シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

古武士のような御方 悼・田中朗さん

古武士のような御方

私が田中朗さんと知り合ったのは、氏が出演していた西荻窪のライブハウス「奇聞屋」を通じて、氏からCDを買ったのがきっかけであった。
「よかったらメールで話しませんか?」
と仰るのでアドレスをお教えしたところ、その日から怒涛のようにメールが届き、返信が遅れると気揉みした文面の催促のメールが送られてきた。
(さて、これは厄介な…)
と内心思ったが、メールのやりとりをすることに応じたのは私なので、こまめに返信をする日々が始まった。

あるとき、家で飼った小鳥が死んでしまったというメールが届き、
「今日はもう何もメールに書けません…」
と悲嘆が書かれていた。
それを読んで、「田中さんは純粋な方なのだ。この頻回のメールはその表れなのだ」と感じ、私の氏に対する心情は変化していった。
ここから、私と田中さんの本当のお付き合いは始まったと思う。

シャンソンを愛し、業界に背を向けた人だった。
その根底には、戦前生まれの田中さんが戦時中の軍国少年を経て、敗戦後に国民を騙して戦争に駆り出した国家への憎悪、反権威主義があった。
その姿勢に私は薫陶を受け、田中さんのお人柄で一番好きなところである。

田中さんには、私が評論を書いていることは伏せていた。
氏は音楽評論家を嫌っていたし、私も執筆目的で田中さんに近づいたと思われるのが嫌だった。
でも、もし田中さんが拙稿を読むことがあったときのために、恥のない文章を書いてきたつもりだ(ただ、この数年は恥ずかしいものも書いた気がする…)。

なので、私は田中さんにシャンソンのことは質問しなかった。
田中さんが徒然と送ってくるメールに返信するだけであった。
なので、田中さんからシャンソンについてのメールが送られてくるととても嬉しかった。
ある時、田中さんが「銀巴里」の開店間もないころに専属歌手をしていた頃について書かれたメールが届いた。
私は、とある歌手について手持ちの資料に書いてあった情報をもとに質問を送ったところ、
「そんなのは嘘の情報。誰がデタラメを言っているのだ」
とにべもなく返され、芸能関係の資料における信用性の低さというものを実感した。

田中さんは「銀巴里」の話の中で、浅川マキを「日本のグレコ」と呼んでいた。
浅川マキと長谷川きよしの3人でライブをしたことは、楽しい思い出だったようだ。
そういえば、長谷川きよしはエッセイなどで田中さんのことを良く取り上げている。
長谷川きよしの「ミラボー橋」はフランス語で歌われているが、歌詞カードの対訳は田中さんのものであった。

田中さんはフランス語が堪能で、シャンソンだけでなくフランスからの来日歌手の通訳、公演の司会をつとめられた。
そのときの話もメールに記されていた。
ジルベール・ベコーシャルル・アズナヴール、ダリダ、ミシェル・ポルナレフなどの通訳をつとめたそうだが、なかでもイヴェット・ジローとマルク・エラン夫妻がフランスと日本の2カ国を活動拠点にしていた時期は、田中さんがゼネラルマネージャーをなさっていた。
この夫妻のお客への思いやりの深さ、不備がある公演会場であっても不平不満を言わない心の広さを尊敬されているようであった。

田中さんは司会業をするなかで、話し方の術を会得していったという。
話し始めに「あー」「えー」は言ってはならないことや、森繁久彌志ん生、小さん、徳川夢声の話術を参考にしていることを教えてくださった。
これは、数年後に私がラジオ番組をもったときに大いに生かされ、森繁と加藤道子の「日曜名作座」のテープは私にとって教材となった。

田中さんからは「良い物を見て、良い物を聴きなさい」と言われた。
田中さんが青春時代に観たというフランス映画の「リラの門」は、DVDを贈ってくださった。
ジョルジュ・ブラッサンスが出演している映画で、ルネ・クレール監督作品のなかでもストーリーがしっかりと作られた見応えのある一作だった。
今でも私が一番好きなフランス映画は「リラの門」である。

