シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

『シャンソン・ド・パリ』

明るい戦時下ー娯楽としての『シャンソン・ド・パリ』

最近マイブームの、戦前のシャンソン史シリーズです。

昭和13年コロムビアレコードより

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シャンソン・ド・パリ(Chanson de Paris) 第1集』

が発売された。これは、SPレコード6枚組のボックス(というより、大きな本にレコードが収納されていた)であった。収録曲は、フランスのシャンソン歌手による楽曲12曲である。
ジャケットは、当時フランスで活躍していた洋画家の藤田嗣治が、パリの公園から街を見下ろした洒落た絵を描いた。歌手の解説と楽曲の対訳は、戦後にシャンソン評論家として活躍した蘆原英了が執筆している。
このボックスは当時大ヒットし、一万二千セットが売れたという。
この当時は学生で、戦後になって活躍した文化人たちが、同居の家族や知人を通じて、このボックスのレコードを聴いたと多数証言していることから、中産階級の人々が、このボックスを買い求めていたと思われる。

そして、このボックスは日本に「シャンソン」という言葉を根付かせる決定打となった。例を示すなら、翌年の昭和14年にヒットした岡晴夫の歌謡曲「港シャンソン」である。歌謡曲のタイトルに「シャンソン」という言葉が使われ、船乗りが出港する内容であることから、きちんと「フランスの歌」というニュアンスを理解しているのが分かる。

このヒットを受けて、コロムビアレコードは、昭和15年

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シャンソン・ド・パリ 第2集』

を発売した。同じくレコード6枚組12曲の構成で、ジャケットは洋画家の宮本三郎がフランスのバレリーナのような美しい女性像を描いた。解説は再び、蘆原英了だ。
このボックスの売り上げに至っては、第1集を上回り、二万三千セット(一万二千セットの説もあるらしい)売れたという。

ちなみに、続く第3集は、太平洋戦争を経て、戦後になって発売された。

ただ、ひとつ疑問が残る。なぜこんなに、このボックスが売れたのか、ということだ。
このボックスの価格は、12円50銭。当時、米10キロが約2円の時代である。
いくらシャンソンがブームになったとて、言葉の分からない外国語のレコードのボックスに、大金を払うニーズがあったのだろうか。

それは、当時の世相を見なければならない。
昭和12年日中戦争が勃発したことにより、翌年には国民を戦争に駆り立てるために統制する「国家総動員法」が成立し、生活が厳しく制限されていく。
同時に国が推し進めたのは、娯楽の統制であった。12年に、内務省が「興行取締の件」という公文書を発行し、戦時下にそぐわない娯楽を取り締まるよう通達したのである。
これによって、レコードや映画、演劇などの検閲し、多くの娯楽が発禁処分を受けた。

しかしこの検閲には、抜け穴があった。
西洋の音楽や映画の検閲はスルーされていたのである。
当時の検閲官は、大学卒のエリートたちであり、彼らにとって、西洋の娯楽は上品なものであり教養であるという認識だったのだ。彼らは、日本の娯楽を厳しく規制し、日本の文化レベルを西洋と同等に引き上げようとすら思っていたらしい。

国民生活の統制と娯楽の欠乏のなか、この『シャンソン・ド・パリ』は発売されたのである。おそらくは、金をもて余した中産階級が、戦時下の不安から逃れるために、目先の娯楽に走った、というのが、ボックスのヒットの背景であろう。
いまの「ステイホーム」で、家で楽しめる娯楽が次々と生まれているのを思えば、この仮説は真実味を帯びてくるだろう。

では、この『シャンソン・ド・パリ 第1~2集』は、どのような内容だったのだろうか。
今回、私は戦後にLPレコードで再発売された『シャンソン・ド・パリ』を聴いてみた。

第1集は、当時から国民に知られていた歌手が多く収録されている。

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リュシエンヌ・ボワイエ(Lucienne Boyer)、ダミア(Damia)、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)、ミスタンゲット(Mistinguett)は、ボックス発売前から、日本で知られていた。
また、リス・ゴーティー「巴里恋しや」(Lys Gauty「A Paris dans chaque faubourg」。現在「パリ祭」のタイトルで知られる)は、昭和8年に日本で公開されたフランス映画「巴里祭」の主題歌である。また、ジャン・ソルビエ「リラの花咲く頃」(Jean Sorbier「Les lilas」)は、昭和5年宝塚歌劇団が上演したレビュー「パリ・ゼット」の挿入歌「すみれの花咲く頃」のオリジナルであった。

