シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

蛙たち創業60周年記念コンサート

3月7日、8日に開催された「蛙たち創業60周年記念コンサート」を、万感の思いで観覧した。

銀座のシャンソニエ「蛙たち」は、世の中がコロナ禍の自粛生活を強いられたなか、ライブ配信を始めた。
お店を存続させるための鋭意努力を感じるとともに、私が住む札幌と東京のシャンソニエの距離感が縮まったきっかけでもあった。
長年活躍されている多くのベテラン歌手のステージを自宅でリアルタイムで楽しめることは思いがけない幸せであるとともに、「蛙たち」独自に出演する歌手、企画のライブに目を見張ったものであった。
その集大成となったのが、今回のコンサートであったと言えよう。

1日目のコンサートを一言で表すなら「革新の夜」にふさわしい。 
蛙たち」に出演する、いわゆる若手や中堅の歌い手さんが、これからのシャンソン界を支え、華やかな業界として発展させてゆくであろう希望を感じた。
日本シャンソン協会主催の「次世代シャンソン歌手発掘コンテスト」は、30歳以下の若手シャンソン歌手を見出だすものであるが、それで栄誉に輝いた藪内彩奈さん、レジョン・ルイさん、八田朋子さん等は、「蛙たち」を活動拠点にしてシャンソニエの歌手として技巧を磨かれている方々であり、全身にみなぎるガッツと洗練されたステージは、私の胸を高鳴らせる。
また、「蛙たち」の出演をきっかけにしてシャンソンの世界で飛翔する、右近健一さん、あやちクローデルさんのステージも、力強く圧倒させられた。
加えて、竹下ユキさん、花木さち子さん、三戸亜耶さんは、「蛙たち」の企画ライブ「Diva」で、川島豊さん、桜井ハルコさん、劉玉瑛さんは「王子と姫たち」で心奪われた歌い手さんだけに、感慨深いものがあった。
そして、安奈淳さん、仲マサコさん、日高あいさんは、長年のご活躍に裏打ちされた包容力のようなものが溢れる歌唱で、観るものを感動させた。

2日目は、「貫禄の夕焼け」と名付けたい(開演が15時だったので)。
長年の歌手活動なかで培われた実力ある歌い手さん方の圧倒的なステージは、舞台袖から登場して客席に顔を向けただけで、その世界観が会場全体に広がってゆくような、魅惑的なものであった。
瀬間千恵さん、池田ひろ子さん、井関真人さん、かいやま由起さん、渡辺歌子さん、広瀬敏郎さん等は、半世紀をシャンソンに捧げられてこられた方々だけに、そのステージは聖性に満ちていた。
そして、荒井洸子さん、西原けい子さん、松宮一葉さん、浜砂伴海さん、青木FUKIさんの高らかな歌声は、天地の震動のようだ。
加えて、「銀巴里」の精神を継承しようという志を抱くクミコさん、深江ゆかさん、ご自身の訳詞で新しいシャンソンを創造する水織ゆみさんのステージは、長年のキャリアのさらに先を目指すアクティブな精神を感じた。

この2日間のコンサートを観覧して、私は「蛙たち」が、日本のシャンソンの最前線であると思わずにはいられない。
蛙たち」の動向が、日本のシャンソン界という音楽業界の滋養となり、安息地となり、刺激となっていることに、私は深い敬意と感激を覚える。

今回の観覧にあたり、「蛙たち」オーナーの北村ゆみ様に多大なお心遣いをいただいたことに、この場を借りて御礼を申し上げます。
その上、北村様を通じて、大野修平先生、勝見弘三様にご挨拶できたことは、私にとって幸せなことでした。
そして、客席でお会いすることができた、小貫和子さん、笠原三都恵さん、右近健一さんと、熱烈なシャンソン談義を交わせたことも楽しい思い出となりました。

