シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。

ハマン・ハラという歌手

ハマン・ハラという歌手

突然だが、ハマン・ハラという女性歌手について記してみたい。

 

ハマン・ハラは、かつて桐朋学園で声楽を学んだプリマドンナであった。

オペラの終幕後、観客たちの大歓声を受けてカーテンコールに応える歌姫である。

好きな歌手はマリア・カラス

そしてハマン・ハラもまた、マリア・カラスのような「カルメン歌手」を嘱望された。

卒業後は藤原歌劇団に所属し、プロとしてのデビューの日取りも決まり、順風満帆だった。

その流れを変えたのは、彼女のなかに芽生えた思いであった。

それは「一度、本場のヨーロッパの声楽を見聞してみたい」という思いだ。

こうして彼女は、シベリア鉄道を渡り、ヨーロッパ各国のオペラハウスを巡る。

そして悟ってしまった。

「私には声楽家は無理だ」と。

帰国して、デビューの舞台を降りる旨を伝え、歌劇団の担当者を唖然とさせた。

 

ハマン・ハラという名前は、声楽家を辞めてしまった後につけた芸名だった。

彼女は、岸惠子久我美子有馬稲子が立ち上げた芸能プロダクション「にんじんくらぶ」に所属して映画俳優をしたり、「黄色いさくらんぼ」で知られるコーラス・グループ「スリーキャッツ」の一員として活動するようになる。(スリーキャッツは何回かメンバーを入れ替えており、彼女はその何代目かに所属)

 

その頃の、ハマン・ハラの歌声がYouTubeに残っている。

 

https://youtu.be/IkVoFTZDaMQ?si=85Olhyemv5psNgyt

 

1967年のテレビドラマ、木下恵介劇場「今年の恋」のオープニングを担当したのだった。

彼女が三十代前半のときの歌声である。

 

ところで同年、ハマン・ハラはフォークの世界に傾倒している。

彼女は、この年に来日公演を開いたアメリカのフォークシンガー、ジョーン・バエズに関心を抱いていた。

ジョーン・バエズは、「ドナドナ」「朝日のあたる家」などのオールドソングを歌う一方で、当時激化していたベトナム戦争の反対活動をし、政治的な言動に積極的な人であった。

とはいえ、ハマン・ハラはジョーン・バエズの政治的な顔よりも、歌手としての顔をリスペクトしていたのではないかと思う。

 

それは、『JOAN BAEZ style folk method』(朝日ソノラマ)というソノシートブックに収められた4枚の盤から感じられる。

このソノシートに収録されているのは、ハマン・ハラによるジョーン・バエズのカバーである。

ちなみに彼女のギター伴奏をつとめたのは、「六文銭」の小室等だ。

ハマン・ハラは、声楽で磨いた歌声を生かして、ジョーン・バエズの楽曲の数々を原語でのびのびと歌っている。

この牧歌的ともいうべき雰囲気からは、イデオロギーの影は感じられない。

 

ハマン・ハラは、この時すでに音楽業界から徐々に認められた存在だった。

労音で全国各地を巡り、そこでギターを弾きながらジョーン・バエズの楽曲を歌ったりもした。

 

思えば、ハマン・ハラにとって1967年は当たり年だった。

この年の5月、彼女はカンツォーネにも挑戦をする。

そして10月には、イタリアのインターナショナル・ローズ・フェスティバルなるものに歌手としても出演したらしい。

 

やがてフィリップスレコードの専属歌手になり、メジャーデビューを果たす。

その時、ハマン・ハラは改名をした。

彼女は日本人。

本名の瀬間知慧子にちなんで、「瀬間千恵」という名で世を渡り歩くこととなる。

神戸「パリ祭」観覧記、そしてこれからの私について

昨夜神戸にて「パリ祭」を観覧しました。
パリ祭は、数年前に東京で観覧して、地方公演も観てみたいと常々思っていたので、念願が叶いました。

抜群の歌声とダンスで会場を華やかに盛り上げる風かおるさんを中心に、ご出演の歌い手さんたちがひとつになって、アットホームな雰囲気のステージでした。
ご出演の皆様の歌唱やステージアクトの質も高く、まさにシャンソンの祭にふさわしいひとときでした。

