シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

八田朋子さんのライブに行く

「八田朋子さんのライブに行く」

苫小牧のシャンソニエ「カプリス」にご出演の八田朋子さんのステージを観覧する。

八田さんのステージを観たのは、コロナ禍のさなかに銀座のシャンソニエ「蛙たち」がはじめたライブ配信がきっかけであった。
蛙たち」では、八田さんは「レイチェル」の愛称で呼ばれ、その豊かに歌い上げる姿に感心したものである。
そして、私と年齢が近いということにも親近感を抱いていた。

唄うたいを、ひとりの歌い手として自立させるのは、1曲のレパートリーである。
八田さんにとって、それはミーナのカンツォーネ「遠い道」(渡辺歌子訳詞)であった。
お店を手伝いながら、沢山の歌い手のステージを見て、学ぶものがあったのだろう。
女が自ら男を捨てて別離を選ぶ「遠い道」を、八田さんは高らかに歌い上げずに、内に秘めて囁くように歌ってゆく。
そして、「あなたを離れて、あなたを忘れて、あなたを捨てて、苦しみから逃れて、この二人の部屋を私は出てゆく」というクライマックスは、男を縛り付けて床に打ち捨てたまま部屋のドアを閉めるような凄惨さを醸し出す。
この屹然とした女心をもって、「みんなのレイチェル」は八田朋子というひとりの歌手になった。
それを今夜のステージで感じられたことが、私の幸せである。

八田さんは、今回のセットリストを私に選ばせてくださった。
心尽くしのステージ、ありがとうございました。

2023.9.28【1st】
①愛すれば愛するほど
②ゲッティゲン
アブサン
④遠い道

『シャンソンマガジン 2023年秋号』寄稿

このたび、『シャンソンマガジン 2023年秋号』(歌う!奏でる!プロジェクト)内の、「追悼 堀内環様CD紹介」に寄稿しました。
執筆しながら、昨年逝去されたシャンソン歌手・堀内環様の深い魅力を改めて感じた次第です。
マガジン付属のプレミアムCDには、堀内様の「アムステルダム」が収録されています。
ぜひ御高覧ください。

🌟『シャンソンマガジン』は、日本で唯一の通販型シャンソン専門誌です。

戦時下のシャンソンのレコード

戦時下のシャンソンのレコード

太平洋戦争中の昭和17年9月、ディック・ミネが、「三根耕一」の日本名でシャンソンのレコードを2枚吹き込んでいたことを知り、驚いた。

・『巴里の屋根の下/巴里祭』(テイチク.T3363)
・『プレジャンの舟唄/マドロスの唄(インストゥルメンタル)』(テイチク.T3365)

「巴里の屋根の下」は昭和5年、「巴里祭」は昭和8年に公開されたフランス映画の主題歌。さらに、「プレジャンの舟唄」「マドロスの唄」は、昭和5年のフランス映画「掻き払いの一夜」の挿入歌である。
巴里祭」以外の映画の主演は、歌手で俳優のアルベール・プレジャンであり、戦前の日本で彼の作品が人気だったことが窺える。
ちなみに、昭和に数多く公開された劇中歌シーンが入った邦画は、「巴里の屋根の下」がきっかけで製作されるようになった。

ディック・ミネの「巴里の屋根の下」以外の楽曲はCDで復刻されているので、容易に聴くことができる。
「プレジャンの舟唄」は叙情味のあるメロディと歌詞で、「マドロスの唄」は軽快さが印象的だ。
戦時中は洋楽を聴くことを禁止されていたと思いきや、取り締まり対象は英米のジャズ、ハワイアン、ブルースが中心であり、当時の日本が同盟国だったナチスドイツに占領されていたフランスのシャンソンは、規制が緩かったようだ。
また、当時のニッチクレコード(現・コロムビアレコード)の広告には「決戦時の憩いに」というキャッチフレーズが記されており、戦時下において音楽が、緊迫した生活の緩急をつけるための「アメと鞭」だったことが伝わってくる。

とはいえ、ディック・ミネが歌う「巴里祭」は、パリの祭りの雰囲気など微塵も感じることができない内容になっている。

赤い血に燃える 豊かな夢こそ
春の花にも似たる彩り
金の星にも似たその輝き
燃える瞳こそは若さの誇り
ボロをまとうとも 心は錦
絹を纏うた 晴れの王者
(訳詞・門田ゆたか)

無論、この歌詞の内容は「欲しがりません勝つまでは」のような、戦時下における「贅沢は敵」の思想である。
戦争の時代の「赤い血に燃える、豊かな夢」の意味は敵国を倒すことであり、それまでは「ボロをまとって」「晴れの王者」のような気持ちで生活しよう、というメッセージである。

戦前の日本で、フランスへの憧れの象徴としてシャンソンが普及し、宝塚歌劇団や映画などを通じて夢を与えたはずの音楽が、戦争に利用されていた事実を受け止めねばならないだろう。
さらにいえば、外国曲の訳詞が、その時代の国策や特定の政治的思想に結び付いて安易に作られる危険性も認識せねばならない。

