シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

1982年の「BRUTUS」はフレンチ特集

12月29日はシャンソンの日なので、最近読んだ雑誌を紹介します。

BRUTUS」1982年8月15日号は、「悦楽のフレンチ・スタイルが気になる」と題した特集が組まれている。
パリの観光スポット、ブティック、レストラン、酒場にいたるまで、魅力溢れるカテゴリーを網羅した情報誌となっている。
なかでも、フランスで活躍する粋な男たちを特集したコーナーが面白く、シャンソン歌手では表紙のセルジュ・ゲンズブールピエール・バルー、イヴ・シモン、ジャック・イジュランが取り上げられている。

当時のゲンズブールは、妻のジェーン・バーキンと別れており、表紙で隣に写っているドイツ人と中国人ハーフのバンブーは、新しいパートナーであった。
誌面では、ゲンズブールのプレイボーイぶりと癖の強い経歴とライフスタイルが語られる。
珍しいのは、ゲンズブールの自宅の写真が掲載されていることで、2階には「人形部屋」と称したアンティークの玩具やビスクドールに溢れた子供部屋のような小部屋があったようだ。
さすがサルバドール・ダリ内弟子だっただけあってセンスを感じるが、そこに座り込んで笑っているゲンズブールや、取材中に訪ねてきた娘のシャルロットにバーキンの近況を尋ねる様子などを見ていると、やはり彼はスキャンダラスな人柄を演じていたのであろうし、それに付き合わされた女たちの心情を想像するに、ただただ虚しくなってくる。

イヴ・シモンやジャック・イジュランは、当時はまだ出始めの歌手であった。
後々、2人ともフランスで大成したが、日本でシモンは作家として知られ、イジュランにいたっては息子のアルチュール・アッシュのほうが知名度が高いように思われる。
ちなみに、この2人を日本に紹介したのは、音楽評論家の永瀧達治さんだ。

この雑誌で最も恩恵を受けたのは、ピエール・バルーであろう。
雑誌のインタビュアーの立川直樹さんは、バルーと対談して意気投合する。
やがてバルーは日本に興味を示して来日し、結果的にはフランスと日本を音楽活動の拠点とすることとなる。
誌面のなかでバルーは、「未来と過去というものを僕はいつも混同してしまう。現在が自分にとって大事なんだ」と語る。
この実存主義が、バルーに世界中の音楽への関心を目覚めさせ、自身のレコードレーベル「サラヴァ」に結実したことを思えば、彼の生き方こそ一番共感できるような気がする。

それにしても、日本が豊かだった頃の雑誌は読んでいてリッチな気持ちになる。
読んでいて面白かったのは、記者がパリのアルゼンチンタンゴの店を取材中に、ブラックユーモアの戯作者ローラン・トポールと偶然知り合い、インタビューすることに成功していることだ。
そんな体当たりな取材旅行と誌面作りができたのは、やはり時代の余裕なのだろう。
最近の雑誌では「ディストピア・ジャパン」などという特集が組まれるくらいなのだから、心も寒々しくなるばかりである。

照井詠三がラジオ番組で取り上げられた!

12月24日(日)午前0時、ラジオ番組「MIDNIGHT POETS 誰も整理してこなかったポエトリー史」(渋谷のラジオ)にて、日本で最初に日本語とフランス語の折衷でシャンソンを歌い、詩の朗読運動を牽引した照井詠三を取り上げてくださった。


出演者の詩人・村田活彦様が、私がネットに投稿した記事に加え、昔の文献を調査し、照井を紹介くださった。
私が知らなかったことも深く取り上げてくださり、さらに知識を深めることができ、感謝いたします。

照井については、先日も他の方からご連絡があり、『立原道造全集 第5巻』に記載があることをご教示くださった。

立原道造は、大正から昭和にかけて詩人として活躍するも24歳で没した人である。
早速購入して読んでみると、立原のいくつかの書簡に照井の名前を見ることができた。

立原は、死去する前年の昭和13年に、照井の「戦争詩の夕」なる朗読会を鑑賞している。
立原は、この会の感想などを書き残してはいないが、照井以外にも出演者が数名おり、照井にも会って挨拶したようだ。