今回のパリ祭では、お名前は存じ上げていてもそのステージを観たことがない方が沢山おりましたので、楽しめました。
昨年のコンクールで受賞されたウェン・シュウさんは、素晴らしいフランス語と若さのなかに物憂げなアンニュイを秘めた歌声を披露されて、会場を圧倒しておりました。
川島豊さんの「パリ・ラ・ニュイ」は、パリの夜の魅力を語り伝えるもので、紳士的かつ危険な香りを漂わせて、観客をワクワクさせました。
山田直毅さんは、張りのある歌声と気品に満ちた佇まいに、すっかり魅了されました。ステージに礼節を感じさせる男性の歌い手さんがいらっしゃることの安心感を覚えます。
吉永修子さんの「老夫婦」は、歌詞に説得力を持たせた歌唱で、まさに歌い紡ぐという印象でした。
ゲストの安奈淳さん「愛あればこそ」は、シャンソンではないけれど、ベルばらブームを支えた自負を感じさせる堂々としたもので、芸道の重みを感じさせるものでした。

そして一番感動したのが、風かおるさん「行かないで」でした。
歌い出しの「行かないで」を夜の霧が流れくるように静かに歌い、そこから「お互いにもう若くないのに、別れるのはデメリット」とということを、冷静かつ論理的に語っていく。
なのでフランス語の原詞にもある「あなたの影になって生きる」というフレーズが生きてくる。
そして、ラストで感情を爆発させて相手に「行かないでっ!」すがりつく。
この理知から本能になだれ込んで、ドラマを構築していく技術の妙に感服し、そしてとめどない感動が私の全身から溢れました。

こんなふうに、パリ祭の観覧を満喫しつつ、私は別のことも考えていました。
それは、この神戸をもって、私の旅を最後にするということです。
私は今年の初めから疾患を患い、長旅が難しくなりました。
これまで、シャンソンのために沢山の旅をしてきました。
はじめて東京のシャンソニエで観た広瀬敏郎さんのステージ、仲代圭吾さんや出口美保さんなどの鬼籍に入られた方のステージ、私の訳詞を歌ってくださった小貫和子さんと笠原三都恵さんのステージなど、素晴らしいひとときが甦ります。
そして、シャンソンを聴けない人間がシャンソンを語るのはおごがましい、執筆家としての一線の引き際も決意しました。

とはいえ、昨年に観覧することをお約束した公演、お招きいただいた公演もございます。
先日は、面白い資料が手に入りましたので、それについてもご紹介したい。
私の心は揺れています。

昨日訪ねた須磨寺で、歌舞伎「熊谷陣屋」の有名なセリフを思い出しました。
「十六年はひと昔」
いまの私の心情そのものです。

札幌の瀬間千恵様

札幌パークホテルにて、瀬間千恵様のステージを堪能する。

 

数名の共演者のあとに、瀬間様がステージに登場し、「歌い続けて」を披露される。

客席に強い目線を据えながら歌う姿は、ご自身の歌い手としての道を確認し、それを我々に訴えかけるような気迫を感じて圧倒された。

まさに、歌を人生にした者の説得力だった。

そして、瀬間様は「愛の追憶」や「生きる」などで、反戦と人生の尊さを歌い上げていく。

この会場いっぱいの存在感と信念のスケール感は、まるで「自由の女神像」が目の前に出現したかのようだった。

特に聞き応えがあったシャンソンは「貴婦人」だ。

幼少期に丘の上の洋館からピアノの音色が流れていたのを聴いた記憶をもとに、このシャンソンを歌い紡ぐ。

この曲の前奏がはじまったとき、瀬間様は思い出の世界に入り込んで遊んでいた。

これはシャンソンという歌謡を超越した、まるで一篇の舞踏のようであった。

 