終戦記念日が近づくなか、ディック・ミネシャンソンを聴きつつ、いまの時代を生きる上での反省として捉えていきたい。

YouTube ディック・ミネ巴里祭」の動画
https://youtu.be/dDkfx94t1QU

 

 

花田和子様のステージを観覧

上野「Qui」における、花田和子様とご門下生のステージを観覧する。

先日、花田様は歌手生活60周年を迎えられた。
ステージで歌われる花田様を拝見していると、目の前に桜吹雪が舞い散る幻影が脳裏に浮かんでくる。
ピンク色の花びらが風に散る様は美しい。
そして「春は別れの季節」であるように、ひとひらのもの悲しさをたたえている。
花田様のシャンソンの数々、たとえば「ラストワルツ」は、卒業式で見る桜を想起させる。

花田様がリーヌ・ルノーのレコードを聴き、高野圭吾様に訳詞を依頼したという「昔のうた」をはじめ、昔を偲び、孤独を感じる楽曲の数々が印象的だった。
「フレデ」「私の孤独」などを聴きながら、美しい時代を生き、多くの人々との別離を経験したであろう花田様の人生に思いを馳せた。
花田様は、シャンソンをご自身の鏡としていらっしゃるのだと思った。

華やかさのなかにある物悲しさ、これは日本的な情緒であり「滅びの美」だ。
そして私は、花田様の同郷の寺山修司の言葉を思い出さずにはいられない。
「さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう」。

ご共演のご門下の方々の印象的な1曲を。

高崎啓子様「ヴェニスはあなたの胸に」
高崎様は、言葉を大切に歌いながら、楽曲の世界観を作り上げていく方だった。特に水辺をテーマにした楽曲の相性の良さを感じ、女性が恋人と過ごすのを夢見るヴェニスの水辺と、現実に自分の住むアパルトマンの目の前を流れる汚れた川辺との対比がよく現れていた。

山口泰子様「最後のワルツ」
山口様は、佇まいに輝かしい雰囲気があり、宝塚ご出身であることをあとで伺った。恋人との別れの際にワルツを踊るシーンは、歌声と身振りに優雅さが溢れ、世界観に強く引き込まれた。

ダミア来日公演の新資料

ダミア来日公演に関わる、新資料を入手した。

シャンソン歌手のダミアは、昭和28年4月28日に来日し、5月3日より東京をはじめとする6都府県で『フランスのシャンソンはダミアとともに』というコンサートツアーを行っている。
そして、5月25日から27日にかけて、有楽町にあった日劇ミュージックホールにて『ダミアの夕』というコンサートが開かれている。

今回入手したのは、5月28日に横浜EMクラブという場所で開かれた『シャンソンリサイタル・ダミア』というコンサートのプログラムだ。
コンサートの主催は、横須賀ミュージカルセンターとある。
いままでダミアの5月27日以降の国内での消息がいままで分からなかったので、貴重な資料だ。

プログラムは見開き4ページで、ダミアの写真と当日のセットリストの曲名が記された簡素な作りである。
ちなみに、表紙のダミアの肖像画は、コロムビアレコードがダミア来日にあわせて発行したポスターの使い回しであり、短期間で簡易的に作られた印象を受ける。

当日のピアノ伴奏者は、ダミアともに来日したドミニク・ジェラール。彼女と行動をともにし、前座をつとめた声楽家の佐藤美子、ピアニストの高木東六は出演していない。
披露されたセットリストは、『フランスのシャンソンはダミアとともに』のものと同じ内容である。

このコンサートで注目すべきは、会場の横浜EMクラブだ。
ここは、もともと明治35年に建てられた海軍下士官兵集会所であり、軍人や家族が使える宿泊所、売店武道場、劇場が設営されていた。
しかし、戦後は進駐軍が接収し、EMクラブと名を改めて、アメリカ軍施設として昭和58年まで使用された。
ここの劇場では、フランク・シナトラディーン・マーチンなどが来日公演をし、同時に江利チエミなどの米軍キャンプまわりをする日本のジャズプレイヤーにとって憧れのステージだったらしい。

つまり、この5月28日のダミアのコンサートは、日本に駐留するアメリカの軍人たち向けのものだったのである。
ダミアが来日した昭和28年は、日本はアメリカからすでに独立していた。
しかしながら、来日歌手のアメリカ軍向けのコンサートが企画されていたという事実が興味深い。
加えて、こうしたアメリカ軍施設での公演があったという記録が、芸能史に残ることも珍しいのではないだろうか。

ところで、このプログラムにはダミアのサインが記されている。
来日中のダミアは気さくに観客との交流を図ったらしいが、それはアメリカ軍相手においても変わらなかったらしい。

『あべっく・る・たん』という雑誌

 

『あべっく・る・たん』という雑誌

数年前、札幌のシャンソニエには『プチるたん』という冊子が置いてあった。
全国のシャンソニエの店名と住所、1ヶ月の出演者のスケジュールが掲載されているもので、これを読みながら当時の私には異国の地だった遠い本州を夢見たのが懐かしい。
この冊子は、コロナ禍の影響を受けて3年前に終刊したそうだ。

