シャンソン歌手としての佐藤美子
佐藤美子さんは、戦前から戦後にかけて声楽家として活躍した。
日本人の父とフランス人の母のハーフで、日本で声楽家として大成したのちにフランスに渡りさらに研鑽を積んだ。
ビゼーの「カルメン」は彼女の代表的な演目で、「カルメンお美」という愛称を得るほどであった。
シャンソン界では、昭和7年に「巴里流行歌の夕」という日本で最初にシャンソンのみで構成されたリサイタルを開いた人として知られる。
また戦後は、来日したダミアの付き人と前座を務め、指導者として金子由香利さんや平野レミさんを輩出した。
私は以前、佐藤さんについて調べてブログに投稿し、拙著にも掲載している。
https://chanson.hatenablog.com/entry/2021/06/17/184728
佐藤さんがレミさんを指導するようになったのは、平野さんの父、威馬雄さんがきっかけである。
詩人の平野威馬雄さんは、フランス系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、幼少より差別を受けていた。
戦後、米軍の占領下にあった日本でハーフが沢山生まれ、貧困と差別を受けていることを憂いた威馬雄さんは、彼らを救済する「レミの会」を結成する。
そのメンバーのなかに、日本人の父とフランス人の母の間に生まれた佐藤さんがいた。
威馬雄さんは、幼い頃よりシャンソンのレコードを聴いて育ったというレミさんに、シャンソンの指導者として佐藤さんを紹介したのであった。
ところで、佐藤さんは当時の雑誌でもシャンソンの魅力を沢山語っている。
しかし、フランスのシャンソンがいかに魅力的かを語れども、自身が歌うシャンソンについてはめったに語らない。
それは、あくまで自分は「声楽家」であり「歌手」ではない、という矜持から来るものであろう。
現に彼女はシャンソンをレコードなどに残してはいない。
シャンソン歌手としての佐藤美子さんを知るためには、断片的に資料を収集していくしかないのである。
昭和7年の東京日日新聞には、フランスで声楽を学び帰国した佐藤さんの恋愛がスキャンダルとして報じられている。
相手は、ソルボンヌ大学で法学の博士号を得た鈴木崧(たかし)さんだ。
当時の鈴木さんは、佐藤さんと一緒にフランスに渡った作曲家の高木東六さんとシェアハウスをしていたらしいので、そこで二人は出逢ったのであろう。
鈴木さんは、当時妻子と離婚して佐藤さんと交際したという。
二人の仲は佐藤さんの帰国後に自然消滅してしまったが、鈴木さんは帰国公演で酷評を受けた彼女にシャンソンを歌うことを勧める。
こうして開かれたのが「巴里流行歌の夕」であり、佐藤さんはシャンソン史のレジェンドとなったのだ。
昔の日本のエリートは、文化的センスもエリートなのであった。
その後の鈴木さんは、外交官に出世し、日本が国際連盟から離脱した際は日本代表の松岡洋右の通訳として同席している。
しかし、日本が国際連盟を脱退した理由が、満州の侵略行為を疑われたからであるにも関わらず、鈴木さんは国内の世論に逆らって「満州放棄論」を提唱する。
さらには、太平洋戦争の際にはスパイ容疑をかけられて拘禁されたことから、反戦の立場を貫いた。
戦後は、詩人や画家として活躍し、同時にフランス文化を日本に普及させる活動を行なっている。
昭和29年の音楽雑誌『音楽之友』の付録は『ジャズ音楽事典』という小冊子である。
「ジャズ」とあるが、当時は洋楽は全て「ジャズ」とひと括りにされた時代であり、本の内容はシャンソンとタンゴに関するものである。
そのなかに、佐藤さんは「シャンソンはよいもの」を寄稿している。
当時の佐藤さんは、声楽家としての人気を後進に奪われ、さらに夫の佐藤敬さんが単身でフランスに渡ったことから生活苦の状態であった。
それゆえ、「巴里流行歌の夕」以来から封印していたシャンソンを歌いはじめ、さらにダミアとの交流を経て本格化してゆく。