他の共演者のステージも聴き応えがあり、 柴田乃生子さんの「愛の讃歌」は、メジャーな楽曲に丁寧に向き合って歌っているのが伝わり、好感を抱いた。

青木健一さん『巴里11区の屋根裏』

青木健一さんは、「パリ祭」「シャンソン・フォリー」「フェスティバル・ドゥ・シャンソン・プリスリーズ」などのシャンソンに関わる大規模なコンサートの司会を長年つとめられている方だ。
御尊父はNHKのアナウンサーの青木一雄さんであり、まさに生まれながらにして、そのキャリアを約束された人である。
しかしながら、青木さんの人生には大きな転機があった。


それは、1年半かけてロシアからヨーロッパを経由してアフリカまで旅をし、そこからフランスに渡って2年間暮らしたことである。
そして、そのことが青木さんの自叙伝『巴里11区の屋根裏』に記されている。


この本は、青木さんがフランスから帰国して間もなく、1979年に出版されている。
このとき、青木さんはまだシャンソンの催事の司会者にはなっていない。
だがこの本には、青木さんが将来シャンソンに関わっていく運命の伏線が散りばめられているのだ。

青木さんは早稲田大学に進学し、英語は堪能でボクシングや武道、陸上競技などの経験もあり、まさに文武両道のハイスペック男子であった。
卒業後はNHKに就職するも、やがて管理社会や出世コースを歩むことを強いられる自分の人生に疑問を抱くようになったという。
3年後にNHKを退職すると、ハイヤーの運転手になった。
それは24時間勤務で、仮眠をしていても客に呼ばれれば起きなければならない過酷な環境だった。

満を持して、青木さんはアフリカに行く旅に出る決心をする。
それは、アフリカで幼い頃から憧れていたシマウマを見るための旅であり、モスクワ、ウィーン、マドリードサハラ砂漠を経由する行程であった。
この時の青木さんは、長髪にジーンズ、ギターを抱えたまさにヒッピーの様相で、各国の日本大使館ではその外見から冷遇を受けたという。
その旅行記の一番の読みどころは、サハラ砂漠を6日間かけて車で横断する場面である。
砂に埋まったタイヤを掻き出して車を押したり、片時も水の入ったタンクを手放さなかったことや、見渡すかぎり砂地しかない生き地獄の様は、読者も喉がカラカラになってくる。

ところで、青木さんは旅の途上でギターで弾き語りをしたそうだ。
そのうちの1曲は、シャンソン歌手の青木裕史さんが青木清名義でヒットさせた「旅の終り」であったという。
そして、旅人の青木健一さんにさらなる人生の転機を与えたのも歌であった。

アフリカで念願のシマウマを見たあと、青木さんは次の行き先を考えていた。
思い描いていたのは、インドと南米に行くことであった。
そのためにアムステルダムで日本料理屋のウェイター、ストックホルムでは皿洗いのバイトをした。
しかし、青木さんはフランスで語学を学ぶ決心をする。

そのきっかけは、北アフリカの汽車のなかで居合わせたアラブの青年たちが、青木さんのギターを借りてジョルジュ・ムスタキの「時は過ぎてゆく」を弾き語ったことだった。
「これは一体誰の曲なのだろう、この歌詞の意味をきちんと理解してみたい」
こうして、青木さんは旅で出会ったフランス人の友人を頼ってフランスに行き、2年間ソルボンヌ大学で語学を勉強したのであった。

青木さんのフランスでの日々についての記述で一番目を引くのは、やはりムスタキのコンサートに行ったときのことである。
すり鉢状の劇場で、どん底の部分がステージになっており、そこに立つ白い衣装のムスタキが歌う「時は過ぎてゆく」「私の孤独」「生きる時代」、観客と一緒に歌った「異国の人」の感動は、まさにアーティストと観客の一体感の極致であったと記されている。
現在の青木さんのシャンソンのコンサートの司会をなさる原動力は、ここにあるのであった。