その『プチるたん』の大元の雑誌が『あべっく・る・たん』である。

今回、1980年代に発売された『あべっく・る・たん』3冊を入手した。
編集者は大野修平様である。
1980年の21号、22号、81年の24号である。
創刊当時から、シャンソニエの情報誌だったのかと思いきや、その内容の豊かさに驚いた。

まず、フランスのシャンソン界のニュース(フランス人が愛するシャンソンランキング、歌手のスキャンダル、訃報など)、「日曜日の暗殺者」というタイトルの大野様と古賀力様の連載対談、新譜情報、コンサート情報と続く。
インターネットのない当時に、豊富な情報量を集めて誌面化した、大野様はじめ編集部の奔走ぶりとシャンソン普及の情熱を感じた。

印象的なのな、22号と24号におけるシャンソン評論家の蘆原英了様のことだ。
22号では、その年に来日したコラ・ヴォケールを大特集しており、それに蘆原様は寄稿している。
コラ・ヴォケールを讃えつつ、彼女の夫のミシェル・ヴォケールが蘆原様の叔父にあたる画家の藤田嗣治に関する評論をフランスで最初に出版したことへの感謝を綴っている。
しかしながら、このときの蘆原様は病床の身であり、渾身の力で原稿を執筆したのであった。
それゆえ、コラ・ヴォケールの来日公演には行くことができず、枕元に録音のテープが届けられたそうだ。
その翌年に蘆原様は死去し、24号は彼の追悼号となっている。
シャンソン評論家の大家の最期の仕事に関わった『あべっく・る・たん』の意義は大きい。

ところで、詳しく調べていくと、今年も開催される「るたんフェスティバル」の最初の主催が『あべっく・る・たん』だったことを知り、さらに驚いた。
「るたんフェスティバル」は、1987年に開催されて以来、シャンソン歌手や宝塚出身者が一堂に会するコンサートである。

大野様のホームページによると、開催にあたり支えになったのが深緑夏代様の事務所の社長だった中村富一様だったという。
当時の中村様は、新聞社の東京支社長であり、『あべっく・る・たん』の編集室を社内に提供していたそうだ。
中村様の発案で、第1回の「るたんフェスティバル」は、日比谷公会堂で開催されている。
これは、中村様も関わった第1回「パリ祭」への思い入れからくるものらしい。
その後、「るたんフェスティバル」の主催は『あべっく・る・たん』から、中村様と深緑様に移り、現在は山上悦男様と水織ゆみ様が手掛けられている。

80年は、フランスのシャンソンが下火になった時期だったという。当時のレコード店では、シャンソンのレコードが棚から消えていたという。
しかしながら、国内のシャンソン界隈では、大野様のようなシャンソンで新しい物事を興そうとする熱意が溢れていたようだ。
そのマグマの火柱を、当時の『あべっく・る・たん』から感じることができた。

島本弘子様&大平信幸様のライブを観覧

 

札幌グラウンドホテル「オールド・サルーン」における、島本弘子様と大平信幸様のライブを観覧した。

島本様はサロンの客席を歩きながら登場し、ステージでも高らかに歌い上げられた。
この華やかさは、グラスのなかで踊るワインのようだ。
島本様のプログラムは、シャンソンの名曲、お馴染みの曲が中心。
それらを披露するのは、強靭な体力と熱量と表現力が必要と思われるが、島本様はボルテージを燃やしつづけて世界観を造ってゆく。
そのプロの神技に圧倒されながら、私はフランスのシャンソンを次々とカバーして海外でレコードを売りまくったジャックリーヌ・フランソワを思い出していた。

そんな島本様が歌う「もしも貴方に会えずにいたら」(古賀力訳)は絶品であった。
この曲は正直、メロディも詞の内容も平易で親しみやすい。
だからこそ、この曲を隙なく歌い、大曲として際立せるには、島本様のパワフルさが不可欠なのだ。
私は島本様の歌声を通じて、歌詞の中にある「花が笑う」という比喩の美しさを感じたのであった。

大平信幸様は、フランス語でシャンソンを歌われる方として、北海道で知られている。
印象的だったのは、アポリネールの詩「ミラボー橋」に曲をつけたシャンソン
しかしこれは、有名なレオ・フェレのものではなく、セルジュ・レジアニのものだ。
私もはじめて聴く楽曲であったが、レジアニの「ミラボー橋」のほうが、恋に破れた青年の鬱々とした感情が表現されているように思った。
それにこちらのほうが、ボードレールの作品に曲をつけたこともあるレオ・フェレの真作なのでは、と錯覚してしまうほどだ。

そして日本語の訳詞で歌われた「若い郵便夫」(高野圭吾訳)は、草花が生い茂るガーデンに少年愛が絡み合う濃密な世界が立ち現れる。
毎日ラブレターを交わす恋人とはいつか別れるかもしれぬ危険を孕んでいるが、それをいつも届けた郵便夫は17才で死んだので、その匂いたつ青年像は永遠にその美しさを留めている、というデカダンスが漂っている。
大平様もまた「ジャスミンの庭」に行けなかった悔恨があるのではないか、そんな思いにとらわれた熱っぽい歌唱であった。