歴史ある「蛙たち」が、銀座の満天の夜空に輝く北極星ならぬ“カエル座”として益々のご発展を遂げられますことを切にお祈りいたします。

シャンソン歌手としての佐藤美子

シャンソン歌手としての佐藤美子

佐藤美子さんは、戦前から戦後にかけて声楽家として活躍した。
日本人の父とフランス人の母のハーフで、日本で声楽家として大成したのちにフランスに渡りさらに研鑽を積んだ。
ビゼーの「カルメン」は彼女の代表的な演目で、「カルメンお美」という愛称を得るほどであった。
シャンソン界では、昭和7年に「巴里流行歌の夕」という日本で最初にシャンソンのみで構成されたリサイタルを開いた人として知られる。
また戦後は、来日したダミアの付き人と前座を務め、指導者として金子由香利さんや平野レミさんを輩出した。
私は以前、佐藤さんについて調べてブログに投稿し、拙著にも掲載している。
https://chanson.hatenablog.com/entry/2021/06/17/184728

佐藤さんがレミさんを指導するようになったのは、平野さんの父、威馬雄さんがきっかけである。
詩人の平野威馬雄さんは、フランス系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、幼少より差別を受けていた。
戦後、米軍の占領下にあった日本でハーフが沢山生まれ、貧困と差別を受けていることを憂いた威馬雄さんは、彼らを救済する「レミの会」を結成する。
そのメンバーのなかに、日本人の父とフランス人の母の間に生まれた佐藤さんがいた。
威馬雄さんは、幼い頃よりシャンソンのレコードを聴いて育ったというレミさんに、シャンソンの指導者として佐藤さんを紹介したのであった。

ところで、佐藤さんは当時の雑誌でもシャンソンの魅力を沢山語っている。
しかし、フランスのシャンソンがいかに魅力的かを語れども、自身が歌うシャンソンについてはめったに語らない。
それは、あくまで自分は「声楽家」であり「歌手」ではない、という矜持から来るものであろう。
現に彼女はシャンソンをレコードなどに残してはいない。
シャンソン歌手としての佐藤美子さんを知るためには、断片的に資料を収集していくしかないのである。

昭和7年東京日日新聞には、フランスで声楽を学び帰国した佐藤さんの恋愛がスキャンダルとして報じられている。
相手は、ソルボンヌ大学で法学の博士号を得た鈴木崧(たかし)さんだ。
当時の鈴木さんは、佐藤さんと一緒にフランスに渡った作曲家の高木東六さんとシェアハウスをしていたらしいので、そこで二人は出逢ったのであろう。
鈴木さんは、当時妻子と離婚して佐藤さんと交際したという。
二人の仲は佐藤さんの帰国後に自然消滅してしまったが、鈴木さんは帰国公演で酷評を受けた彼女にシャンソンを歌うことを勧める。
こうして開かれたのが「巴里流行歌の夕」であり、佐藤さんはシャンソン史のレジェンドとなったのだ。
昔の日本のエリートは、文化的センスもエリートなのであった。
その後の鈴木さんは、外交官に出世し、日本が国際連盟から離脱した際は日本代表の松岡洋右の通訳として同席している。
しかし、日本が国際連盟を脱退した理由が、満州の侵略行為を疑われたからであるにも関わらず、鈴木さんは国内の世論に逆らって「満州放棄論」を提唱する。
さらには、太平洋戦争の際にはスパイ容疑をかけられて拘禁されたことから、反戦の立場を貫いた。
戦後は、詩人や画家として活躍し、同時にフランス文化を日本に普及させる活動を行なっている。 

昭和29年の音楽雑誌『音楽之友』の付録は『ジャズ音楽事典』という小冊子である。
「ジャズ」とあるが、当時は洋楽は全て「ジャズ」とひと括りにされた時代であり、本の内容はシャンソンとタンゴに関するものである。
そのなかに、佐藤さんは「シャンソンはよいもの」を寄稿している。
当時の佐藤さんは、声楽家としての人気を後進に奪われ、さらに夫の佐藤敬さんが単身でフランスに渡ったことから生活苦の状態であった。
それゆえ、「巴里流行歌の夕」以来から封印していたシャンソンを歌いはじめ、さらにダミアとの交流を経て本格化してゆく。
シャンソン関係の寄稿文で自分語りをしない佐藤さんは、この「シャンソンはよいもの」のなかでは珍しく「巴里流行歌の夕」について数行の回想をしている。