このボックスの全体的な曲調は、タンゴ調のものが多く、はじめてシャンソンを聴く者でも、アップテンポで楽しめる内容になっている。
一方で、イヴォンヌ・ジョルジュ「水夫の唄」(Yvonne George「Chanson de marin」)は、スローテンポな曲調で、ジョルジュのダミ声は当時のシャンソンマニアが好むものであった。
シャンソン・ド・パリ 第1集』は、シャンソン初心者とマニアが双方楽しめる、まさに日本人向けの構成であった。

しかし、『シャンソン・ド・パリ 第2集』は、その様相が変わってくる。

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これまで日本で知られていた歌手が減り、タンゴ調の曲は消え、ラテンやミュゼット、スイングジャズなどの幅広い曲調の楽曲が収録されている。現に、現在も歌い継がれているのは、シャルル・トレネ「ブン」(Charles Trenet「Boum」)だけであるが、これも日本でトレネが人気になった戦後に再評価された楽曲だ。
では、このボックスの価値はどこにあるのか? それは歌詞にある。
蘆原英了の対訳を引用してみよう。

「忍び寄るあなたの手は あたしの手を求める
それは誓いの言葉にもまさり
もっと心をかき乱す」
(リュシエンヌ・ボワイエ「あなたの手(Ta main)」)

「彼は私のそばに膝まづき
とても優しく私を見つめた
心ときめくあのひと時よ」
(ダミア「あの夜の夢(J'ai reve cette nuit)」)

「あたしを腕に抱いて頂戴!
来る日も来る日も 優しい愛撫によみがえる」
(リス・ゴーティー「腕に抱いて(Prends-moi dans tes bras)」)

この歌詞を見ると、収録曲の多くが恋にまつわるものであり、上記のような身体的接触を匂わせるものまであるのが分かる。
無論、国内でこのような内容の流行歌を発売すれば、確実に発禁処分を受けるであろう。

さらに注目したいのが、イヴォンヌ・ジョルジュ「ナントの鐘(Les cloches de Nantes)」だ。これは、ナントの牢獄に収容された男が、番人の娘を誘惑して脱獄するという内容である。
当時の日本は、「治安維持法」を施行して、社会主義者と疑われる者や戦争に反対するものを不当に逮捕し、処罰していた。このような時に、脱獄者の楽曲を発売することなど、まさに「良俗」なるものに反する行為だ。

シャンソン・ド・パリ 第2集』が、このような構成になったのは、検閲に対するレコード会社の戦略であろう。検閲が、西洋の音楽には緩いことを逆手に取って、日本の流行歌としては発売できない内容のシャンソンを集めて、収録したというのが真相ではなかろうか。
ここに、娯楽を発信する者たちの、強い意地を感じずにはいられない。

シャンソン・ド・パリ』は、日中戦争下の緊縮した日本で、娯楽をいかに人々が求めていたか、というのを知ることができる資料だ。
しかし、国民が娯楽に興じるあまり、国策への関心が薄れ、結果として太平洋戦争に突入したことは、きちんと反省せねばならないだろう。
娯楽を含めた「文化」は、戦時下などの非常時でも大いに発展することを、強く胸に刻んでおきたい。

昭和10年頃のシャンソン事情③

昭和10年頃のシャンソン事情
③戦前のシャンソンブームの立役者・倉重舜介

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先日入手した、雑誌「音楽倶楽部 パリ流行歌(しゃんそん)特集」(昭和10年7月 楽苑社)を通じ、戦前のシャンソン事情の調査報告をするシリーズ最終回。

雑誌を読むと、「シャンソニエール」というタイトルで、フランスのシャンソン歌手のプロフィールと評価を詳細に記している文章が載っている。
それを書いたのが、作曲家の倉重舜介さん(くらしげしゅんすけ。当時は「瞬輔」名義)という人物だ。

彼は、現在のシャンソンの世界では忘れられた人物である。しかし、昭和32年刊行の書籍に、彼の経歴が載っていたので紹介したい。

倉重さんは山口県の生まれで、国立音楽大学ピアノ科を卒業し、フランスに渡って作曲を学んだ。このとき、フランスの作曲家のラヴェルと対談した記事が残っている。そして、そこでシャンソンの魅力に惹き付けられた。
帰国後は、放送局関係や作曲、指揮者として活躍した。またシャンソンの影響を受けて作った楽曲、いわゆる「和製シャンソン」を発表した元祖であった。さらに、自身の楽団で「軽音楽」と称してシャンソンを演奏したり、フランスのオペレッタを編曲して上演したりなど、フランスの楽曲の普及につとめていた。
昭和13年には、日本で最初のシャンソンの楽譜集『シャンソン・アルバム』(シンフォニー楽譜社)を刊行する。私は現物を見たことがないが、フランスでも現在資料が残っていないシャンソンの数々が収められているらしい。
戦後は「オルケストル・ド・ラ・シャンソン」という楽団を主宰し、NHKラジオで放送していたが、病気のため中絶。しかし、昭和32年には活動を再開したとある。
倉重さんについて分かったのはここまでで、生年月日や、現在の消息はわからなかった。