当時は日中戦争のさなか、照井もまた詩の朗読を通じて、体制が求める戦意高揚に協力していたことに悄然とする。
先述したラジオ番組「MIDNIGHT POETS」でも説明されていたが、戦前はラジオ放送で詩の朗読を取り上げることで、国民の教養を醸成をはかっていたというから、戦時中の国策に迎合するのは当然の成り行きであろう。
とはいえ、国の体制に協力したからには責任が生じる。
戦後、戦争をテーマにした作品を発表した画家や文学者が「戦争責任」を追及されたことを思えば、文化芸術がいかに脆いかが見えてくるはずだ。

先人や歴史を知ることは、未来の自分の身の振り方を考えるきっかけなのである。

高野圭吾さんの絵画

高野圭吾さんの絵画を手に入れた。

高野さんは、シャンソンの訳詞家にして歌手、そして東郷青児のもとで絵を学んだ画家としても活躍された。

この作品は、高野さんと交流があったシャンソンファンの方が急逝され、ご遺族様やゆかりのあった方々がご相談された上で、私にお譲りくださった。
深く感謝するとともに、沢山の方々の思いを受け継ぐということへの心構えを新たにした。

こちらの作品は、秋の河川敷の風景画である。
草が繁った河川敷に川が流れ、土手があって、煙突のある工場のような建物がいくつか見える。
最初は春の河川敷かと思ったが、じっくり見てみると色づいた草々の範囲が広いから、やはり秋の風景だろう。
江戸川の風景だろうか、小津安二郎の映画のカットにも出てきそうな、素朴な叙情的な作品だ。

この作品の叙情性は、草の緑と川の水の青、枯れ草の赤と黄のグラデーションから醸し出されている。
この色彩は日本画のものであり、例えば鈴木其一「夏秋渓流図」を彷彿とさせる。
思えば、高野さんは武蔵野芸大の日本画科を専攻していたのであった。

これまで高野さんの作品を何点か見てきたが、日本画の要素を感じるものをみたことがなかっただけに、この作品は貴重である。
高野さんの色彩感覚を知って、また少しありし日の彼に近づけたような気がした。

 

土岐雄一郎さんと「六味唐辛子」

土岐雄一郎さんと「六味唐辛子」

土岐雄一郎さんといえば、シャンソンのピアニストとして知られている。昨年亡くなった藤田順弘さんが「伴奏は、土岐さんと綾部肇さんが良かった」と語っていたのを思い出す。
また、全音楽譜出版社から刊行されている楽譜集『シャンソン・ベスト・コレクション』の監修者としても有名であろう。

土岐さんは、1938年に神戸で生まれた。関西のシャンソン歌手、菅美沙緒さんに認められて上京し、ピアニスト、編曲者として活躍した。また、自身による話し言葉調のエッセイや、自宅の留守番電話に吹き込んだ漫談の面白さは、今なお語り草となっている。2014年、死去。

ところで、土岐さんには訳詞家としての顔がある。「谷間に三つの鐘が鳴る」「ピギャール」「俺はコメディアン」「待っていた男」「老いぼれ役者」などは、私も愛聴するシャンソンであるが、同時に歌詞の内容が説明文のようで没個性だと思っていた。「ピギャール」は街の様子の描写であるし、「俺はコメディアン」はうらぶれた男の1日の様子が客観的に説明される。
それでも、これらの楽曲を仲代圭吾さんや森田宏さん、井関真人さんなどが歌われると、男を泣かせる珠玉のシャンソンになる。これは、淡白な訳詞を、歌い手が「芸」で肉付けして聴かせにかかるからだ。土岐さんの訳詞は、歌い手の「芸」を試すものであり、いわば曲者であるといえよう。