そんな田中さんのライブを観てみたいと思い立って上京したのは、2018年の晩秋のことだ。
西荻窪の「奇聞屋」の階段を降りて、店内に入るとテーブルが2列に置かれている。
そして右の壁際に座って、コーヒーカップを啜っていたのが田中さんだった。
その姿は、鎧をまとった戦国武将の肖像画のようであり、まるで「古武士」のような風格だった。
私は挨拶するのも恐ろしくなり、テーブル席の端っこに座ったのであった。

田中さんは、学生時代にフランス語を極め、歌手の道に入った。
当時はジルベール・ベコーの早口のシャンソンに惹かれて「これが新しいシャンソンだ」という発見をして、彼の曲をレパートリーにしていた。
師事したのは、ピアニストのジャック滋野であった。
やがてピアニストの菅野光亮と出会い、彼の伴奏で歌い始めたが、菅野の急死後は自らピアノの前に座り弾き語りをするようになった。
田中さんはピアノの弾くとき楽譜を置かなかった。

「訳詞とは原詞をそのまま翻訳するものではなく、その背景にあるものを掴み取るもの」
という信念をもってらっしゃった田中さんは、それを表現するために歌と歌の合間に語りを挿入した。
それは原詞を暗記した上で、アドリブで語るものであった。
なので、氏のシャンソンは同じものが歌われることがなかった。
「歌手たるもの、床屋の赤と青の回転のような、繰り返しではあってはならない」
と仰っていた。

そのときの田中さんのシャンソンは今でも覚えている。
ダミアの「かもめ」を1人の水夫の語りで10分以上歌ったり、イヴ・モンタンの傑作「はるかなる友」やミシェル・ルグランの「風のささやき」は聴き応えがあった。
私は背筋を伸ばして身を硬くして緊張しながら聴いたのであった。

休憩時間、田中さんが客席ひとつひとつに挨拶にきた。
私がメールの主であることを伝えると、
「君か、君か」
と表情がほころんだ。
先程の古武士とは打って変わっての好々爺の顔であった。

そして、ライブが終わった後も、にこやかに挨拶まわりをしている田中さんに
「あの…「ミラボー橋」がどうしても聴きたくて」
とおずおずと言うと、
「やりましょう」
と一言おっしゃった。
その瞬間に、田中さんの表情は古武士に戻っていた。
そして田中さんが再びピアノの前に座ると、帰り支度をする客席は静まり返った。
そのときのライブは、私のなかで思い出に残るシャンソンのステージの5本指に入るものだ。

それからひと月しなかったと思うが、田中さんから「耳が聞こえない」とメールが届いた。
メニエール病を患われ、聴力を失い、めまいに襲われたという。
そして12月、奇しくもこの年に「奇聞屋」もまた閉店することになった。

クリスマス近くだったと思うが、夜に田中さんから電話が来た。
「奇聞屋の最後のライブで、僕は自分の卒業式をしようと思います」
私は何も言えなかった。

田中さんとはその後もメールをしたが、その頻度は減っていった。
最後に頂いたメールは、ちょうど香港の民主化デモが過熱しているときだった。
「日本の若者も、権力に立ち向かわねばならない」
そのメールが届いた翌日に、田中さんは倒れられたと聞く。
年齢を重ねるごとに自身のシャンソンを進化させていった田中さんにとって、その道が突然閉ざされてしまったことは、どんなにか無念だったろうと思う。

田中さんと、山田風太郎の『人間往生図鑑』についてメールで話したことがある。
私が「平櫛田中という彫刻家は107歳で往生したが、30年分の木材を買い込んでいた」という話をすると、
「人間はそうありたいものだ」
と仰っていた。
いま、私もまたこのエピソードを噛み締めている。 

 

