シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

「シャンソンマガジン 2022年春号」

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シャンソンマガジン 2022年春号」が発売されました。北海道には15日に届くので、読むのが楽しみです。

この度「セルジュ・ゲンズブール特集」に、拙いながら寄稿いたしました。お力添えくださった方々に、厚く御礼申し上げます。

「悪童はセピア色の歌を聴くかーセルジュ・ゲンズブールとジジ・ジャンメール」

ゲンズブールは、歌手として活躍するかたわら、音楽プロデューサーとして、いわゆる「フレンチポップス」をフランスの新しいシャンソンとして流行させました。
しかしながら、彼の評価は数々のスキャンダルや破天荒さなどに偏っています。
本稿では、ゲンズブールが女性歌手のジジ・ジャンメールに提供した楽曲を通じて、彼は戦前から終戦後の古いスタイルのシャンソンをリスペクトしていたことを論じ、その点も含めて再評価の余地があることを記しました。
御高覧いただければ幸いです。

せっかくなので、ジャンメールがゲンズブール作品を歌ったCDをご紹介します。

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「Zizi au Zénith」(フランス盤)

収録曲はどれも面白く、シャンソンっぽくて聴きやすい!(笑)
でも歌詞カードがないので、内容が分からないのが非常に残念です。
私が一番好きな「Tout l'monde est musicien」(みんなミュージシャン。邦題は「パリのミュージシャン」)は、途中までなんとか歌詞が分かりました。

君は、コルネドフリット(フライドポテト)の揚げる音が、楽器のコルネ(ホルン)と同じ音だと知ってるかい?
君は、空の酒瓶からフルートの音が鳴るのをご存知か?
みんなミュージシャン
何もベートーベンやショパンだけの話じゃない
アコーディオンをかき鳴らしてるときは、バイオリンなんて調律してりゃいいんだよ

すごくいい曲じゃありませんか? ゲンズブールのイメージが変わりませんか?
この先の内容がどうしても気になるので、誰かフランス語の歌詞を聞き取ってくれる方がいないかと思っております。

♪「シャンソンマガジン」は、シャンソンに関する誌面に特化した、定期購読誌です。

日本のシャンソンと渋谷系

異種婚礼ーシャンソンは「渋谷系」と結びつくか?

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1990年頃、日本には「渋谷系」と呼ばれる若者文化がありました。

これは、渋谷にレコードショップが沢山あったことで、様々な音楽が若者たちの間で流行り、それがファッションなどにも派生したムーブメント(流行)を指す、と言われています。ですので「渋谷系」は、特定の音楽ジャンルを表した言葉ではなく、言うなれば「90年代の渋谷の雰囲気」みたいなものだと思います。
私はその頃は幼少だったので、これを文章で説明するのは大変難しく、リアルタイムで「渋谷系」の雰囲気を体感した世代にしか分からないものがあるでしょう。

ところで、そんな「渋谷系」の若者たちの間では、いわゆるフレンチポップスが大変流行していました。フレンチポップスとは、1960~70年代にフランスで流行った、アメリカやイギリスのロックやポップスの影響を受けた楽曲のことを言います。
日本にはシャンソンがあったにも関わらず、なぜ90年代の「渋谷系」で突然フレンチポップスがブームになったのか、私は不思議でした。

今回、1996年に発売された雑誌『ur⑫ フレンチポップス』(ペヨトル工房)を入手しました。
これを読んで「渋谷系」で何故フレンチポップスが受け入れられたのかが、少し見えてきました。
それを通じて、「日本のシャンソン」と「渋谷系」は結び付く余地があるのかを検証します。
これは、もうひとつの「日本のシャンソン史」です。

まずこの雑誌を読んで「渋谷系」では、フレンチポップスに次の2点が重視されていたのが分かりました。

フランス・ギャルの「レトロ&ロリータ」
ブリジット・フォンテーヌの囁き声

まず、フランス・ギャル(France Gall)についてです。ギャルは、1966年にフランスで「夢見るシャンソン人形(Poupée de cire, Poupée de son)」という楽曲がヒットして、アイドル歌手として活躍しました。彼女をプロデュースしたのは、セルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)です。
ゲンズブールがギャルに求めたのは、アイドルとしての「少女性(ロリータ)」でした。それは無論、大人の男の性的関心を惹きつけるものです。