そのようなことを思うに至ったのは、最近「六味唐辛子」というシャンソンのライブを収めたDVDを観たからである。
「六味唐辛子」は、土岐さん、奥様の土岐能子さん、シャンソン歌手の岡本正之さん、レオ・フェレ歌いの河田黎さん、いにしえのシャンソンにも精通する佐野加織さん、朗読家の白坂道子さん、そしてパントマイムを交えてシャンソンを歌う森田宏さんで結成されたグループである。佐野さんが発行する「るぽあんしゃんて通信」(2004年11月号)によれば、「六味唐辛子」は1993年に結成され、「一物も二物も持っている風変わりな歌手が集まって、そんじゃそこらではちょっと聞けない歌をご披露しましょうという目論見で立ち上げました。定着したシャンソンのイメージを壊さないながらも六味流に個性的に前向きに歌いたいと思っています」とある。
こうしたグループで結成され活動していたことが、土岐さんの歌い手の「芸」への信頼の表れではなかろうか。

今回観たDVDは、2015年に土岐さんを偲んで開催されたコンサートのものである。
上記の5人に加え、ゲストで仲代圭吾さんが出演している。
コンサートでは、歌い手さんそれぞれが持てる「芸」を生かして土岐さんの訳詞を表現しようとする気概に満ちていた。特に、仲代さんと森田さんは、シャンソン舞台芸術として歌い上げるが、でしゃばることのない誠実さが感じられて、感動的であった。また、エンディングで出演者たちが客席に小さな袋(多分、七味唐辛子)をバラ撒いてフェードアウトしていく奇妙な終わり方は、ユーモアな土岐さんへのリスペクトであり、氏への思慕の念が醸し出されていた。

歌い手の「芸」を引き出す訳詞、これはもしかしたら土岐さんの歌手の魅力を引き出す伴奏と同じなのかもしれない。土岐さんの伴奏を、叶うことなら聴いてみたかった。

 

 

蜂鳥あみ太=4号さんのライブを鑑賞

Barタートルヘッズに於ける、蜂鳥あみ太=4号さんのライブを鑑賞した。

 

退廃美の画家、ピエール・モリニエを彷彿とさせる、全身網タイツ姿でシャンソンを歌う蜂鳥さんのステージに、私はいつもシビれてしまう。
それは、蜂鳥さんのパフォーマンスの豊かさゆえだ。

今回のライブスポット、Barタートルヘッズはコの字型のテーブルが置かれただけの空間である。
蜂鳥さんは、その凹のなかに入って歌いはじめたが、やがて観客が盛り上がってくると、カウンターから顔を突き出したり、机上に乗って淫靡なポーズをとったり、さらにはそれを乗り越えて観客たちのなかに入っていったりする。
それをファンサービスと言うのは簡単であるが、そこには媚びや惰性、下品さがない。

そして、蜂鳥さんが歌う楽曲の数々も面白い。
蜂鳥さんのレパートリーは、シャンソンにとどまらず、ロシア、ドイツ、エジプトまで取り上げられているが、これらは自身の訳詞で歌われる。
例えば、ドイツのクルト・ヴァイルの「マンダレイ」は、男性社会へのアイロニーに満ちている。
「男は世界の消耗品」「エレクチオしたペニスは男の墓標」などのパワーワードは、聴いているだけで身がゾクゾクする。

奇抜な外見、洗練されたパフォーマンス、刺激的な風刺、この三ッ巴が蜂鳥さんの魅力である。

そして、蜂鳥さんの伴奏をつとめた、アコーディオニストの田村賢太郎さんにも胸が打たれた。


田村さんの伴奏は、音符を引き算して最低限の音で蜂鳥さんの歌に寄り添い、さらにそこに熱いパッションが加算されて、情熱的であった。
クルト・ヴァイルの「地獄の百合」では特にそれが生かされて、サビの部分はピアソラの「ブエノスアイレスの冬」を想起させ、私の心拍は高まった。
田村さんもまた、ライブのたびに観客をシビれさせる存在である。

 

悼・山上悦男様

昨日訃報に接した山上悦男さんを、私は舞台照明家として存じ上げていた。
本日、『シャンソンマガジン』編集長の山下直樹さんが、山上さんが生前執筆した寄稿文を投稿され、それを通じて氏の経歴を知るに至った。

