古武士のような御方
私が田中朗さんと知り合ったのは、氏が出演していた西荻窪のライブハウス「奇聞屋」を通じて、氏からCDを買ったのがきっかけであった。
「よかったらメールで話しませんか?」
と仰るのでアドレスをお教えしたところ、その日から怒涛のようにメールが届き、返信が遅れると気揉みした文面の催促のメールが送られてきた。
(さて、これは厄介な…)
と内心思ったが、メールのやりとりをすることに応じたのは私なので、こまめに返信をする日々が始まった。
あるとき、家で飼った小鳥が死んでしまったというメールが届き、
「今日はもう何もメールに書けません…」
と悲嘆が書かれていた。
それを読んで、「田中さんは純粋な方なのだ。この頻回のメールはその表れなのだ」と感じ、私の氏に対する心情は変化していった。
ここから、私と田中さんの本当のお付き合いは始まったと思う。
シャンソンを愛し、業界に背を向けた人だった。
その根底には、戦前生まれの田中さんが戦時中の軍国少年を経て、敗戦後に国民を騙して戦争に駆り出した国家への憎悪、反権威主義があった。
その姿勢に私は薫陶を受け、田中さんのお人柄で一番好きなところである。
田中さんには、私が評論を書いていることは伏せていた。
氏は音楽評論家を嫌っていたし、私も執筆目的で田中さんに近づいたと思われるのが嫌だった。
でも、もし田中さんが拙稿を読むことがあったときのために、恥のない文章を書いてきたつもりだ(ただ、この数年は恥ずかしいものも書いた気がする…)。
なので、私は田中さんにシャンソンのことは質問しなかった。
田中さんが徒然と送ってくるメールに返信するだけであった。
なので、田中さんからシャンソンについてのメールが送られてくるととても嬉しかった。
ある時、田中さんが「銀巴里」の開店間もないころに専属歌手をしていた頃について書かれたメールが届いた。
私は、とある歌手について手持ちの資料に書いてあった情報をもとに質問を送ったところ、
「そんなのは嘘の情報。誰がデタラメを言っているのだ」
とにべもなく返され、芸能関係の資料における信用性の低さというものを実感した。
田中さんは「銀巴里」の話の中で、浅川マキを「日本のグレコ」と呼んでいた。
浅川マキと長谷川きよしの3人でライブをしたことは、楽しい思い出だったようだ。
そういえば、長谷川きよしはエッセイなどで田中さんのことを良く取り上げている。
長谷川きよしの「ミラボー橋」はフランス語で歌われているが、歌詞カードの対訳は田中さんのものであった。
田中さんはフランス語が堪能で、シャンソンだけでなくフランスからの来日歌手の通訳、公演の司会をつとめられた。
そのときの話もメールに記されていた。
ジルベール・ベコー、シャルル・アズナヴール、ダリダ、ミシェル・ポルナレフなどの通訳をつとめたそうだが、なかでもイヴェット・ジローとマルク・エラン夫妻がフランスと日本の2カ国を活動拠点にしていた時期は、田中さんがゼネラルマネージャーをなさっていた。
この夫妻のお客への思いやりの深さ、不備がある公演会場であっても不平不満を言わない心の広さを尊敬されているようであった。
田中さんは司会業をするなかで、話し方の術を会得していったという。
話し始めに「あー」「えー」は言ってはならないことや、森繁久彌、志ん生、小さん、徳川夢声の話術を参考にしていることを教えてくださった。
これは、数年後に私がラジオ番組をもったときに大いに生かされ、森繁と加藤道子の「日曜名作座」のテープは私にとって教材となった。
田中さんからは「良い物を見て、良い物を聴きなさい」と言われた。
田中さんが青春時代に観たというフランス映画の「リラの門」は、DVDを贈ってくださった。
ジョルジュ・ブラッサンスが出演している映画で、ルネ・クレール監督作品のなかでもストーリーがしっかりと作られた見応えのある一作だった。
今でも私が一番好きなフランス映画は「リラの門」である。