田中さんとの思い出を振り返り、私は
「良い物は良い、悪い物は悪い」
と言える人間でいたいと思った。
田中さんは自身の審美、正義、信条、純粋を貫いた人だったと感じている。

 

田中朗さんは、11月26日に逝去されました。

クミコさんのコンサート「人生は美しい、シャンソンティックな歌たち」

先日、片耳がいよいよ聞こえなくなり、もうシャンソンを聴くのは無理かなと観念しております。
そのため、最近はお誘いいただいたライブなどをお断りしておりましたが、今日はクミコさんのコンサートがあり、そちらはすでにチケットを買ってあったので、観覧しました。
もしかしたら、私にとってこれが最後のコンサートの観覧になるかもしれません。

今回のクミコさんのコンサートは、「人生は美しい、シャンソンティックな歌たち」というタイトルで、ゲストは竹島宏さんとドリアン・ロロブリジーダさん、伴奏は大貫祐一郎さんであった。

クミコさんにとって「シャンソンティック」とは何だろうか、と私は考えた。
今回のプログラムを通じて、クミコさんはシャンソンで「運命の理不尽」「人間の狂気」「絶望からの希望」を歌いたいのではないかと思った。
例えば、街の人混みに揉まれるゼスチャーをしながら歌う「群衆」では、自分の思い通りにならないで引き裂かれていく運命を表していた。
また、「バラヲ、バラヲ、クダサイ、ヒャクマンボンノ、バラヲクダサイ」と片言で絶叫する「百万本のバラ」は、「街中のバラを贈る」という凶々しい恋狂いを表現している。
そして、「人生は美しい」「愛しかない時」は、まさに絶望的な状況でも希望を見出そうとする健気な思いが歌われている。
これは初めて知ったことだが、「人生は美しい」には佐世保空襲を経験した古賀力さんが防空壕から出て見た夜明けの光景が描かれているという。

クミコさんにとって「シャンソンティック」は「ロマンティック」を単にもじったものではない、表現者としての信念が込められているように思った。

ゲストの竹島宏さんは「巴里の屋根の下」を歌われた。
いまではこの曲がシャンソニエで歌われることはめったにないが、かねてより私は若手演歌歌手が、この牧歌的なシャンソンを歌ったらどんなにか面白いだろうかと思ったので、とても満足した。
ドリアン・ロロブリジーダさんは「それぞれのテーブル」を歌われ、ちあきなおみさんへのリスペクトを感じた。
私は、アコースティックで歌われた「帰ろかな」(北島三郎)に強く惹かれた。

早瀬一也(早瀬かず椰)さんのレコード

早瀬一也(早瀬かず椰)さんのレコード

このレコードは、1968年に発売された早瀬一也さんという人のものだ。
A面の「愛の夢」はさわやかな青春歌謡、B面の「雨の中の恋」はねっとりとしたムード歌謡である。
個人的には「雨の中の恋」が早瀬さんの本領のように思う。

多分、早瀬一也さんは流行歌手としての知名度は高くなかったのだと思う。
ただ、早瀬さんにはもうひとつの顔があった。
それは「早瀬かず椰」の名前で、新橋のシャンソニエ「アダムス」の経営者をつとめていたことだ。

「アダムス」のことは、深江ゆかさんの御芳書や竹下ユキさんのブログに詳しい。
毎夜、自分のお眼鏡にかなったシャンソン歌手を1〜2名のみ出演させて、自分は決して歌うことなく経営に徹した人だったという。
こうした極上のステージを提供するお店のコンセプトは多くの人に愛され、「アダムス」は伝説の店として語り継がれているそうだ。

私は早瀬一也さんのレコードを聴きながら、なぜ氏がシャンソン歌手にならずに、裏方に徹したのかを考えている。
やはりシャンソンには、人が一生をかけてしまう魔力のようなものがあるのだと思う。
人によってはその正体を、評論家やシャンソニエの経営者など、業界を支える側から知ってみたいと思う場合があるのだろう。
早瀬さんはそれを見つけたのか、あるいはお店を営みながらそれを追い求めていたのだろうか。
私もまた、シャンソンの魔力を突き詰めようと思えば思うほど、それは遠ざかっていくのを感じている。