例のジョセフィン・ベーカーのむこうをはって、賛助出演に内田栄一さんのひざにもたれかかりながら『二つの恋』をうたったり、ラケルメレーをまねて、スペイン娘のいでたちで、客席までおりて「すみれの唄」をうたいながら、すみれの花をまいたり、風船を舞台いつぱいに飛ばしながら「さよなら、巴里」をうたって、お客を唖然とさせてしまつたりした。(原文のまま)

「巴里流行歌の夕」が、戦前の歌手のステージとしては破格の演出であったことや、フランス帰りの声楽家として酷評を受けていた佐藤さんにとって吹っ切れたものであったことが窺えるだろう。
このステージは、無論パリのレビューの再現であり、日本でシャンソンを歌うことをすすめた鈴木さんと一緒に観たことがあるのかもしれない。
「巴里流行歌の夕」は、佐藤さんにとって鈴木さんとの蜜月の記憶の風景であった。

戦後の佐藤さんは、歌の仕事だけでなく文化活動にも尽力している。
なかでも、自身が住む神奈川にコンサートホールがないことを愁いて、昭和29年に神奈川県立音楽堂を創立したことは広く知られている。そして昭和33年に、その神奈川県立音楽堂で久々の自身のリサイタルを開催する。
それは、全曲シャンソンで構成されたプログラムであった。

その内容を見ると、レパートリーの幅広さに驚く。
私は、このリサイタルのプログラムを通じて、ようやく佐藤さんのシャンソン歌手としての全貌を知った。


薔薇色の人生
ポルトガルの洗濯娘
薔薇色の桜と白いリンゴの花 薩摩忠訳詞
パリ祭


人の気も知らないで
二人の恋人 佐藤美子訳詞
小さな居酒屋 野上彰訳詞
暗い日曜


誰も知らない(演奏)
ローラ(演奏)
では、また
日本語のおけいこ
あなたのことば
ペレの歌


アイ・ラブ・パリ
パリの屋根の下
ミラボー
ラ・セーヌ 佐藤美子訳詞

(バルバラ 樺島淑子による朗読)


ファド(演奏)
ポルトガルの家(演奏)
アヴェ・マリア・ノ・モノ
枯葉
毛皮のマリー
ジュダ
ヴィオレッタ

演奏・寺島尚彦とリズムシャンソネット

①と⑤では、戦後に流行った新しいシャンソンが取り上げられている。
なかでも「ポルトガルの洗濯娘」「薔薇色の桜と白いリンゴの花」はイヴェット・ジローの最新のシャンソンであり、いかに佐藤さんがシャンソン事情に精通していたかが分かるだろう。
同時に③では、当時ブームとなっていた和製シャンソンにも注目している。
②では「巴里流行歌の夕」で歌ったシャンソンが取り上げられている。
特に面白いのは、⑤でポルトガルのファドに注目していることだ。
ファドの演奏2曲に続いて、佐藤さんは「アヴェ・マリア・ノ・モノ」を歌っている。
これはファドではなく「貧民街のマリア様」というブラジルの曲であるが、歌の中に「アヴェ・マリア」が挿入され、声楽家の佐藤さんがレパートリーにするのは至極当然であろう。
フィナーレは、「巴里流行歌の夕」ですみれの花を撒きながら歌ったという「ヴィオレッタ」で、佐藤さんは「カルメンお美」らしくラケエル・メレのラテンがお気に入りだったのが窺える。

プログラムには、訳詞のクレジットがあるものとないものがある。
訳詞のクレジットがない楽曲は、もしかしから原語で歌ったのかもしれない。
ともすれば、佐藤さんは戦前から最新のシャンソンに精通し、和製シャンソンのブームにも乗り、さらにはフランス語でも歌える力量を備えた最強のシャンソン歌手だったことがわかる。
声楽家の佐藤さんにとって、シャンソン歌手は片手間の仕事であっただろうが、それでもシャンソンに誠意をもって取り組んでいたことが見て取れる。

彼女は音楽家を超越した、まさにプロの鑑にふさわしい人であった。

 

 

 

 

松島詩子とシャンソン

松島詩子シャンソン

朝の連続ドラマ「ブギウギ」の影響で、戦時下の音楽の検閲についての関心が高まっているようだ。
ドラマにも登場する淡谷のり子さんが、当時の軍部から猛攻撃を受けたことは有名であろう。
その一方で、歌手の松島詩子さんは例外的に検閲を受けたことはなかったらしい。