約4年の旅を終えて帰国した青木さんは、本のあとがきで、外国での経験や価値観の違いを理解しつつ、再び日本の社会で生きる決心を綴っている。
青木さんが、パリと東京でリーヌ・ルノーとサンクオムのステージの司会に抜擢されるのは、それから10年後のことである。

 

岸洋子の転生ーアルバム「今今今」

最近、アニメの世界で「転生」ものが流行っている。
事故などで意識を亡くした主人公が、自分が今まで住んでいた世界とは別の異世界に転生して活躍するという内容である。
ところで、岸洋子が1971年に発表したアルバム「今今今ー岸洋子の魅力」(編曲は前田憲男)は、まさにこれまでの彼女のイメージから転生を果たした実験作であった。

このアルバムが発売される前年、岸洋子膠原病に倒れ、生死の淵を彷徨った。
自伝によれば、その症状は意識不明や食欲不振など大変なものだったようだ。
治療の甲斐があり、翌年には歌手活動を再開した彼女はシングル「甦る明日」を発表する。

心に朝を抱いて 仰げば 空は遠く
夜の闇も歌いながら 明日の波間へ出て行く

まさに歌い手の「復活」にふさわしい歌詞である。
しかし、その同年に発表されたアルバム「今今今ー岸洋子の魅力」は、それとは異なるコンセプトが見受けられる。

このアルバムは、A面は日本の楽曲、B面は欧米の楽曲で構成される。
B面は全体的にアップテンポで、これもまた岸洋子シャンソンに対する新しいアプローチなのかもしれないが、従来のしっかりとバラードを歌い上げていた頃のほうが魅力的だ。

面白いのはA面である。
5曲目の「歌い手が去って行く時」で歌手の引退をの悲しみを切々と歌い上げたかと思いきや、6曲目の「こんな気持ちは生まれてはじめて」では、ビルから投身自殺した女性の霊が岸洋子に取り憑いているというホラーストーリーが展開する。
「こんな気持ちは生まれてはじめて」の聴きどころは、

実はかねがね岸洋子のファンで
彼女に寄り添い 歌に酔ってる

岸洋子が歌うと、男性コーラスが読経のように

実はかねがね岸洋子のファンで
彼女に抱きつき 歌に酔ってる

と歌う部分である。
岸洋子に憑依する女性の霊は何者なのか。
そのヒントはアルバムのタイトル曲「今今今」にある。
ちなみにこの「今今今」は、作曲者いずみたくの1969年のミュージカルの挿入歌だ。

二度と帰らぬ時 今
それがわたしの命
今、今、このひととき
ああ 今、この今こそ

岸洋子にとって大切なのは「甦る明日」ではなく、「二度と帰らぬ時、今」その瞬間なのである。
その感慨に至ったのは、膠原病の闘病の体験が影響していると言えよう。
つまり、岸洋子に憑依する女性の霊は闘病によって臨死した過去の自分であり、病を経てカムバックし、「今、このひととき」を生きる新たな岸洋子の転生を表現しているのである。
こうした独特な価値観を歌の世界で表現したことは、岸洋子のミステリアスな魅力だと言えよう。

なお、終戦記念日になるとシャンソニエで取り上げることが多い「死んだ男の残したものは」、シャンソン歌手の宇井あきら作曲による「おもいだして」、編曲者の前田憲男の「約束」(原曲は雪村いづみ)は、岸洋子の歌い手としての関係者への心くばりだろうか。

蜂鳥あみ太=4号&田村賢太郎 LIVE in 札幌「ぶさほうなシャンソン」

蜂鳥あみ太=4号&田村賢太郎 LIVE in 札幌

「ぶさほうなシャンソン

 

無事に終演しました。

 