シャンソン関係の寄稿文で自分語りをしない佐藤さんは、この「シャンソンはよいもの」のなかでは珍しく「巴里流行歌の夕」について数行の回想をしている。
例のジョセフィン・ベーカーのむこうをはって、賛助出演に内田栄一さんのひざにもたれかかりながら『二つの恋』をうたったり、ラケルメレーをまねて、スペイン娘のいでたちで、客席までおりて「すみれの唄」をうたいながら、すみれの花をまいたり、風船を舞台いつぱいに飛ばしながら「さよなら、巴里」をうたって、お客を唖然とさせてしまつたりした。(原文のまま)
「巴里流行歌の夕」が、戦前の歌手のステージとしては破格の演出であったことや、フランス帰りの声楽家として酷評を受けていた佐藤さんにとって吹っ切れたものであったことが窺えるだろう。
このステージは、無論パリのレビューの再現であり、日本でシャンソンを歌うことをすすめた鈴木さんと一緒に観たことがあるのかもしれない。
「巴里流行歌の夕」は、佐藤さんにとって鈴木さんとの蜜月の記憶の風景であった。
戦後の佐藤さんは、歌の仕事だけでなく文化活動にも尽力している。
なかでも、自身が住む神奈川にコンサートホールがないことを愁いて、昭和29年に神奈川県立音楽堂を創立したことは広く知られている。そして昭和33年に、その神奈川県立音楽堂で久々の自身のリサイタルを開催する。
それは、全曲シャンソンで構成されたプログラムであった。
その内容を見ると、レパートリーの幅広さに驚く。
私は、このリサイタルのプログラムを通じて、ようやく佐藤さんのシャンソン歌手としての全貌を知った。
①
薔薇色の人生
ポルトガルの洗濯娘
薔薇色の桜と白いリンゴの花 薩摩忠訳詞
パリ祭
②
人の気も知らないで
二人の恋人 佐藤美子訳詞
小さな居酒屋 野上彰訳詞
暗い日曜
③
誰も知らない(演奏)
ローラ(演奏)
では、また
日本語のおけいこ
あなたのことば
ペレの歌
④
アイ・ラブ・パリ
パリの屋根の下
ミラボー橋
ラ・セーヌ 佐藤美子訳詞
(バルバラ 樺島淑子による朗読)
⑤
ファド(演奏)
ポルトガルの家(演奏)
アヴェ・マリア・ノ・モノ
枯葉
毛皮のマリー
ジュダ
ヴィオレッタ
演奏・寺島尚彦とリズムシャンソネット
①と⑤では、戦後に流行った新しいシャンソンが取り上げられている。
なかでも「ポルトガルの洗濯娘」「薔薇色の桜と白いリンゴの花」はイヴェット・ジローの最新のシャンソンであり、いかに佐藤さんがシャンソン事情に精通していたかが分かるだろう。
同時に③では、当時ブームとなっていた和製シャンソンにも注目している。
②では「巴里流行歌の夕」で歌ったシャンソンが取り上げられている。
特に面白いのは、⑤でポルトガルのファドに注目していることだ。
ファドの演奏2曲に続いて、佐藤さんは「アヴェ・マリア・ノ・モノ」を歌っている。
これはファドではなく「貧民街のマリア様」というブラジルの曲であるが、歌の中に「アヴェ・マリア」が挿入され、声楽家の佐藤さんがレパートリーにするのは至極当然であろう。
フィナーレは、「巴里流行歌の夕」ですみれの花を撒きながら歌ったという「ヴィオレッタ」で、佐藤さんは「カルメンお美」らしくラケエル・メレのラテンがお気に入りだったのが窺える。
プログラムには、訳詞のクレジットがあるものとないものがある。
訳詞のクレジットがない楽曲は、もしかしから原語で歌ったのかもしれない。
ともすれば、佐藤さんは戦前から最新のシャンソンに精通し、和製シャンソンのブームにも乗り、さらにはフランス語でも歌える力量を備えた最強のシャンソン歌手だったことがわかる。
声楽家の佐藤さんにとって、シャンソン歌手は片手間の仕事であっただろうが、それでもシャンソンに誠意をもって取り組んでいたことが見て取れる。
彼女は音楽家を超越した、まさにプロの鑑にふさわしい人であった。