そんな田中さんのライブを観てみたいと思い立って上京したのは、2018年の晩秋のことだ。
西荻窪の「奇聞屋」の階段を降りて、店内に入るとテーブルが2列に置かれている。
そして右の壁際に座って、コーヒーカップを啜っていたのが田中さんだった。
その姿は、鎧をまとった戦国武将の肖像画のようであり、まるで「古武士」のような風格だった。
私は挨拶するのも恐ろしくなり、テーブル席の端っこに座ったのであった。
田中さんは、学生時代にフランス語を極め、歌手の道に入った。
当時はジルベール・ベコーの早口のシャンソンに惹かれて「これが新しいシャンソンだ」という発見をして、彼の曲をレパートリーにしていた。
師事したのは、ピアニストのジャック滋野であった。
やがてピアニストの菅野光亮と出会い、彼の伴奏で歌い始めたが、菅野の急死後は自らピアノの前に座り弾き語りをするようになった。
田中さんはピアノの弾くとき楽譜を置かなかった。
「訳詞とは原詞をそのまま翻訳するものではなく、その背景にあるものを掴み取るもの」
という信念をもってらっしゃった田中さんは、それを表現するために歌と歌の合間に語りを挿入した。
それは原詞を暗記した上で、アドリブで語るものであった。
なので、氏のシャンソンは同じものが歌われることがなかった。
「歌手たるもの、床屋の赤と青の回転のような、繰り返しではあってはならない」
と仰っていた。
そのときの田中さんのシャンソンは今でも覚えている。
ダミアの「かもめ」を1人の水夫の語りで10分以上歌ったり、イヴ・モンタンの傑作「はるかなる友」やミシェル・ルグランの「風のささやき」は聴き応えがあった。
私は背筋を伸ばして身を硬くして緊張しながら聴いたのであった。
休憩時間、田中さんが客席ひとつひとつに挨拶にきた。
私がメールの主であることを伝えると、
「君か、君か」
と表情がほころんだ。
先程の古武士とは打って変わっての好々爺の顔であった。
そして、ライブが終わった後も、にこやかに挨拶まわりをしている田中さんに
「あの…「ミラボー橋」がどうしても聴きたくて」
とおずおずと言うと、
「やりましょう」
と一言おっしゃった。
その瞬間に、田中さんの表情は古武士に戻っていた。
そして田中さんが再びピアノの前に座ると、帰り支度をする客席は静まり返った。
そのときのライブは、私のなかで思い出に残るシャンソンのステージの5本指に入るものだ。
それからひと月しなかったと思うが、田中さんから「耳が聞こえない」とメールが届いた。
メニエール病を患われ、聴力を失い、めまいに襲われたという。
そして12月、奇しくもこの年に「奇聞屋」もまた閉店することになった。
クリスマス近くだったと思うが、夜に田中さんから電話が来た。
「奇聞屋の最後のライブで、僕は自分の卒業式をしようと思います」
私は何も言えなかった。
田中さんとはその後もメールをしたが、その頻度は減っていった。
最後に頂いたメールは、ちょうど香港の民主化デモが過熱しているときだった。
「日本の若者も、権力に立ち向かわねばならない」
そのメールが届いた翌日に、田中さんは倒れられたと聞く。
年齢を重ねるごとに自身のシャンソンを進化させていった田中さんにとって、その道が突然閉ざされてしまったことは、どんなにか無念だったろうと思う。
田中さんと、山田風太郎の『人間往生図鑑』についてメールで話したことがある。
私が「平櫛田中という彫刻家は107歳で往生したが、30年分の木材を買い込んでいた」という話をすると、
「人間はそうありたいものだ」
と仰っていた。
いま、私もまたこのエピソードを噛み締めている。
田中さんとの思い出を振り返り、私は
「良い物は良い、悪い物は悪い」
と言える人間でいたいと思った。
田中さんは自身の審美、正義、信条、純粋を貫いた人だったと感じている。
田中朗さんは、11月26日に逝去されました。