戦前の倉重さんの活躍ぶりを見ると、単にフランスの音楽事情に精通していただけでなく、日本でシャンソンという音楽ジャンルを浸透させるために奮闘していた様子が伝わってくる。

そのために、倉重さんはフランスのシャンソンを「パリ流行歌」ではなく、きちんと「シャンソン」という名称で普及させようとした。
倉重さんは昭和9年10月に、ラジオ番組で数回に渡って自身の音楽講座を持ち、シャンソンについて大いに語ったが、放送局からの圧力から「シャンソン」という言葉は使えなかったという。
そんな時に、倉重さんが白羽の矢を立てたのが、前回も紹介した岡田静枝さんだ。岡田さんは、フランスで倉重さんに師事していた歌手?であり、帰国後は自身のラジオ番組を持っていた。その番組のなかで、彼女ははじめて「シャンソン・ドラマティク」という言葉を使い、これをきっかけに、日本で「シャンソン」という言葉が普及したが、その番組の製作指揮をしていたのが、倉重さんであった。
つまり、倉重さんは岡田さんに「シャンソン」という言葉をラジオで言わせることで、それを日本語として定着させることに成功したのである。倉重さんがいなければ、「パリ流行歌」が「シャンソン」と呼ばれるようになったのは、戦後まで待たねばならなかったかもしれない。

そして、倉重さんの最大の功績は、昭和9年に来日していた画家の藤田嗣治の妻(愛人)のマドレーヌ・藤田(Madeleine Fujita)に、日本語の訳詞でシャンソンを歌わせたことである。

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マドレーヌ・藤田は、カジノ・ド・パリというキャバレーの踊り子だったが、当時パリの寵児だった藤田が見初めて愛人となる。日本では、四番目の妻と言われているが、多分入籍はしていないのではないかと思われる。
昭和8年、藤田はマドレーヌとともに日本に帰国。その時は熱烈な歓迎を受け、藤田は国内に沢山の作品を残している。
倉重さんは、マドレーヌがパリのキャバレーの踊り子出身で歌とダンスが堪能なことと、日本語がそれなりに話せることに目をつけて、フランスのシャンソンと、自身が作曲した楽曲を日本語で歌わせることを思いつき、実現させたのだった。

このとき、マドレーヌが倉重さんとともに吹き込んだレコードは、2枚存在する。

「みんなあなたに」(相馬仁作詞、倉重舜介作曲)
「恋はつらいもの(si l'on ne s'etait pas connu)」(相馬訳。原曲はアルベール・プレジャン(Albert Préjean)のシャンソン「水夫の歌」)

「若き闘牛士(Torero)」(千家徹三訳 ロジェール・デュファ(Roger Dufas)という人のシャンソン)
「九尺二間(Une humble demeure)」(相馬訳。上記のデュファのシャンソン)

パリ帰りの有名日本人画家のフランス人妻が日本語で歌う楽曲、という触れ込みは、インパクト充分である。こうして、倉重さんは当時の日本の流行歌の世界に、フランスのシャンソンを定着させようとしたのだった。ただ、ひとつ不幸だったのは、マドレーヌのレコードが「ジャズソング」に分類されてしまったことだろう。

実はこれらの楽曲はYouTubeで聴くことができる。(「マデレイヌ藤田」で検索してください)
カタコトの日本語で歌うマドレーヌのシャンソンは、正直印象に残るようなものではない。ただ、当時のパリのキャバレーの雰囲気は伝わるような気がする。

むしろ私が驚いたのは、倉重さんの作曲の才能の豊かさだ。
それは、和製シャンソン「みんなあなたに」に表れている。

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☆みんなあなたに 
思い出します 夕べの言葉を
例え浮気な あなただとて
★みんなあなたに あなたにみんな
みんなあなたに あなたにみんな