ちなみに、早瀬さんは2004年に若くして急逝されている。

日航ミュージックサロンのプログラム

日航ミュージックサロンのプログラム

戦後のシャンソンの資料を読んでいて、たびたび目にするのは「日航ミュージックサロン」という店の名前である。
かつて、銀座8丁目にあった銀座日航ホテルの地下にあったというライブハウスだ。

 《日航ミュージックサロンは、1959年(昭和34年)に開業したホテルの地下にあり、シャンソンを聞ける銀座の名物スポットだった。その後、バーに改装され、同ホテルも2014年(平成26年)に幕を下ろす》
([時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<11> 銀座で歌手デビュー 読売新聞オンライン)

日航ミュージックサロン」は、金子由香利さんや古賀力さんが専属歌手として出演し、平野レミさんはここで歌手デビューしたらしい。
そして、この店に出演する歌手は銀座7丁目にあった「銀巴里」には出演できなかったという話もある。
しかしながら、「日航ミュージックサロン」に関する資料は皆無に等しく、店の内装やどんな営業スタイルだったのかなど、いままで謎であった。

今回「日航ミュージックサロン」のスケジュール表を手に入れたことで、少しだけこの店の在りし日の光景が見えてきた。

このプログラムは、いつのものかは分からない。
しかし、出演者のなかに平野レミさんがおり、彼女は60年代後半の学生時代から専属歌手だったことと、1970年にレコード会社からメジャーデビューしていることを考慮して、1965〜69年頃の物だというのが推測できる。
営業は昼の喫茶、夜のライブハウスという二形態だった。
とはいえ、昼にライブを催している日もある。

ライブはシャンソンがメインで、時々ラテンのステージがあったようだ。
専属バンドは、吉村英世(寿紘)クインテット
時々、寺島尚彦さんや荻原秀樹さんのバンド、ラテンの岸笙司さんのバンドが入っている。

専属の出演者を見てみると、金子由香利さん、仲マサコさん、須美杏子さん、田代美代子さん、大木康子さん、平野レミさん、有馬泉さん、山崎肇さん、古賀力さん、川島弘さんなど、シャンソンのビッグネームが並んでいる。
また古いシャンソンの資料に出てくる、久城千永子さん、真木みのるさん、戸川聡さん、横井公二さんの名前があるのも嬉しい。
ラテンでは、「ルパン三世」の挿入歌を歌った広石吉郎YOSHIRO広石)さん、さらには菅原洋一さんまでいる。
そして、「特別出演」として、淡谷のり子さん、岸洋子さん、ビショップ節子さん、芦野宏さん、宝とも子さんといった、レコード会社に所属するメジャー歌手の名前がある。

それにしても、出演者の組み合わせもウットリする。


淡谷のり子・金子由香利・山崎肇」、「仲マサコ・須美杏子・有馬泉」、「大木康子・田代美代子・横井公二」、「仲マサコ・真木みのる・古賀力」など、語り継がれるべき人選である。

こうして見ると、「日航ミュージックサロン」は「銀巴里」とはまた異なる特色のプログラムを組んだ店だったのが分かる。
この二店が、シャンソンを通じて銀座でしのぎを削っていた時代に、しばし思いを馳せた。

石井好子さんのパリ時代のレコードを発見

石井好子さんのパリ時代のレコードを発見 

きっかけは、ネットオークションに、箏曲家の唯是震一さんのフランス版のレコード「日本の歌(au Japon)」が出品されていたことだった。
「フランスで琴のレコード?」と思って見てみると驚いた。
ジャケットには「YOSHIKO」と記され、日本髪の女性の肖像はまぎれもなく石井好子さんだったからだ。 