90年代の「渋谷系」の若者たちにとって、ギャルは30年前のアイドルです。そんな彼女が注目されるようになったきっかけは、当時「渋谷系」を代表するバンドだった「フリッパーズギター」のメンバー、小山田圭吾小沢健二がギャルを評価したことで、そのファンたちが彼女のCDを買うようになりました。こうして、ギャルは若者たちに人気になり、彼女のロリータ性とレトロなファッションが、「渋谷系」の特徴して定着していったのです。

同時に、ギャルをプロデュースしたゲンズブールも、若者たちに知られていきました。しかし、それは彼の「ロリコン」なところや、スキャンダルなところばかりが注目されました。ゲンズブールは、もともとは優れたオールドスタイルのシャンソンを手掛けた人でもあります。「渋谷系」によって、ゲンズブールのスキャンダラスな部分のみ取り上げられ、それがそのまま日本での評価に繋がってしまったことに、私は憤りを感じています。

ところで、ギャルと同じ経緯で「渋谷系」に受け入れられたのが、男性歌手のピエール・バルー(Pierre Barouh)と彼のレーベル「サラヴァ(Saravah)」です。
バルーは映画「男と女」の音楽を手掛けたことで、シンガーソングライターとして活躍しました。そんな彼が自身の楽曲や気に入ったアーティストのレコードを出した自主レーベルが「サラヴァ」です。
当時バルーは、フランスと日本を拠点に活躍していました。そんな彼の「サラヴァ」のレコードを日本で取り扱ったのが、「渋谷系」の音楽をプロデュースしていた牧村憲一です。彼によって、バルーと「サラヴァ」のレコードは、若者たちに広まっていきました。
なので日本における「サラヴァ」の楽曲の受け皿が、たまたま「渋谷系」であったわけで、バルーが「渋谷系」と結び付いていたわけではありませんでした。

次に、②のブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine)について見ていきます。フォンテーヌは、奇抜なパフォーマンスと、既存のシャンソンを全否定した前衛的な楽曲を手掛けた「反体制」の歌手です。1971年に彼女が「サラヴァ」レーベルから発表した代表曲「ラジオのように」は、聴いていて恐怖すら感じる仕上がりです。
フォンテーヌの特徴は、囁くような歌い方です。「渋谷系」で注目されたのは、彼女のアバンギャルドな姿勢よりも、その歌い方でした。
そもそも、フォンテーヌの「ラジオのように」は1972年に日本でも紹介されており、音楽評論家の間章が評価したことで、すでにカルト的な人気がありました。彼女のアバンギャルド性は、こちらで受け入れられていたのです。

フランス・ギャルの「レトロ&ロリータ」と、ブリジット・フォンテーヌの囁き声は、「渋谷系」に何をもたらしたか。
それは、「渋谷系」の若者たちが思い描いた、独自のフレンチポップスのイメージでした。つまり、彼らにとってフレンチポップスのイメージは、「レトロな服装のロリータが、囁き声でフランス語の歌詞を歌う」というものに固定されてしまったのです。無論、これは誤ったイメージです。

しかし、その独自のイメージを体現する歌手が「渋谷系」に登場します。女性歌手のカヒミ・カリィです。
92年、カヒミ・カリィは先に述べた小山田圭吾のプロデュースでメジャーデビューしました。アニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌にもなった、彼女の代表曲「ハミングがきこえる」のミュージックビデオは、まさに上記のフレンチポップスのイメージを体現したものになっています。いま聴いても、お洒落で人を惹きつける魅力に溢れていると思います。
https://youtu.be/jgxmgtJ2Lc8

そして、現代にこのイメージを継承するのが、日本で活躍するフランス人女性歌手のクレモンティーヌ(Clementime)です。彼女のボサノバ調の楽曲は、まさに「渋谷系」のイメージに符合します。

これを見て分かるように「渋谷系」では、フランスの楽曲をもとに、日本人の手によって新たな作品を創作することで、流行として発展しました。
一方で「日本のシャンソン」はフランスの楽曲を日本語でカバーすることで発展しました。
渋谷系」と日本のシャンソン、根本的な違いはここにあります。もちろん、両者に優劣はありません。

