12月24日(日)午前0時、ラジオ番組「MIDNIGHT POETS 誰も整理してこなかったポエトリー史」(渋谷のラジオ)にて、日本で最初に日本語とフランス語の折衷でシャンソンを歌い、詩の朗読運動を牽引した照井詠三を取り上げてくださった。
出演者の詩人・村田活彦様が、私がネットに投稿した記事に加え、昔の文献を調査し、照井を紹介くださった。
私が知らなかったことも深く取り上げてくださり、さらに知識を深めることができ、感謝いたします。
照井については、先日も他の方からご連絡があり、『立原道造全集 第5巻』に記載があることをご教示くださった。
立原道造は、大正から昭和にかけて詩人として活躍するも24歳で没した人である。
早速購入して読んでみると、立原のいくつかの書簡に照井の名前を見ることができた。
立原は、死去する前年の昭和13年に、照井の「戦争詩の夕」なる朗読会を鑑賞している。
立原は、この会の感想などを書き残してはいないが、照井以外にも出演者が数名おり、照井にも会って挨拶したようだ。
当時は日中戦争のさなか、照井もまた詩の朗読を通じて、体制が求める戦意高揚に協力していたことに悄然とする。
先述したラジオ番組「MIDNIGHT POETS」でも説明されていたが、戦前はラジオ放送で詩の朗読を取り上げることで、国民の教養を醸成をはかっていたというから、戦時中の国策に迎合するのは当然の成り行きであろう。
とはいえ、国の体制に協力したからには責任が生じる。
戦後、戦争をテーマにした作品を発表した画家や文学者が「戦争責任」を追及されたことを思えば、文化芸術がいかに脆いかが見えてくるはずだ。
先人や歴史を知ることは、未来の自分の身の振り方を考えるきっかけなのである。