早速入手して聴いてみると、収録されているのは「さくらさくら」「平城山」といった叙情歌5曲と、唯是さんによる琴の独奏2曲である。
石井好子さんは、曲がはじまる前にフランス語で曲紹介をし、琴の伴奏にあわせて日本語で歌唱している。
石井好子さんの歌声は、声楽のテクニックをベースに、長唄などの邦楽の歌い方を掛け合わせたものであり、それが琴の音色と相まってファンタジックな印象を醸し出している。

収録曲は次の通り。

「かぞえうた」
「子守唄」
「春の曲」(箏曲
「さくらさくら」
「猫うた」
源氏物語」(箏曲
平城山

ジャケットの裏には石井好子さんの経歴が記されている。
私はフランス語に不通だが、そこには
石井好子さんはフランスやベルギー、スイスのキャバレーで日本とフランスの楽曲を歌っている。ダニエリーのラジオ番組、キャバレー「アンドレ・パスドックの家」に出演している」
といったことが書かれているようだ。(求む翻訳)

この情報を、石井好子さんの自伝『私は私』(岩波書店)と照らし合わせてみよう。

石井好子さんは、1951年12月にシャンソンを学ぶためにアメリカからパリに渡った。
このとき石井好子さんは30歳だった。
そして、パリのシャンソンの店「パスドックの家」の専属歌手になる。
この店は、アンドレ・パスドックという男性歌手が経営しており、石井好子さんは耳馴染みのシャンソンと「さくらさくら」といった日本の叙情歌を着物姿で歌った。
それから間もなく、石井好子さんは「グランド・オーケストラ」という舞台中継番組に出演してジョセフィン・ベイカーの「二人の恋人」を歌ったことで、「貞奴以来の日本人歌手」としてメディアを賑わせた。
1952年3月頃からは、芸能マネージャーと知り合い、マドリード、ドイツ、ローマの劇場に出演している。
この自伝によれば、石井好子さんはベルギーにはドイツ公演の帰り道で足止めをくらって降り立ったとある。

そして同じ頃、石井好子さんは「海辺のほとり」というラジオ番組の準レギュラーだった。
これは、マダム・ダニエリという女性がプロデューサーで、外国の音楽や詩、物語を取り上げる内容だった。
そこでも石井好子さんは「さくらさくら」や「平城山」を歌ったとある。

やがて、石井好子さんはきちんとフランス語を話し、パリで生活することに慣れたいと思うようになる。
そして、同年5月からはパリのキャバレー「ナチュリスト」で365日休みなしの出演契約を結んだのであった。

ここから推測されるのは、このレコードは石井好子さんが「ナチュリスト」に出演する前、1952年4月頃に吹き込まれた音源であるということだ。
まさに「シャンソンの女王・石井好子」の産声である。
石井好子さんの自伝ではこのレコードについて言及されておらず、新発見の資料だと言えよう。

とはいえ、謎は残る。
それは琴を伴奏した唯是震一さんのことだ。
1952年の唯是震一さんは東京藝術大学に在学中であり、同年に「邦楽コンクール」(東京新聞社主催)で第1位・文部大臣賞を受賞をしている。
しかし、このレコードの説明には、
唯是震一さんは、パリの「テアトル・カブキ」に出演した」(求む翻訳)
といったことが記されている。
なぜ、唯是震一さんがフランスのレコードで演奏の録音の機会を得たのか、さらなる調査が望まれる。

『週刊新潮』1991年9月14日号は「秋を彩る「シャンソニエ」の経営者」

1991年の『週刊新潮』(9月14日号)には「銀座の秋を彩る「シャンソニエ」の経営者」という記事が掲載されている。

まだ日本の9月が涼しかった頃、仕事帰りの男たちは夏のビアガーデンから、秋の風情を感じるためにシャンソニエに鞍替えをしたという。

この記事で面白いのは、この頃にシャンソニエが「シャンソン歌手のいる飲み屋」を指す呼び名として定着したと書いてあることだ。

そして「銀巴里」は、歌をステージから聴かせるライブハウスなのでシャンソニエではないらしい。

現在では、シャンソンの店といえば飲酒をしながらライブを観覧するというのが当たり前なだけに、「銀巴里」時代にはこのような区別が存在していたことに驚く。

 