松島さんは、明治38年山口県で生まれた。
小学校の音楽教員を経て、流行歌手となる。そのかたわらで、声楽にも挑戦し、浅草オペラに出演したり、国際的オペラ歌手の原信子さんに師事している。
昭和12年に歌謡曲マロニエの木陰」がヒットする。
戦時中は慰問活動をし、戦後の昭和30年には「喫茶店の片隅で」がヒットした。
晩年まで歌手活動をし、平成8年に91歳で死去した。 

ところで、松島さんはシャンソンとの関わりが深い人でもある。
ひとつは、昭和13年に発表してヒットした「マリネラ」だ。
もともとはティノ・ロッシのシャンソンであるが、松島さんの自伝によれば、杉井幸一さんという大阪商船のサラリーマンがアルゼンチンのブエノスアイレス支社に勤務した際に「マリネラ」を聴いて、帰国後に自ら歌ってレコード化したのが、日本で知られるようになったきっかけらしい。
杉井さんは歌手ではなかったので、レコードは売れなかったが、そのメロディに注目したディック・ミネさんなどがカバーするようになり、やがて松島さんも歌うことになった。
松島さんの「マリネラ」は売れて「松島のマリネラか、マリネラの松島か」とまで言われたそうだ。

日中戦争が勃発すると、徐々に日本の音楽は軍歌を推奨し、戦意喪失を促すような楽曲は検閲をされてゆく。
マリネラの松島さん」もその対象になるかと思いきや、彼女は何を歌っても一切咎められなかった。
なぜなら、松島さんが出演していた浅草オペラのファンたちが政府の高官に出世していたこと、さらには師の原信子さんが旧華族とのコネクションがあったため、誰も口出しができなかったのである。
その無双ぶりで、淡谷さんも松島さんとの共演のステージでは一歩引いていたという。
松島さんは慰問活動の際も「マリネラ」を歌ったらしいが、太平洋戦争が長期間すると、徐々に華美な曲は自粛していった。

戦後、松島さんは再びシャンソンとの関わりを復活させてゆく。
それは、「松島さんにシャンソンを歌わせたい」と願う作詞家、作曲家たちによるお膳立てであった。
戦前、キングレコードのディレクターだった三上好夫さんは矢野亮という名前で作詞家、コロムビア専属歌手だった中野忠晴さんは作曲家に転身して、松島さんのために和製シャンソンを手掛けた。
自らのキャリアを転身させて松島さんに献身する彼らを見ると、彼女がいかに才気ある歌手であったかがうかがえる。

こうして、松島さんは和製シャンソン「喫茶店の片隅で」「私のアルベール」「マロニエの並木路」などのレパートリーを得たのであった。
余談だが私は「喫茶店の片隅で」をカラオケで歌うのが好きである。
https://youtu.be/qxgSXd1AZj0?si=rp_T5u3KZ5rVgzRt

そして当時、日本のシャンソン界で起こっていたのは、作曲家の高木東六さんが推奨する「日本のシャンソン運動」だ。


これは「レコード会社主導の資本主義的な歌謡曲ではない、民衆の手によって歌われるシャンソンの創出」を掲げたものであった。
高木さんの自伝を読むと、自身の代表曲「水色のワルツ」が完成した際に、専属のビクターレコードに提出すると「こんなのは売れない」と没になったことに腹を立てて会社を退職し、コロムビアレコードに持ち込んだことがあったらしい。
おそらく、その辛酸が高木さんの資本主義への闘志となったのだろう。
これを踏まえれば、松島さんが和製シャンソンを連発したのは、レコード会社による高木さんへの当て付けだったと推測できる。
結果的に、松島さんの和製シャンソンはヒットし、高木さんの「日本のシャンソン運動」は目的を果たせず自然消滅したので、まさに資本主義の勝利だ。
皮肉にも、昭和32年に開かれた松島さんのリサイタルのタイトルは「松島詩子が歌う日本のシャンソン」であった。