こうして見ると、「渋谷系」と「日本のシャンソン」は、別種のものであり相容れません。しかし、この両者を結び付けた歌手が一人だけいます。
女性歌手の戸川純です。

戸川は「渋谷系」に分類される歌手ではありません。しかし彼女の表現のスタンスは、「渋谷系」と「日本のシャンソン」双方に通ずるものがあります。

戸川は女優としてデビューし、84年に生理を歌った「玉姫様」を発表して歌手活動を始動しました。彼女は、いまも活躍していますが、表現のタブーに切り込んだ歌詞とパフォーマンスは、根強い人気があります。

戸川の歌声は、まさにブリジット・フォンテーヌのような不穏さと、セルジュ・ゲンズブールが生前最後に手掛けたロリータ歌手、ヴァネッサ・パラディ(Vanessa Paradis)を彷彿とさせます。
そんな彼女の楽曲で注目したいのが、フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)のカバー「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」です。
https://youtu.be/mnlft9kLe_4

これは1985年に戸川が発表したもので、どんなことがあっても待ち続ける女のイメージと、情念に満ちたセリフは、まさに「日本のシャンソン」のドラマティック性そのものと言えます。
さらにミュージックビデオでは、戸川がナース服で日本の国旗を振っています。これは従軍看護婦のように見えます。さらにセリフのなかにある「たとえ大惨事が起きたってー」は、映像を見ることで「大惨事」が「第三次世界大戦」の比喩になっているのが分かるようになっています。こうした皮肉な詩的表現は、まさにシャンソン的だと言えるでしょう。

以上のことから、私は「渋谷系」と「日本のシャンソン」が結び付くことは、戸川純によってすでに体現されており、現在その余地はないと判断しました。
いま「渋谷系」と「日本のシャンソン」が結び付くには、戸川純越路吹雪がかけ合わさったような強烈な個性とカリスマ性を秘めた歌手が出現しなければ、大成しないでしょう。それはもはや、AIや初音ミクなどの仮想領域に思えてなりません。
ただ、もしこのふたつの異文化を統合するカリスマが出現したとき、日本のシャンソンはとてつもない変貌を遂げることは間違いないでしょう。

島崎雪子

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島崎雪子(しまざき ゆきこ)のこと

以前「なんで芸能人ってシャンソン歌いたがるんですか?」と質問を受けたことがある。

そのときは、上手いこと答えられなかったので、後日自分なりに調べてみると、あるサイトには
「芸能人のデビュー当時は若さで売ることができる。しかし、月日が経ってそれが難しくなると、オトナの雰囲気で売らねばならなくなるので、大人の音楽の雰囲気が漂うシャンソンを歌わせるのが手段のひとつ」
とあった。
シャンソン愛好家からすれば、そんな生半可な考えで歌うんじゃないよ!、と一喝したくなるが、本来音楽は何物にも縛られないものであり、それがどう生かされようと自由であるべきだ。それに、すべての芸能人が自分の売り込みのためだけにシャンソンを歌っているはずはないので、これ以上は何も申すまい。

では、最初に芸能人でシャンソンを歌った人は誰なのだろう?と思った。
思いついたのは、女優の島崎雪子である。

島崎は昭和6年生まれ。終戦後にバーの女給をしながら女優を志し、昭和25年に映画デビューした。黒澤明七人の侍」をはじめとする映画に数多く出演し、女優としての活躍を見せていたが、自身のの限界を感じたらしく、昭和33年に結婚を機に引退した。ちなみに、このとき彼女は何故か差し押さえを食らい、全財産を失っている。
同年、彼女はシャンソン歌手を志し、作曲家の高木東六と彼の弟子でシャンソン歌手の宇井あきらの門下生になった。そのツテなのか、彼女は同年に来日公演をしていた女性歌手のジャックリーヌ・フランソワ(Jacqueline François)から、歌のレッスンを受けている。