みんなあなたに
どうせいつまで 若いだなんて
あたしは好きなの 綺麗な人が
みんなあなたに あなたにみんな
みんなあなたに あなたにみんな

この楽曲のメロディは、何も情報がないまま聴くと、まるでフランスのシャンソンのように良くできたものだ。マドレーヌに合わせて稚拙な歌詞がついてしまったが、日本人歌手のために作詞をした楽曲だったならば、間違いなくヒットしたであろう。
そしてこの楽曲は、フランスのシャンソンの基本構造と言われる、物語のストーリーを説明するクープレと、サビの部分にあたるルフランが、きちんと盛り込まれている。この楽曲ならば、☆がクープレ、★がルフランにあたる。
倉重さんが、フランスのシャンソンの特徴をきちんと理解し、それを自身の作曲に生かせる人だったのが分かる。

戦前の日本のシャンソン事情を見ていく上で、倉重舜介さんは重要人物だ。彼がいなければ、日本のシャンソンブームは、もっと遅れていたことであろう。

そしてこのシリーズの最後は、その後のマドレーヌについて、見ていきたい。
藤田とともに来日したマドレーヌだったが、病の母の見舞いのためにフランスに一時帰国する。そしてその間に、藤田は日本人女性と結婚してしまう。
それを知ったマドレーヌは、昭和11年に再び来日する。しかし、彼女が藤田の生活に入り込む余地はなかった。そして、彼女は再び日本でレコードを吹き込んでいる。これには、倉重さんは関わっていなかったと思われる。

「雨の夜は(Il pleut sur La route)」(白石正之助訳。一般的に「小雨振る径」のタイトルでしられる)
「別れ行く(Blutrote Rosen)」(堀内敬三訳。ドイツの「深紅のバラ」という楽曲)

その録音の数日後、マドレーヌは戸塚の住宅で入浴中にモルヒネ中毒で死去した。享年29才。
まさに「みんな藤田に」の薄幸な人生だったと言える。

(シリーズ完結)

昭和10年頃のシャンソン事情②

昭和10年頃のシャンソン事情
②当時人気のシャンソン歌手

先日入手した、雑誌「音楽倶楽部 パリ流行歌(しゃんそん)特集」(昭和10年7月 楽苑社)を通じ、戦前のシャンソン事情が見えてきたので取り上げてみたい。

まず見たいのは、この雑誌のタイトルである。
「パリ流行歌」と書いて、平仮名で「しゃんそん」とルビが振ってある。これは、当時の日本で「シャンソン」という名称が一般に定着する過渡期だったことを表している。
もともとフランスのシャンソンを「巴里流行歌」と訳したのは、昭和5年の宝塚のレビュー「パリ・ゼット」のパンフレットであった。そこには、

「七ツの巴里流行歌を主題にしたレビュー」

とある。この呼称が定着し、声楽家・佐藤美子さんは昭和7年シャンソンのみで構成したリサイタル「パリ流行歌の夕」を開いている。

ところで日本で最初に「シャンソン」という言葉がメディアに登場したのは、昭和9年12月9日にNHKラジオで放送された岡田静枝さんという音楽家?の番組だったと言われている(この番組については次回詳しく紹介します)。
このラジオ番組で「シャンソン・ドラマティク(原文ママ)」という言葉が使われて以来、メディアは徐々に「パリ流行歌」を「シャンソン」と呼ぶようになった。それが、この雑誌のタイトルにも表れている。

だが私の調べでは、「シャンソン」という言葉が、昭和5年にすでにメディアで使われていたのが確認できた。当時の流行歌手・佐藤千夜子のレコード「琵琶湖シャンソン」である。この楽曲の作詞者は詩人の西條八十で、昭和6年シャンソン「パリの屋根の下(Sous les toits de Paris)」を訳詞した人である。西條はフランス留学の経験があるので、フランス語の「Chanson」をカタカナに置き換えて、自分の作品に用いたのであろう。ただ、「シャンソン」を「唄」という意味だと理解できた人がどれだけいたかは不明である。