和製シャンソンの松島さんが、新宿のシャンソニエ「シャンパーニュ」に出演したことがあるのは驚きである。
最初はお店からの依頼で出演することにしたが、オーナーの矢田部道一さんが松島さんと同じく山口県出身で、彼の親類が教員時代の彼女の教え子だったことを知って意気投合したという。
さらに松島さんの晩年のコンサートには、シャンソン歌手の石井好子さん、高英男さん、芦野宏さん、有馬泉さん、池田純子さん等がゲストとして脇を固めていたことも分かった。

松島さんが公的にシャンソンを録音したレコードは多分ないと思われるが、実はフランスのシャンソンへの造形がある人で、ステージでは結構歌っていたのではないかと思わずにはいられない。

 

岩見沢「シャンソン酒場peuple」の記

2023年12月20日
1年ぶりに、岩見沢シャンソン酒場peuple」へ。
多分日本で唯一シャンソンのレコードを聴かせてくれるシャンソニエ。

マスターにカトリーヌ・ソバージュのレコードをリクエスト。

そして世間話をしたあとに、リクエストしていないのに、セルジュ・レジアニ、パトリック・ヌジェのCDをセットしてくれる絶妙な采配。なんで私の趣味が分かるのかしら? これが半世紀お店を営んでこられた手腕なのでしょう。

今宵は、グラシェラ・スサーナのデビューレコードが岩見沢から全道に広がっていったというお話をお聞かせくださった。
毎回勉強になる。

そして、さりげなく私の現状を察して、慰めつつ戒めてくださったマスターのお心遣いに感謝。
今年は良いことも散々なこともあった一年でしたが、来年も置かれた場所に咲けるように精進しないといけません。
すべては、「シャンソン酒場peuple」への飲み代と電車賃のために。

【再訪】

2024年2月28日、岩見沢シャンソン酒場Peuple」へ。

先日、黒澤明「生きる」を観ていると、主人公役の志村喬シャンソンバーに入る場面があった。


大きなカウンターにキラキラしたグラスの数々、そしてジョセフィン・ベイカー「J’ai Deux Amours」、ダミア「Dis-moi tout bas」が流れるのを観ると、無性に「Peuple」に行きたくなった。
加えて、月始めに病床に伏せていたとき、偶然マスターからお電話いただいたことも、大変励みになった。
何か手土産をと思い、BOOK・OFFを1時間物色して、ファド歌手のドゥルス・ポンテスのライヴ盤を探し出す。
シャンソンのお店にシャンソンのCDを持っていくのは無粋だと思うので、上々である。

マスターと再会を喜びつつ、まずは日本酒を頂く。
増毛「国稀」を、大きなグラスに並々とついで下さるのが嬉しい。
そしてリクエストしたのは、大木康子さんのレコード。


かねてから、このお店の雰囲気には大木さんがふさわしいと思っていた。
銀巴里ライヴのジャケットの大木さんは、あどけなさを感じる肖像だが、歌声はさすが成熟している。
「大木さんを聴く人、珍しいよ」「いやいや、聴いている人、結構いますよー」と話ながら、1曲目の「恋の友達」を一緒に歌ったのが楽しかった。

銀巴里繋がりで、「札幌銀巴里」の話になり、鬼籍に入った歌川勉さん、斉藤雪子さん、嶋保子さんの話になる。
マスターが語る、神山慶子さんのお店「ソワレ・ド・パリ」は、豪華な店内に黒服さんたちが沢山いた頃の思い出であった。
私が知る「ソワレ・ド・パリ」は、神山さんがお一人でのびのびと歌ってらしたお店だから、私の知らない時代の記憶である。

また、岩見沢にコンサートに来た深緑夏代さんの楽屋を訪ねたお話もお聞かせくださった。
そのときマスターは、深緑さんが宝塚を退団して、契約の関係で一回だけ出演した東宝のミュージカル「マイ・フェア・レディ」について質問したらしい。
深緑さんの伝記『深緑夏代: 宝塚・シャンソンに生きる』(下瀬直子著)のなかには、そのことはサラッと一行で記されているのみだが、それを突き詰めたマスターに惚れてしまう。