シャンソン歌手に転向した島崎の活躍は目覚ましく、翌年の昭和34年には紅白歌合戦に出場した。歌ったのは、女性歌手ダリダのヒット曲「バンビーノ」(Dalida「Bambino」)。
この時の音源がネットにあったので聴いてみたが、あまり印象に残る歌声ではない。正直なところ、女優としての知名度で成功した例であろう。
https://m.bilibili.com/video/BV18D4y1D72f

その後の島崎は、門下生の発表会やシャンソニエで活躍し、昭和38年10月に自身のシャンソンの店「エポック」を銀座7丁目に開店する。
彼女は、開店資金の2000万円を田園調布の家を売って調達した。しかし、開店当時は大変だったらしく、他の店からの嫌がらせを受けたり、シャンソンの人気が低落していたのもあって、集客がままらなかった。
そんなときに、彼女は美輪明宏からお稲荷様に油揚げを供えることをアドバイスされ、やってみたところ、急に客足がのびたという。さすが美輪さん。
とはいえ、毎月の店の経費は150万円かかり、それを支払うことで精一杯だった。それでも彼女は、自分の新たなライフステージを楽しんでいたらしい。
その後「エポック」は、高級クラブに形を変えて、20年ほど営業していた。

平成26年に島崎は死去したが、人生のターニングポイントをうまく乗り切った彼女の生き方は見事である。それに、女優であった彼女にとって、シャンソンは自分の才能を生かす受け皿であったのだろう。

最初の話に戻るが、芸能人の売り込みのためにシャンソンを、ではなく、感性を磨くためにシャンソンを、と言ったらどうだろうか。そちらのほうが、素敵ではありませんか。

画像1 島崎雪子肖像
画像2 「エポック」入口。看板には、シャンソン歌手の堀内環氏、カンツォーネ歌手の近藤英一氏の名前が見える。

戦争忌避の歌ー『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』

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札幌在住の三神恵爾様が発行する個人文芸誌『がいこつ亭 106号』に寄稿しました。

・戦争忌避の歌ー『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』

昨年刊行された
浜本正文訳『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』(国書刊行会)
の書評です。
ボリス・ヴィアンが遺したシャンソンの歌詞を通読して、彼が「脱走兵」などの反戦詞を手掛けるまでの経過を探りました。

ちなみに、私が一番好きなヴィアンの詞は、アンリ・サルバドールが歌った「歯医者の白衣(ブルース)」です。こちらは、コミカルなシャンソン

『がいこつ亭』に掲載されている、三神様の「愛国少女のまなざし 田辺聖子『十八歳の日の日記』」は、大変読みごたえがありました。
作家の田辺聖子が、戦時中の軍国教育に染まっていた学生時代の日記を取り上げて、世の中を「疑う心」から文学が生まれることを論じております。
それは、ボリス・ヴィアンシャンソンにも繋がっているように思いました。

小津安二郎

東京物語」などで知られる映画監督の小津安二郎は、昭和初期からシャンソンを愛聴していました。
彼が好きだったのは、

ミスタンゲット「サ・セ・パリ」
ラケル・メレ「ヴァレンシア」
(Mistinguett「Ça c'est Paris」
Raquel Meller「Valencia」)

というシャンソンでした。

戦後、小津は音楽家斎藤高順にこれらと似たような楽曲を作らせて、自身の映画作品に挿入しました。
そのタイトルは「サセレシア」。
小津自身による命名で、無論「サ・セ・パリ」と「ヴァレンシア」のタイトルを掛け合わせたものです。

「サセレシア」を聴いてみますと、タイトルだけでなく曲調まで原曲にそっくりで、盗作云々を超越した清々しさがあります。
小津安二郎を通じて、シャンソン愛の色々なカタチを確かめることができます。

聞かせてよ愛の言葉を?

聞かせてよ愛の言葉を」という、素晴らしいシャンソンがあります。
原曲は1930年(昭和5年)にフランスでレコード化した、リュシェンヌ・ボワイエの「PARLEZ MOI D'AMOUR」。
そして、昭和7年に日本でもレコードが発売されましたが、そのときの邦題は「甘い言葉を」でした。

では「甘い言葉を」は、いつから「聞かせてよ愛の言葉を」になったのか。私はとても気になりました。

現在「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルで歌われている日本語の訳詞は、このようなものです。

聞かせてよ 好きな甘い言葉
話してよ いつものお話しを
何度でもいいのよ その言葉
「愛す」と

これは佐伯孝夫さんの訳詞で、昭和27年に淡谷のり子さんが歌いました。
しかし、そのレコードには「聞かせてよ、あまい言葉」と書いてあるのです。
タイトルが違うのです!