話を戻し、昭和10年7月に「パリ流行歌(しゃんそん)特集」が組まれた背景を見ていきたい。
おそらくそのきっかけは、同年の5月14日の夜に行われた「日佛交歡放送(にちふつこうかんほうそう)」というラジオ番組だったと思われる。これは、日本とフランスで国際電波を使ってそれぞれの国の放送を流すものであり、フランスから流れてきたのは、リュシエンヌ・ボワイエ(Lucienne Boyer)のシャンソンだったのだ。
前回の投稿で述べたように、昭和6年頃にボワイエのレコード「聞かせてよ、愛の言葉を(Parlez-moi d'amour)」が国内で発売されて以来、彼女の知名度は高まっており、この放送によってその人気が最高潮に達したのである。
この放送でも「聞かせてよ、愛の言葉を」は流れたらしく、パリ流行歌といえばこの曲!というトレンドが出来上がったのだろう。武満徹さんや石井好子さん、美輪明宏さんなどの戦前生まれの音楽家たちが、こぞって「聞かせてよ、愛の言葉を」を聴いた思い出を語るのは、こうした背景があった。
確かに、いま聴いても「聞かせてよ、愛の言葉を」は美しいシャンソンだ。歌い出しの「パーリ モワ ダームー」という発音も耳馴染みが良いし、ピアノとバイオリンの伴奏とボワイエの精緻な歌声は、例えフランス語が分からなくても、聴くうちに幸福感に満たされる。

その国際放送の反響を受けての「パリ流行歌(しゃんそん)特集」であるが、内容はフランスに留学経験のある音楽家たちが、パリで見聞きしたシャンソンのステージや、好きなシャンソン歌手について記した原稿を寄せている。
これを読むと、当時の日本で人気だったフランスのシャンソン歌手が見えてくる。

もちろん一番人気は、ボワイエだ。寄稿者の大半が彼女への賛辞を寄せている。
そして意外にも、その対局にいる女性歌手のマリー・デュバ(Marie Dubas)を誉める人が多かった。デュバの歌声は、耳がキンキンするようなダミ声で、まくしたてるように奔放に歌う印象だが、フランス帰りのインテリ層にとっては「パリの下町を思い起こす」ものだったらしい。言うなれば、玄人好みの歌手だったのだろう。

また、宝塚のレビュー以来、フランスのレビューの女王として知られていた、女性歌手のジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)とミスタンゲット(Mistinguett)、フランス映画「パリの屋根の下」で主題歌を歌った俳優のアルベール・プレジャン(Albert Préjean)は、安定した人気があったようだ。これはシャンソンの良さ云々よりも、知名度によるものと思われる。

さらに、当時人気が急上昇していたのがスペインからフランスに渡って活躍していた女性歌手のラケエル・メレ(Raquel Meller)だ。メレは、当時のフランスで興ったラテンブームに乗じて人気を得た歌手で、厳密には彼女はシャンソン歌手ではなくラテン歌手だ。しかし当時の日本では、フランスで発表された楽曲だから、という理由で、メレはシャンソン歌手として紹介された。そして、歌人塚本邦雄さんをはじめとする、戦前は学生だったシャンソンマニアたちがメレを信奉し、戦後の再評価に繋げている。
また、メレの人気に拍車をかけたのが、彼女の代表曲「ドンニャ・マリキータ(Dona Mariquita)」を、昭和10年淡谷のり子さんがメレに劣らない見事なソプラノでカバーしたことだった。当時の人は、日本語で歌う淡谷さんを楽曲を聴いてから、メレの原曲にハマっていったのだろう。ちなみに、これをきっかけに、淡谷さんは日本を代表するシャンソン歌手の道を歩んでいくこととなる。

そして、このとき静かにブームになっていたのが、女性歌手のダミア(Damia)だ。彼女の哀愁を帯びた歌声もまた、フランス帰りのインテリ層を中心に好まれていたようだ。
ダミアを広めたのは、先に記した岡田静枝さんだった。岡田さんがパリにいた頃にダミアのステージを観て魅了され、帰国後に自身のラジオ番組でダミアを流していたらしい。これは推測だが、昭和9年のラジオ番組で「シャンソン・ドラマティク」と称したのは、ダミアのことではなかろうか。

こうして見ると昭和10年頃のシャンソンは、ボワイエの精緻さ、デュバの喧騒、メレの南国趣味、ダミアの哀愁、とバリエーション豊かであった。しかし、やがて日本が戦争に向かっていくのにつれて、ダミアの憂いを帯びた歌声が人々の心を掴むようになったのは皮肉である。
しかしそれを経て、戦後のダミアの来日公演が催され、日本で再びシャンソンブームが起きたことを思えば、まこと歴史の巡り合わせは奇妙である。

画像は「音楽倶楽部」のグラビア。
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①上.リュシエンヌ・ボワイエ 下.ジョセフィン・ベーカー
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②右.ミスタンゲット 左.ダミア
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③右.ラケエル・メレ 左.マリー・デュバ

(次回、最終回)

