シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

『あべっく・る・たん』という雑誌

 

『あべっく・る・たん』という雑誌

数年前、札幌のシャンソニエには『プチるたん』という冊子が置いてあった。
全国のシャンソニエの店名と住所、1ヶ月の出演者のスケジュールが掲載されているもので、これを読みながら当時の私には異国の地だった遠い本州を夢見たのが懐かしい。
この冊子は、コロナ禍の影響を受けて3年前に終刊したそうだ。

その『プチるたん』の大元の雑誌が『あべっく・る・たん』である。

今回、1980年代に発売された『あべっく・る・たん』3冊を入手した。
編集者は大野修平様である。
1980年の21号、22号、81年の24号である。
創刊当時から、シャンソニエの情報誌だったのかと思いきや、その内容の豊かさに驚いた。

まず、フランスのシャンソン界のニュース(フランス人が愛するシャンソンランキング、歌手のスキャンダル、訃報など)、「日曜日の暗殺者」というタイトルの大野様と古賀力様の連載対談、新譜情報、コンサート情報と続く。
インターネットのない当時に、豊富な情報量を集めて誌面化した、大野様はじめ編集部の奔走ぶりとシャンソン普及の情熱を感じた。

印象的なのな、22号と24号におけるシャンソン評論家の蘆原英了様のことだ。
22号では、その年に来日したコラ・ヴォケールを大特集しており、それに蘆原様は寄稿している。
コラ・ヴォケールを讃えつつ、彼女の夫のミシェル・ヴォケールが蘆原様の叔父にあたる画家の藤田嗣治に関する評論をフランスで最初に出版したことへの感謝を綴っている。
しかしながら、このときの蘆原様は病床の身であり、渾身の力で原稿を執筆したのであった。
それゆえ、コラ・ヴォケールの来日公演には行くことができず、枕元に録音のテープが届けられたそうだ。
その翌年に蘆原様は死去し、24号は彼の追悼号となっている。
シャンソン評論家の大家の最期の仕事に関わった『あべっく・る・たん』の意義は大きい。

ところで、詳しく調べていくと、今年も開催される「るたんフェスティバル」の最初の主催が『あべっく・る・たん』だったことを知り、さらに驚いた。
「るたんフェスティバル」は、1987年に開催されて以来、シャンソン歌手や宝塚出身者が一堂に会するコンサートである。

大野様のホームページによると、開催にあたり支えになったのが深緑夏代様の事務所の社長だった中村富一様だったという。
当時の中村様は、新聞社の東京支社長であり、『あべっく・る・たん』の編集室を社内に提供していたそうだ。
中村様の発案で、第1回の「るたんフェスティバル」は、日比谷公会堂で開催されている。
これは、中村様も関わった第1回「パリ祭」への思い入れからくるものらしい。
その後、「るたんフェスティバル」の主催は『あべっく・る・たん』から、中村様と深緑様に移り、現在は山上悦男様と水織ゆみ様が手掛けられている。

80年は、フランスのシャンソンが下火になった時期だったという。当時のレコード店では、シャンソンのレコードが棚から消えていたという。
しかしながら、国内のシャンソン界隈では、大野様のようなシャンソンで新しい物事を興そうとする熱意が溢れていたようだ。
そのマグマの火柱を、当時の『あべっく・る・たん』から感じることができた。