では「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルはどこからやって来たのか?

答えは、水星社から出版された楽譜集『シャンソンアルバム(4)』にありました。
そのなかに収録されている「あらかわひろし」さんの訳詞のタイトルが「聞かせてよ愛の言葉を」とありました。
この訳詞は、次のようなものです。

愛のその 言葉を 繰りかえし
甘くこの 胸に 囁いてネ
愛のあの 言葉を 心から
私に

つまり今日まで、佐伯孝夫さんの訳詞は、「あらかわひろし」さんの訳詞のタイトルで紹介されていたのです。
なんだか、佐伯さんに申し訳なくなってきました。

ちなみに「あらかわひろし」さんは、牧野剛さんという人のペンネームです。
しかも、牧野さんは「音羽たかし」というペンネームも使っていました。
この「音羽たかし」は、キングレコードに所属する作詞家が共有していたペンネームで、Wikipediaによれば、カンツォーネの「愛は限りなく」という楽曲を訳した「音羽たかし」は牧野さん、ジャズの「テネシーワルツ」を訳した「音羽たかし」は、和田壽三さんという人らしいです。

さらに「聞かせてよ愛の言葉を」の訳詞は、「あらかわひろし」「音羽たかし」「菅美沙緒」の3名の名前がJASRACに登録されていて、この楽曲が何かに使用されると、この3名に著作権料が分配されるらしいです。
つまりこれは、牧野剛さんを「あらかはひろし」として雇用した水星社、そして牧野さんが「音羽たかし」として勤務しているキングレコードに、著作権料が流れるように仕組まれているのです。

何事にも金銭が絡むのが芸能の世界です。しかしながら、一番損をしているのは佐伯孝夫さんです。
今さら「聞かせてよ愛の言葉を」のタイトルを変更するのは難しいですが、せめて私は今後「聞かせてよ、あまい言葉」のタイトルで紹介していこうと思います。

追記
調べてみたところ、昭和34年にビクターレコードから淡谷のり子聞かせてよ愛の言葉を』というタイトルのLPレコードが発売され、佐伯さんの訳詞が「聞かせてよ愛の言葉を」として掲載されていました。
あらかわひろしさんの訳詞が掲載されている『シャンソンアルバム』は昭和38年出版でした。
なので、当初「聞かせてよ、あまい言葉」として発表された訳詞のタイトルが、後年改名されたというのが真相のようです。

戦時下のシャンソン

敵性音楽ー戦時下のシャンソン

昭和16年に太平洋戦争が始まると、日本で洋楽は駆逐されていく。
とはいえ、開戦当時はそれほどではなかったようだ。なぜならば、軍部が「明るく戦争を乗り切る」という方針を推奨していたからだ。国民に我慢を強いるよりも、明るく楽しく戦時下を乗り切ったほうが、「耐えがたきを耐え」ることができるという考えだった。現に、戦時下では漫才などの娯楽が発展し、洋楽ではハワイアンが良く聴かれていたそうだ。

その流れが変わったのは、昭和18年頃からである。戦局の悪化により、「兵隊が戦っているのだから、国民も生活を引き締めなければならないのではないか」という声が高まった。
こうした声をあげたのは、軍人や一般庶民ではなく、教員や公務員などの特殊な人達であった。

その最中、当時の内閣情報府から発行されていた雑誌「写真週報 昭和18年2月3日号」に、ひとつの記事が掲載された。
それは、「米英レコードをたたき出そう」というタイトルで、敵国のレコードを捨てて、真の日本人として出直そう、という内容であった。
その上、この記事には「廃棄すべき敵性レコード」という題で、捨てるべきレコード1189枚のリストも掲載されている。
その内容は、「峠の我が家」や「ロンドンテリーの唄」などの唱歌として普及した楽曲や、「セントルイスブルース」「ダイナ」などのジャズ、「アロハ・オエ」などのハワイアンが中心だ。しかし、中には同盟国のドイツの楽曲も入っていたりして、いい加減さと同時に、とにかく洋楽を駆逐しようという不気味な意地が伝わってくる。
さらにレコード店では、このリストに掲載されたレコードを引き取るサービスをしていたようだ。