昭和10年頃のシャンソン事情①

昭和10年頃のシャンソン事情
①日本最初のシャンソンのレコード

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先日、雑誌「音楽倶楽部 パリ流行歌特集」(昭和10年7月 楽苑社)を入手した。
これを通じて、戦争が始まる前の昭和一桁代の日本のシャンソン事情について見識を深めることができたので、全三回にわけて紹介したい。

まず、昭和初期における日本のシャンソン史を振り返る。

昭和2年宝塚歌劇団シャンソン「モンパリ(Mon Paris)」を主題歌にしたレビュー「吾が巴里よーモン・パリ」が上演される。
5年には再び宝塚でシャンソンレビュー「パリ・ゼット」が上演。
6年、フランス映画「パリの屋根の下(Sous les toits de Paris)」がヒットし、同名の主題歌を声楽家田谷力三がレコードに吹き込む。
7年には、フランス帰りの声楽家・佐藤美子さんがシャンソンのみで構成したリサイタル「パリ流行歌の夕べ」を開く。
10年、淡谷のり子をはじめとする歌謡歌手がシャンソンをカバーするようになる。
13年、コロムビアレコードよりフランスのシャンソン歌手のレコード六枚組のボックス「シャンソン・ド・パリ」が発売。

宝塚がシャンソンを取り上げたのをきっかけに、フランス映画や日本人歌手によるカバー曲を通じて、日本人がシャンソンが耳馴染みになり、やがてはフランスのオリジナルの楽曲にも関心を示していく過程が読み取れるだろう。

今回は、日本で最初に発売されたフランスのシャンソン歌手のレコードについて取り上げる。
菊村紀彦『ニッポンシャンソンの歴史』という書籍の記載から、日本で最初に発売されたフランスの歌手のシャンソンは、

リュシエンヌ・ボワイエ「聞かせてよ、愛の言葉を」(Lucienne Boyer「Parlez-moi d'amour」 )

だというのが定説だ。
しかし、このレコードにはひとつの謎が存在する。
発売年が不明なのだ。
菊村は、昭和10年発売と記載するも、昭和6年には自分の母親が口ずさんでいた、という証言を記し、結論を濁している。また、シャンソンに関してはWikipediaよりも詳しい、藪内久『シャンソンのアーティストたち』という書籍でも、その情報は欠落している。
つまりは、「聞かせてよ、愛の言葉を」が日本最初のシャンソンのレコードという説は、菊村の推論なのである。

だが、今回入手した「音楽倶楽部」には、その謎を解く手がかりが記されていた。誌面のなかに、当時のシャンソンのレコードの発売リストが掲載されていたのである。

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昭和初年、フランスのシャンソンのレコードを扱っていたのは、コロムビアとポリドールであった。
ポリドールは、フランス映画の主題歌を中心に扱っていたことがわかった。
そして、当時の日本でシャンソンのレコードをほぼ独占していたのが、コロムビアだ。
昭和10年の時点で、コロムビアからは約80枚のシャンソンのレコードが発売されていたことが、記事には書いてある。その当時のコロムビアのレコードは、黒ラベルに金字でタイトルが記され、品番が「J」からはじまるものだ。この当時のレコードは、私もいままで見たことがないので、いつか手にしてみたい一品だ。

さらに、「音楽倶楽部」の表紙の裏には、コロムビアのレコードのラインナップが、品番付きで記載されていた。
それを見ると、

リュシエンヌ・ボワイエ「聞かせてよ、愛の言葉を」

は、発売当時

ルシエンヌ・ボアイエ「甘い言葉を」

というタイトルだったのが分かった。
このレコードの品番は「J1478」だ。

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しかしよく見ると、これよりも若い品番のレコードが存在する。
それは、

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ジョセフィン・ベーカー「二人の愛人」(J1333)

である。

この楽曲は現在、「二つの愛」「二人の恋人」というタイトルで知られる「J'ai deux amoures」だ。
ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)は、アメリカからフランスに渡って活躍した女優であり歌手であった。彼女は、フランスのレビューで活躍していたことから、宝塚が「吾が巴里よ」を上演した時から、本場のレビュー歌手として、日本では知られていた。現に、昭和2年にはベーカーを主人公にしたドキュメント映画「麗美優(レビュー)モン・パリ」(「La Revue des revues」)が、国内で公開されている。
昭和初期の日本人にとって、フランスの歌手といえばベーカーであったことから、彼女のレコードが先に発売されたと思われる。