記事では、銀座のシャンソニエのオーナーとして「蛙たち」の横井浩二さん、「鳩ぽっぽ」の斉藤勉さん、「マヴィ」の日高なみさんに取材し、それぞれの歌手としての経歴と店主になるまでの遍歴が語られる。

それにしても週刊誌らしくその内容は赤裸々でビックリする。

それでも、横井さんがオーナーになる前の「蛙たち」は俳優の森雅之さんが常連で俳優仲間の岡田茉莉子さんを引き連れてきたエピソードや、斉藤さんの「シャンソニエは銀座では効率の悪い商売だが、自分たちが歌える店が欲しくて作った」という抱負や、日高さんの「マヴィ」が文壇の作家たちに愛された秘話は、読んでいて楽しい。

 

30余年が過ぎ、この御三方はすでに幽冥を異にしている。

リーヌ・ルノー in TOKYO

1992年、リーヌ・ルノー主演の本格的なパリのレビューが、東京で上演されたことがあるのを知り驚いた。

『月刊ミュージカル 1992年12月号』によれば、同年の10月31日、11月1日にシアターコクーンにて、「パリ発!シャンソンレビュー!サ・セ・パリ」が、1日2回公演で催された。
主催は、東京とパリの友好都市提携10周年を記念して、鈴木 俊一東京都知事(当時)が会長だった「東京ルネッサンス推進委員会」がつとめた。

出演は、リーヌ・ルノーとパリのキャバレー「パラディ・ラタン」のコメディアンだったセルジョ(Sergio)、「パラディ・ラタン」の専属ダンサー14名、演奏は岩間南平バンドとある。
演出と振付は、「パラディ・ラタン」のデビット・ムーア。
海外公演のための臨時の一座ではあったが、スピードと変化に富んだ演出で、全17場2時間の上演であった。
観覧料は低価格の4000円。
しかし、宣伝不足のせいか空席があったという。

雑誌には、音楽評論家の瀬川昌久によるレポートが掲載されている。
リーヌ・ルノーは、オープニング曲「セ・サ・ラ・レビュー」を歌ったあと、代表曲「カナダの私の小屋」をはじめとするルル・ガステ作品(リーヌ・ルノーの夫で作曲家)を披露したらしい。
さらに、「フレンチ・ミュージックホール」という場面では、ミスタンゲット、イヴ・モンタン、ジョセフィン・ベイカー、モーリス・シュヴァリエといったミュージックホールを盛り上げた名歌手たちのメドレーを歌った。
この場面はYouTubeに動画があり、面白いのはリーヌ・ルノーがモーリス・シュヴァリエのモノマネをしながら「ヴァランティーヌ」を歌うシーンである。
正直これまで気に留めてこなかったシャンソンだけに、筆者は動画を見ながら「そういえば、ヴァランティーヌってこんな歌詞だったなー」と思い出した次第。
他にもYouTubeには、リーヌ・ルノーが青いマーメイドドレス姿で「フルフル」などを歌う動画がある。
とはいえ、レビューは舞台全体が映ってなんぼのものだと思うので、出演者のアップばかりを狙うカメラワークは残念である。
ちなみに共演のセルジョは、客をステージに上げて「さくらさくら」を歌いながら、客のネクタイ、時計、財布をとり上げるという芸をしたという。

瀬川は、この公演を「スター歌手とコメディー・アクターとダンサーとの三つのコンビを巧みに配合して見せた点に、フランス・レビューの一典型を改めて認識出来た」と評価する。
そして、「このような形のスター中心のレビューは、今後二度と来日出来ないだろう」と予言をするが、30余年経ってもそれは的中したままである。

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