大木さんのレコードが終わると、ドゥルス・ポンテスのCDへと続いたが、私はというと、日本酒からウイスキーに河岸を変えてグラスを重ねていったので、記憶があやふやになっていく。
あげくには、3枚目の新井英一のCDを荒木一郎と聞き間違えて覚える始末だった。
新井さんの「遠くへ行きたい」を聴きながら「なぜ荒木一郎が?」と疑問が頭をかけめぐり、最近永六輔のテレビ番組「遠くへ行きたい」のアーカイブを夜な夜な観ているのをなぜマスターが察したのか、やはり只者ではない、と確信しつつ、うじうじ泣き出す体たらくをさらしたのであった。

「ちょっと、この歌手を聴いてみて」
とマスターが流したのは、フランソワーズ・クシェイダのCDである。
日本では彼女の「小さな紙切れ」というシャンソンが知られている。
「この人はピエール・バルーに見出だされた人なんだ」
と言いながら、クシェイダのCDの隣にピエール・バルーのCDを並べる。
しかし、ここで私の泥酔もピーク。
電車の時間も迫っていたので、後ろ髪ひかれながら、ここでお暇する。

最後にこんな興味深い話題とCDを出してくるのはズルすぎる。
また来月、岩見沢行きの電車に乗らねばならないではないか。
遠くへ行きたくはないから、私はただただ岩見沢に行きたい。

銀巴里20周年記念コンサートのプログラム

1969年6月5日(木)、サンケイホールにて「銀巴里創立20周年記念シャンソンフェスティバル」なる催事が開かれた。
そのプログラムを手にいれたので一日中眺めていたが、ステージの豪華さといったら目を見張るばかりだ。

美輪明宏さん(当時は丸山姓)を筆頭に、宇井あきらさん、沢庸子さん、木村正昭さん、戸川昌子さん、と開店当時のバンドマスターだった原孝太郎さんの弟子たちがトップに君臨する。
そして大関格の仲マサコさん、山本四郎さん、小海智子さん、工藤勉さん、仲代圭吾さん、金子由香利さんと続く。
さらに、シャンソンコンクールの受賞者で石井好子さんの音楽事務所の専属だった、加藤登紀子さん、大木康子さん、薩めぐみさん、深緑夏代さんの弟子からキングレコードでデビューした当真美智子さんが出演する。
ゲストは、なかにし礼さん、司会は音楽評論家でもあった志摩夕起夫さん。伴奏は、昨年亡くなった吉村英世さん、美輪さんの出演時は結城久さんがつとめている。

曲目を見ると、意外とオリジナル曲が多い。
薩さんの「恋のなごり」、仲代さんの「謎の女B」、宇井さんの「それでいいのさ」はオリジナル曲だ。
極めつけは、二部で歌われた美輪さんの「ヨイトマケの唄」で、それに続いて「星の流れに」「裏町人生」「別れのブルース」の歌謡曲が歌われている。
美輪さんは、シンガーソングライターの草分けであるが、その「ヨイトマケの唄」を辿れば、戦前の「別れのブルース」のモダニズム、「裏町人生」のニヒリズム終戦後の「星の流れに」の焼け跡の辛苦という、昭和の精神史が浮き彫りになる演出となっている。
また、工藤勉さんの代表曲「陽コ当ダネ村」が当時は「陽ツコ当だねな」というタイトルだったことや、今ではあまり名前の出ることのない木村さんがレオ・フェレの「悪の華」に挑んでいるのは面白い。銀巴里が、文学シャンソンの受け皿であったことの証である。
さらに、和製ジュリエット・グレコと言われた沢さんがダミアの「かもめ」を歌っていることも興味深い。

ところで、このプログラムには蘆原英了さんや高英男さん、中原淳一さん、五木寛之さんなどの芸能関係者や作家が賛を寄せている。
しかしながら、出演者を代表して寄稿した工藤勉さんは、美輪さんや沢さん、戸川さんを誉めた最後に「今の銀巴里には、こういう歌手はいなくなった」と突然落としにかかってるし、音楽評論家の諏訪英一さんに至っては、歌手同士や客同士の派閥、フランス語を知らないことをバカにするインテリ、フランスのシャンソンと和製シャンソンの違和感に触れて、「シャンソンは日本人の心情に定着しない」と批判している。
誉めてるのか、けなしているのか、プログラムを読んでる側もヒヤヒヤするが、こうした広い意見を尊重して受け入れた場所が銀巴里だったのだろう。
ある意味、現代よりも生きやすい時代の空気を感じた。 