そして、ボワイエの「聞かせてよ、愛の言葉を(甘い言葉を)」とベーカーの「二人の愛人」は、フランスでは同年の1930年(昭和5年)に発売されている。ともすれば、日本にそれらが輸入されたのは、翌年の昭和6~7年頃だと推測できる。それならば先に記した、菊村紀彦の母親が昭和6年に「聞かせてよ、愛の言葉を」を口ずさんでいたという証言とも一致する。

よって、日本で最初に発売されたフランスのシャンソンのレコードは、

ジョセフィン・ベーカー「二人の愛人(「二つの愛」「二人の恋人」)」

であり、発売年は昭和6年頃と規定できるのである。

(次号に続く)

御礼♪無事終了

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御礼♪無事終了

『生きるーシャンソン歌手・深緑夏代』
☆生誕100年記念 動画配信

二日間にわたり配信した、故・深緑夏代さんのライブ動画は、無事に終了しました。
最終的な再生回数は、669回でした。
こんなに数多く再生していただき、企画者として感無量です。

同時に、視聴者の方々から沢山のお声が寄せれました。

「懐かしい映像をありがとうございました」

「素晴らしく、そしてかっこいい」

「滑舌の美しさ、気取らぬ歌いっぷり、説得力、指の先にまで行き届いた表現力、豊かな声、人間としての包容力、魅了されました」

「コロナで死生感を考えていたとき、「生きる」の力強さが、とても心に響いた」

「MCの「シャンソンを愛してください」に強く心打たれた」

その他、深緑さんに実際にお会いしたときのお話を書いてくださる方もおりました。
また、深緑さんのシャンソンを初めて聴いたという方もおり、

「とても引き込まれた」

「すごいエネルギーを感じた」

とコメントを頂きました。

深緑さんの在りし日を偲んでいただいたことに加えて、新たにその魅力に惹かれる方がいらっしゃったことが、大変嬉しかったです。

今回は、私のFacebookTwitterを中心に視聴者が広がっていきました。
記事や動画をシェアしてくださった方々、広報の場を提供してくださったFacebookのグループの管理者様に感謝申し上げます。

反省点もありました。
動画の紹介文で、関係者様のご芳名に誤りがありました。私の誠意が足りなかったことを深くお詫びします。
また、FacebookなどのSNSをやっていない方々への広報が不十分でした。今後また同様の企画をすることがあれば、シャンソン関連の団体様などに後援を依頼し、広報につとめることも考えねばと思いました。

また、動画配信を観たいけどインターネットの環境がない、という方が多数おられました。コロナ禍でイベントの開催が難しいので、動画配信を企画しましたが、それをご覧になれない方々にも視聴していただけるような方法があれば、と思いました。

今後もまた、シャンソン関連の企画をすることがありましたら、今回の経験を生かして取り組んでいきたいです。

この投稿をもって、ご報告と兼ねさせていただきます。

峰 艶二郎 拝

生きる シャンソン歌手・深緑夏代 生誕100年記念動画配信

『生きるーシャンソン歌手・深緑夏代』
☆生誕100年記念 動画配信

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本日より、配信開始しております。
9月24日(金)23時59分まで、YouTubeにて無料でご覧いただけます。

アカウント「深緑夏代生誕100年記念」
https://youtu.be/zCsJCTMUdTQ

【配信動画】
シャンソンフェスティバル」
2002年9月28日 釜石市民文化会館大ホール
より、深緑さんの出演シーン約16分

pf.忠平隆様 gt.児玉昌樹様
プロデューサー.中村富一様 照明.山上悦夫様

【曲目】
🔷「セ・シ・ボン」(Yves Montand「C’est si bon」薩摩忠訳)
♠️「待って」(Catherine Sauvage「Attendez」矢田部道一訳)
☘️「不思議ね」(Edith Piaf「Ça fait drôle」なかにし礼訳)
❤️「生きる」(Serge Reggiani「Ma dernière volonté」矢田部道一訳)

【Special Thanks】
中村恭美子様 千秋みつる様
忠平隆様 児玉昌樹様
山上悦夫様
斗南良子様 重南ゆうこ様

【企画】
峰艶二郎

蜂鳥あみ太=4号

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粧(よそお)いは暴力 ー蜂鳥あみ太=4号の夜

Facebookを約5年続けて、この投稿が私のシャンソンに関する100本目の記事に当たる。自分なりの信念をもって、記事のテーマは厳しく見極めながら書いてきたつもりだ。塵も積もれば山となる、ひとえに嬉しい。

そんなことを思っていると、いきなりスマホが動作不能になった。どこを押しても反応せず、本体がだんだん熱を帯びてくる。
私のイライラは最高潮に達していたが、今日はこれからライブに行かねばならない。