そして、このリストの中には、シャンソンのレコードも含まれている。日本語のタイトルのみでは、どれがシャンソンなのか明確に判別ができないため、それらしいタイトルのレコードを以下に示す。

【ビクターレコード】
JA555「巴里は夜もすがら」
677「モンシータ」
JK18 「巴里の夜中」
JA815「モンテカルロの一夜」
22681「オルガ」
24068「あわれなアパッシュ」

コロムビア
J1450「可愛いトンキン娘」
J2483「マンダレイの恋人」
J2961「ヴェニ・ヴェニ」
J2968「サ・セ・パリ」
JX91「ヴィエニ・ヴィエニ」
JX238「小さなフレンチカジノで」

【ポリドール】
A272「サ・セ・パリ」
A392「暗い日曜日

【日本テレフンケンレコード】
30614「巴里のシャンソン

【テイチク】
N225靴屋の大将/小さな喫茶店
50006「コンチネンタル」
50318「ヴァレンシア」
T8068「バラのタンゴ」

約1200枚の廃棄レコードのリストに、シャンソンのレコードは19枚しかない。全体の1%である。
これはあくまで「鬼畜米英」に基づくリストであるため、フランスのレコードが除外されたのであろう。その上、当時のフランスはドイツの占領下だったため、廃棄対象から免れたとも考えられる。とはいえ、昭和6年以降、コロムビアから大量に発売されたシャンソンのレコードがリストから漏れているのは意外であるし、一応公的にはシャンソンのレコードの所有が認められていたというのは、特筆すべき史実である。

とはいえ、当時の日本人にとって洋楽は全て「敵性音楽」という認識であったことに変わりはない。洋楽というひとつのジャンルを、国ごとに細分化する考え方がなかったのであろう。例え、同盟国のドイツやイタリアの楽曲であっても、つまりは洋楽なので敵性音楽であった。

このとばっちりを最も受けたのが、淡谷のり子さんだった。歌曲やジャズ、シャンソン、タンゴをレパートリーにする彼女にとって、この「敵性レコード」は歌手活動の封じ手に他ならなかった。
彼女は、中国の戦地で慰問公演をしているが、そこでは禁止されていたドレスを着て、メイクを施し、洋楽を歌いまくった。もちろん軍部からは叱責され、始末書を書かされた。その一方で、彼女への公演依頼は尽きることがなかったという。国策に忠実な軍人もいれば、せめて最期くらい好きな楽曲を聴いて死にたい、という人情溢れる軍人もいたからである。
当時淡谷さんが所属していた日本コロムビアレコードは、彼女にレコードを吹き込ませず、敵国の戦意喪失を狙ったラジオ放送で洋楽を歌わせていた。そして、昭和20年には一方的に彼女を解雇する。
戦後になって進駐軍が来ると、日本コロムビアは手のひらを返して、淡谷に再就職のオファーをしたが、彼女はきっぱりと断った。
淡谷さんほど、歌手として戦時中を強く生きた人はいないだろう。

ところで、慰問は戦地だけでなく軍需工場でも行われた。こちらは、軍部主導のものではなく、今でいうボランティアだったのであろう。
これに率先して参加していたのが、当時大学生だったクレイジーキャッツ植木等。彼は同級生とバンドを組んで、工場での慰問でシャンソンやジャズを披露し、女工たちに喜ばれたという。
例え軍部が洋楽を禁じても、それを聴いた人々の湧き上がる思いまでを統制することはできなかったのだ。

最後に、淡谷さんの自伝のなかにある一文を紹介したい。

「歌などというものはどんな権力で強制したところで、人々のほんとの心の底にしみ込むものではない。」


戦前日本におけるシャンソンの記事が溜まったので、本にまとめようと思います。
来年3月までに形にしたいです。

『戦前日本シャンソン史』自費出版100部 1300円前後