 

銀巴里の20周年は大々的に祝われたようで、記念のLPレコード「シャンソン・ド・銀巴里」も発売されている。


こちらは、歌手たちがレコーディングスタジオで吹き込んだもので、収録歌手がこのコンサートの出演者と被っていることにも注目したい。

 

東京新聞、越路吹雪特集

東京新聞1月4日夕刊は、越路吹雪さんの生誕100年の特集。
ミュージカル俳優の鹿賀丈史さん、シャンソン歌手の八田朋子さん、ソワレさん、峰が越路さんの魅力を語っております。

取材してくださった共同通信社の女性記者さんは、私と同い年でした。
越路さんのファンだったお祖母様とのふれあいのなかでシャンソンに接していたというお話に、私も胸が温かくなりました。

今年は、芦野宏さん、シャルル・アズナブールも生誕100年に当たり、パリ五輪もありますので、メディアを通じてシャンソンが盛り上がることを願っています。

1982年の「BRUTUS」はフレンチ特集

12月29日はシャンソンの日なので、最近読んだ雑誌を紹介します。

BRUTUS」1982年8月15日号は、「悦楽のフレンチ・スタイルが気になる」と題した特集が組まれている。
パリの観光スポット、ブティック、レストラン、酒場にいたるまで、魅力溢れるカテゴリーを網羅した情報誌となっている。
なかでも、フランスで活躍する粋な男たちを特集したコーナーが面白く、シャンソン歌手では表紙のセルジュ・ゲンズブールピエール・バルー、イヴ・シモン、ジャック・イジュランが取り上げられている。

当時のゲンズブールは、妻のジェーン・バーキンと別れており、表紙で隣に写っているドイツ人と中国人ハーフのバンブーは、新しいパートナーであった。
誌面では、ゲンズブールのプレイボーイぶりと癖の強い経歴とライフスタイルが語られる。
珍しいのは、ゲンズブールの自宅の写真が掲載されていることで、2階には「人形部屋」と称したアンティークの玩具やビスクドールに溢れた子供部屋のような小部屋があったようだ。
さすがサルバドール・ダリ内弟子だっただけあってセンスを感じるが、そこに座り込んで笑っているゲンズブールや、取材中に訪ねてきた娘のシャルロットにバーキンの近況を尋ねる様子などを見ていると、やはり彼はスキャンダラスな人柄を演じていたのであろうし、それに付き合わされた女たちの心情を想像するに、ただただ虚しくなってくる。

イヴ・シモンやジャック・イジュランは、当時はまだ出始めの歌手であった。
後々、2人ともフランスで大成したが、日本でシモンは作家として知られ、イジュランにいたっては息子のアルチュール・アッシュのほうが知名度が高いように思われる。
ちなみに、この2人を日本に紹介したのは、音楽評論家の永瀧達治さんだ。

この雑誌で最も恩恵を受けたのは、ピエール・バルーであろう。
雑誌のインタビュアーの立川直樹さんは、バルーと対談して意気投合する。
やがてバルーは日本に興味を示して来日し、結果的にはフランスと日本を音楽活動の拠点とすることとなる。
誌面のなかでバルーは、「未来と過去というものを僕はいつも混同してしまう。現在が自分にとって大事なんだ」と語る。
この実存主義が、バルーに世界中の音楽への関心を目覚めさせ、自身のレコードレーベル「サラヴァ」に結実したことを思えば、彼の生き方こそ一番共感できるような気がする。

それにしても、日本が豊かだった頃の雑誌は読んでいてリッチな気持ちになる。
読んでいて面白かったのは、記者がパリのアルゼンチンタンゴの店を取材中に、ブラックユーモアの戯作者ローラン・トポールと偶然知り合い、インタビューすることに成功していることだ。
そんな体当たりな取材旅行と誌面作りができたのは、やはり時代の余裕なのだろう。
最近の雑誌では「ディストピア・ジャパン」などという特集が組まれるくらいなのだから、心も寒々しくなるばかりである。