『北海道・札幌ガンゲット・ダイマ蜂鳥あみ太+acc田村賢太郎初来襲』

蜂鳥あみ太さん=4号さんは、全身網タイツとホットパンツ一丁で歌うシャンソン歌手である。
私が、あみ太さんを知ったのは大学生のときだった。当時、シャンソンに興味をもった私はインターネットで情報を集め、YouTubeシャンソンを聴いていたが、その頃はYouTubeのチャンネルを持っている日本のシャンソン歌手は皆無であり、結局のところ手当たり次第にCDやレコードを買い集めねば、シャンソンが聴けない時代であった。
しかし、そんな時にYouTubeで「シャンソン」と検索してヒットしたのが、あみ太さんだった。まるで、女装したピエール・モリニエ(Pierre Molinier)のような出で立ちに「シャンソンって、こんな感じなの?」と思ったものだが、氏が歌う越路吹雪の「ようこそ劇場へ」(ミュージカル「アプローズ」の劇中歌)を聴いて、「蜂鳥あみ太」の名前は私のなかに深く刻まれたのであった。

会場である「ガンデッド・ダイマ」に着くと、狭い路地を挟んだ向かいの建物の前で、アイラインを引く美しい男がいる。多分この人が、あみ太さんだろう。
まるでアングラ映画みたいな光景だったが、他人のドレスアップを覗き見るのはタブーであろう、私はそそくさと入店した。

会場で、今日の伴奏をつとめるアコーディオン奏者の田村賢太郎さんと再会し、懐かしい気持ちになる。田村さんが札幌でご活躍の頃に、ご出演のステージに伺ったのを覚えていてくださったのが嬉しかった。

かくして、あみ太さんと田村さんのステージが始まった。あみ太さんは、ステージに上がる前に、私の目の前でパーカーを脱ぎ捨てて、網タイツに包まれた姿態を露にした。華奢に引き締まった身体つき、肌のつや、きめ細やかさが、黒タイツ越しに光り、思わず見とれてしまう。
私の後ろにいた男の子も「綺麗…」もつぶやいていた。

セットリストは、シャンソンだけでなく諸外国の楽曲やオリジナルで構成されていた。1930年代に作られた楽曲が多い印象だ。
披露されたシャンソンだけ挙げると、次のとおり。

「歌舞伎」(Diane Dufresne「Kabuki」訳シモーヌ・深雪)
「葬送のタンゴ」(Jacques Brel「Tango Funebre」)
「人生、殴る蹴る」(Claude Nougaro「Vie violence」)

加えて、シャンソン歌手に好まれる他国の楽曲も挙げておく。

マンダレイ」(ドイツのキャバレーで歌われた曲)
「長い道」(ロシア民謡。別名「悲しき天使」)
「アマポーラ」(アメリカの流行歌)

あみ太さんによる「超訳詞」で歌われる楽曲の数々は、ときに過激な言葉やシチュエーションが飛び出す。これもまた、あみ太さんの「粧い」である。
奇をてらう、と言われればそれまでだが、その「奇」が現実に引き寄せられたとき、我々の心は暴力的に打ちのめされる。

印象に残ったのは、「アマポーラ」であった。
これを歌う前に、あみ太さんはコロナ禍での自粛期間中に感じたことを詩にしたためて、朗読した。それは次のような内容だった。

「ポルノグラフにはエロだけでなく、弱者を見世物にする感動ポルノや、故人の知人面をして注目を集めるお悔やみポルノなどがある。
そんな私も、こんな偽善に巻き込まれ、昔見た美しかった花の名も思い出せない。
だがその花もまた、人に見下ろされるのにうんざりしている」

そして「アマポーラ」の曲にあわせて、

「奴隷なの、奴隷なの 生きとし生けるものすべてが♪」

と毒づくのである。

美しい旋律の楽曲が、あみ太さんの悪魔的な歌詞に切り裂かれ、その血溜まりに映った「現実」を見たとき、我々はマゾヒストとして生きねばならないことを悟る。これは痛快なカタルシスだ。

ライブ後、私のスマホは嘘のように、すいすい動作するようになった。ライブ中は撮影自由だったのに、お陰で全く写真が撮れなかった。
もしや、店の前でアイラインを引く男を見たときから、私は別世界に迷い混んでいたのではなかろうか。
そして、その間は私もまた、あみ太さんの手中で「粧い」のひとつと化していたように思えてならないのである。