年始から準備をすすめていた催事でしたので、本番までの意気込みは我ながら凄まじく、終演後の電池切れもまた凄まじかったです。

あみ太さんと賢太郎さんの白熱ライブは、私の趣向にあわせてプログラムを、従来のものとは変化球な内容でした。

クルト・ヴァイル作品多め、しかもオープニングの「大怪物リュスチュクリュ」はデビュー当時に歌われていた楽曲だったはずで、私ははじめて聴きました。

フランスのシャンソンも「カブキ」「人生、殴る、蹴る」を歌ってくださいましたし、ポーランドの「レベッカ」ロシアの「ムルカ」をシャンソンとして解釈してくださったのも嬉しかったです。

アンコールの「ふたつのギター」は、あみ太さんと賢太郎さんの芸道を象徴する楽曲。

昨年の企画ライブでも歌ってくださいましたし、きっとこの楽曲は、私の企画するライブにおけるコアになることでしょう。

 

私が一番印象に残ったのは、やはり第一部のトークショーでした。

賢太郎さんのアコーディオニストとしてのご経歴からは、自分の人生の転機を見極める決断力、そしてそのために自分にできるかぎりのことや、努力を惜しまないことの大切さを学びました。

あみ太さんの思い出に残るレコードやCDをうかがったときは、思いがけず瀬間千恵さんのことを話せたりして楽しかったです。

同時に、ご自分の好きな音楽の影響を、歌い手としての感性や個性として吸収していったことに感嘆しました。

 

あみ太さんと賢太郎さんは、自分の好きなことや楽しいことを、生活をするための仕事として向き合ってこられた方々。

だから、音楽が、ライブが面白い。

振り返ってみると、私の人生は行き当たりばったりで、時間の流れに身をまかせて生きていたなぁと思います。

人生って、そういうものだと思ってたし。

でも、人生の節目というものは、時間や運命のような大きな力が変えていくものではなくて、自分自身の力で変えることもできるのだと、お二人の話を聞いていて感じました。

いきなり仕事を辞めるとか、家や家庭を捨てて旅に出るとか、そんな大きなことはできないけど、自分が楽しそうと思った小さなことに目を向けて、やがては心も体もそこに向けていく、そんな勇気を抱くことをお二人から学んだ気がします。

 

来年も、あみ太さんと賢太郎さんのライブを企画運営したいです。

その時は、今年よりも晴れやかな顔で、「ボンジュール、ムッシュ!」とご挨拶したいものです。

最後に、ライブにご来場くださいましたお客様、そして長丁場で会場をお貸しくださった「めし・カフェ・一風来」の成田さんに心から感謝申し上げます。

悼 出口美保さん

出口美保さんは、シャンソンのことを「うた」と言わず「お話」と言った。
それは、1曲のシャンソンを自身が経験した思い出と結びつけて歌うからである。

数年前、私は大阪に出口さんのライブを観に行ったが、そのときのプログラムのグレコの「街角」は、自身の幼少期に酒瓶を持って走って転び、割れたガラスで手を切ってしまったことや、空襲で逃げ惑うさなかに見た四天王寺の塔が火焔を巻き上げて燃えている光景の思い出話とともに歌われた。
さくらんぼの実る頃」を歌うときは訳詞者であり師匠でもあった菅美沙緒さんの記憶、「考える暇もなく時は過ぎていく」は2児の母としての経験に裏打ちされていた。
出口さんはシャンソン以外の曲も得意で、「ラストワルツ」「神田川」「かあさんのうた」には、心に秘めた思いが歌に放出されていた。
出口さんの内には、岸田劉生の「麗子像」のような少女がいて、シャンソンを介して我々の前に出現していたのではなかろうか。

だが、出口さんは記憶のなかにいる人々と馴れ合うことはない。
それはベコーの「おお我が友よ」に現れていて、彼女は人生で出会ってきた沢山の「我が友」の首根っこを掴んで引きずり出すような迫力があった。
その激情が「出口美保」の魅力であり、表現者としての矜持なのだ。

出口さんがコンサートの最後に歌うのは、中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」だった。
NHKの「プロジェクトX」のエンディング曲として知られるが、出口さんもまた自身が「挑戦者」であるという自負があったのではなかろうか。
それは、シャンソンという枠を超えて、出口さんという人の生き様として、我々の心を捉えてやまない。