高校卒業後に、舞台照明の研究生になり、それ以来は寺山修司の作品や、キャンディーズ、アリスなどのコンサートツアーに関わったそうだ。独立後、34歳のときにシャンソン歌手の深緑夏代さんの事務所の社長、中村富一さんと知り合い、シャンソンの薫陶を受けた。私は、深緑さんの生誕100年の記念に生前のコンサートの動画をYouTubeにアップしたが、そのときの照明が山上さんだったのは、このような関わりがあったからなのか、と納得した。
そして、舞台照明家として日本国内、さらには海外でも活動の場を広げていたそうだ。

山上さんは、2015年からシャンソン歌手が一堂に会するコンサート「るたんフェスティバル」をプロデュースされている。私が、山上さんと知り合ったのも、このコンサートのプログラムに寄稿させていただいたことがきっかけであった。
そして、世界中が恐怖したコロナ禍のなかでも「るたんフェスティバル」は開催されている。
そのときの山上さんの言葉は非常に印象的である。

「世界的な新型コロナ感染拡大は、人が世界中で繋がっているということ。人類の一人としての意識を地球的規模で共有させたのでは。天安門事件から31年、香港の「自由」の危機に涙が溢れます。アメリカでは黒人の死によるデモが止まりません。人間の自由のために歌う。今を生きている喜びと悲しみ、怒りを歌う。芸術を、シャンソンを愛するすべての人に1杯の水を届けたいと思います。」

コロナが世界中の人々が繋がりを確認させた、という文章には、ふたつの意味がある。
ひとつめは、現代の国境を超えたグローバル社会ゆえにウイルスが蔓延したこと、もうひとつは、コロナへの不安や悲しみを世界中の人々が共有したということだ。
さらに山上さんは、香港の反政府抗争、黒人差別の当事者たちに心を寄せる。それは、国、民族、言語は異なれど、人間は感情を共感することによって繋がりあえるという信念である。
そして山上さんにとって、その役目を果たすのが舞台芸術であった。緊急事態宣言にともなう外出禁止、「エンターテイメントは不要不急」などの人々の分断が進んだ時期に、世界中の繋がりを訴えた氏に、私は感服する。

山上さんが、その信念に至ったのは、舞台照明家として、地に足をつけて活躍していたからだろう。世界中の地面に足を踏みしめて仕事をなさっていたゆえに、地球上の境界を超えた繋がりを発見したに違いない。

遠方より常々若輩の私を気にかけてくださった山上さんは、まさに「あしながおじさん」だ。
物語とは異なり、ついぞお会いすることが叶わなかったことは、私にとって大きな後悔である。

 

原色の光の海を操りし海幸彦の御身に会えず

 

八田朋子さんのライブに行く

「八田朋子さんのライブに行く」

苫小牧のシャンソニエ「カプリス」にご出演の八田朋子さんのステージを観覧する。

八田さんのステージを観たのは、コロナ禍のさなかに銀座のシャンソニエ「蛙たち」がはじめたライブ配信がきっかけであった。
蛙たち」では、八田さんは「レイチェル」の愛称で呼ばれ、その豊かに歌い上げる姿に感心したものである。
そして、私と年齢が近いということにも親近感を抱いていた。

唄うたいを、ひとりの歌い手として自立させるのは、1曲のレパートリーである。
八田さんにとって、それはミーナのカンツォーネ「遠い道」(渡辺歌子訳詞)であった。
お店を手伝いながら、沢山の歌い手のステージを見て、学ぶものがあったのだろう。
女が自ら男を捨てて別離を選ぶ「遠い道」を、八田さんは高らかに歌い上げずに、内に秘めて囁くように歌ってゆく。
そして、「あなたを離れて、あなたを忘れて、あなたを捨てて、苦しみから逃れて、この二人の部屋を私は出てゆく」というクライマックスは、男を縛り付けて床に打ち捨てたまま部屋のドアを閉めるような凄惨さを醸し出す。
この屹然とした女心をもって、「みんなのレイチェル」は八田朋子というひとりの歌手になった。
それを今夜のステージで感じられたことが、私の幸せである。

八田さんは、今回のセットリストを私に選ばせてくださった。
心尽くしのステージ、ありがとうございました。

2023.9.28【1st】
①愛すれば愛するほど
②ゲッティゲン
アブサン
④遠い道