印はシャンソンではない海外の楽曲である。厳密にフランスで作られた楽曲にこだわらず、白井鐵造がパリ視察中に聴いた楽曲を盛り込んでいるのが分かるだろう。

そんな大がかりでパリの香り漂う空前絶後な「パリゼット」だが、『歌劇』を読む限り、当時の評判はあまり良くなかったようだ。このときすでに、日本の観客たちはレビューに飽きていたのである。白井のこだわりぬいた演出も、観客にしてみれば、二番煎じに見えてしまっていた。

しかし、そんななかでも評判が良かったのが、劇中歌の「すみれの花咲く頃」であった。
この楽曲は、「パリゼット」の重要なシーンで歌われてはいない。ストーリーには全く関係のないパリの街角で若いアベック(フランスなのでカップルとは言いません)が、すみれの花を買うシーンで歌われる。歌うアベックにも役名がついておらず、「男」「女」と表記され、雑誌にも彼らのグラビアは残されていない。つまりは、余分なシーンで脇役が歌うだけの楽曲にすぎないのだ。

では、なぜそのような楽曲が今なお宝塚の代表曲となっているのか。それは、「男」役の橘薫と「女」役の三浦時子のコンビネーションの素晴らしさだった。『歌劇』には、彼女らへの賛辞が並んでいる。

「橘薫の燕尾服の着こなし方が日本人としては無類であると非常な評判」
「三浦時子と橘薫のジャズの歌い手よ。賛辞と花輪と栄光とに包まれてあれ」
「三浦時子さんと橘薫さんとのコンビネーション実に素晴らしい」
「三浦時子、橘薫は快活に演っている」

もはや「パリゼット」は、脇役の三浦と橘のためにあったというような劇評だ。ちなみに「ジャズ」とあるのは、当時の洋楽が一律して「ジャズ」と呼ばれていたからで、「シャンソン」という名が定着するのは、昭和8年のことである。
三浦と橘、このふたりの活躍によって「すみれの花咲く頃」は、宝塚に歌い継がれることとなる。
(橘薫は戦後、日本で最初にシャンソンを専門に歌う歌手「シャンソン歌手」として活躍した。長崎から上京した美輪明宏の才能を見抜いて、銀巴里の専属にさせたのは彼女である。)

さらに言えば、真の意味で日本人が口ずさむようになったシャンソンは「すみれの花咲く頃」であると、私は定義する。日本人がこの楽曲をフランスのものだと理解し、かつ流行歌として広く認知されたからである。

こうして、宝塚の「吾が巴里よ」と「パリゼット」を精査することで、日本のシャンソン史の起源に一説を示すことができた。
しかし、同時に見えてくるのは「シャンソンはフランスの甘い恋のうた」という日本での認識は、「すみれの花咲く頃」から始まったという
ことである。このイメージは、「パリゼット」におけるアベックのシーン、さらには白井鐵造による宝塚のラブストーリー路線の演目から生じているのが、明白である。
昭和5年の「パリゼット」で生じたイメージが、戦後もなお長く根強く残っていたということに、私はただ驚くばかりだ。
しかし当時に比べれば、現在このイメージはだいぶ覆されていると言って良いだろう。シャンソンに「人生」を込める歌い手が増えたからである。

長いシャンソン史を振り替えれば、現在の日本のシャンソンは決して停滞などしていない。むしろ、新しいイメージへの転換期であることをきちんと意識していきたい。

『蛙たちのLe Quatorze Juillet』

こんなにも漆黒に覆われたパリ祭があっただろうか。

7月14日はフランス革命記念日で、日本では「パリ祭」と称してシャンソンの催事があちこちで開かれる。
同時に、この日はフランスの男性歌手、レオ・フェレ(Léo Ferré)の命日でもある。フェレは、フランスで起こった学生運動五月革命」に積極的に関わるなど、反体制の人であっただけに、革命記念日に逝くとは、その精神にふさわしい。

7月15日『蛙たちのLe Quatorze Juillet』(内幸町ホール)の夜の部は、若林圭子さんとあやちクローデル×イーガルさんの出演だった。
配信で見たご両人のステージは、まさに黒に統一された世界観であった。

若林圭子さんは、フェレの楽曲に特化して歌われている。とはいえ、フェレの楽曲はあまたのシャンソンのなかでも難解の極みという印象だ。
若林さんは、そんなフェレの楽曲を我々にも分かりやすく訳詞し、歌われている。枝葉を削いで木の幹だけ残すようにして、楽曲の核心に迫ろうとする鋭意は、修行のようなストイックさを孕んでいる。
それは、彼女が歌う日本の楽曲にも現れている。アリス「チャンピオン」のカバーは、どんなコンディションであっても勝負のためにリングに立たねばならないボクサーの宿命が、ドライに歌われる。究極の男の世界を、なぜこんなにも的確に歌えるのか、私はただ驚くばかりだ。
一方で、若林さんが歌う「アカシアの雨がやむとき」は、静かで深い感動を呼ぶ。感情移入しやすい歌詞をあえて抑えて歌う際どさが、この楽曲の真の美しさを引き立てる。私は、画面越しに感涙とどまらなかった。
そんな若林さんのステージは、例えるなら墨の黒だ。黒のなかに濃淡の美しいコントラストを秘めているのである。

対して、あやちクローデル×イーガルさんのステージは、インクの黒だ。何にも染まらない、あるいは他の色をも飲み込むような屹立した黒である。
あやちさんのステージは、挑むような迫力と勢いがある。何人をも寄せ付けない気迫が漂い、観る者を圧倒させる。
中でも、ピアソラ「ロコへのバラード」(Astor Piazzolla「Balada para un loco」)は、迫力の歌声かつ最後まで隙のない緻密な世界観が構築されていて、感無量だ。楽曲の「世界はみんな狂っている」という強烈なメッセージは、聴くものを不安にさせず「狂っててもいいんだな」という安心感を呼び起こす。これは、あやちさんの説得力の巧みさであろう。

ちなみにこの昼の部で、あやちさんは老婆に扮して「オルガ」(Juliette Gréco「Olga」)「女歌手は二十歳」(Silvie Vartan「Chanteuse a vingt ans」)を歌われた。これは、老いた女が昔を偲ぶ歌謡劇である。思い出すのは能楽の「卒塔婆小町」の筋立てであるが、私は同じ能楽でも「姨捨」を取材すべきと思った。「姨捨」の老婆が月明かりに昔を偲んで舞踊る心情と幻想美を追及すれば、よりテーマ性が立ち上がるはずだ。

あと特筆したいのが、若林さんとあやちさんの幕間に登場した、円盤屋たけしさんの漫談だ。レコードに関するうんちくを面白おかしく語っているが、その話の間の取り方が絶妙だった。間が絶妙だと寒いことを言っても場がシラケない、その計算された話芸に感服した。
それにしても、フランス・ギャル(France Gall)の目の隈について、あんなに熱烈に語れる人を私ははじめて見た。
ああ、やっぱり狂っているのである(誉め言葉です)。