シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

パリゼット

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで ②

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昭和2年の「吾が巴里よ」の盛況により、宝塚歌劇団創設者の小林一三は、演出家の白井鐵造にパリ視察を命じる。
白井は、昭和3年にパリに渡ってレビューの見識を深め、昭和5年に帰国。その帰朝公演ともいうべきレビューが「パリゼット」(10月「花組」公演)であった。

この「パリゼット」は、宝塚にとって重要な演目として今に伝わっている。それは、

1.現在のレビューの基礎を作ったから
2.宝塚の代表曲「すみれの花咲く頃」が初めて歌われたから

である。

またこのレビューは、
「フランスのシャンソンが、いつから日本で流行歌として親しまれるようになったか」
という疑問の答えも孕んでいる。

本稿では「パリゼット」の内容と、劇中歌「すみれの花咲く頃」について解説し、疑問を解決していきたい。

そもそも「パリゼット」というタイトルは、1928年にパリの劇場ムーラン・ルージュで初演されたレビュー「パリは廻る(Paris qui tourne)」で、女性歌手のミスタンゲット(Mistinguett)が歌った「Parisette」という楽曲が元になっている。
「Parisette」は、「パリの看板娘」といったような意味で、「パリの看板娘に人々は様々なプレゼントをする。だけど娘さん、お金で心を売ってはいけません」という内容のシャンソンらしい。
おそらく白井鐵造は、このレビューを実際に見て着想を得たと思われるが、借用したのは楽曲のタイトルだけで、レビューの内容に共通点はない。

次に、白井が作った「パリゼット」のストーリーを見ていきたい。
主人公はフランス帰りの神原、山中の男2名。彼らが宝塚歌劇団の公演を見たことをきっかけに、パリでの恋愛を回想するという内容だ。この宝塚劇場からパリへ場面が展開するという筋立ては、「吾が巴里よ」と同じ構成である。
パリの場面では、神原はロロットというモデルと恋仲になる。そして神原がメイドに変装したロロットに手を出して決裂する過程が、喜劇的に描かれる。これは狂言の「花子」や歌舞伎の「身替座禅」をもとにしたストーリーだろう。神原とロロットのストーリーが終わると、突如として山中の女友達ジョセフィンが登場する。ジョセフィンが、かつての恋人アンドレに振られた思い出を回想したところで、いきなりラストのエトワールが始まり幕となる。
はっきりいって、ストーリー構成に難のある作品だ。

出演は、山中・アンドレの二役に奈良美也子、神原に小倉一子、ロロットに高浪喜代子、ジョセフィンに明津麗子となっている。

この「パリゼット」は、舞台装置の豪華さが特徴的だ。『宝塚少女歌劇脚本集』には、次のように記載されている。

「舞台一杯位の大きな花籠。籠の中に二十四人の花の踊子座り…」(第11場)
「美しき階段、階段の上に美しき衣装の女十人立ち並ぶ。階段の上にもう1つのカーテンあり、そこにはカーテンの房の女八人立ち並ぶ」(第二十場)

添付の画像を見ても、これが現在の宝塚のレビューの基礎となったのは明白であった。
また「パリゼット」が、ラブストーリーであることにも注目したい。それまでの宝塚の演目は、喜劇や歌舞伎の翻案が中心であり、この「パリゼット」によって、宝塚は恋愛物を演目のメインとしていくこととなる。これは、白井鐵造の慧眼だと言えよう。

そして本題である、「フランスのシャンソンは、いつから日本人に親しまれるようになったか」という疑問を解いていきたい。
鍵となるのは、「パリゼット」の劇中歌である。

最も注目したいのは、「パリゼット」が

「七ツの巴里流行歌を主題にしたレビュー」

という触れ込みで上演されたことだ。つまり「パリゼット」は、「吾が巴里よ」とは異なり、あらかじめ劇中歌がフランスの楽曲であることが明示されているのである。
(余談であるが、シャンソンを「巴里流行歌」と呼ぶのは、昭和7年声楽家の佐藤美子が日本で最初にシャンソンのみでコンサートを開いた際に用いられたと言われてきた。しかし、この研究で「パリゼット」の時点で宝塚が考えたネーミングを、佐藤が借用していたのがわかった。)

とはいえ、脚本集をみると、「吾が巴里よ」と同様に「白井鐵造作、高木和夫作及編曲」とある。しかし、昭和5年にはフランスの歌手やレコードの認知度がだいぶ高まっていたのではないかと私は推測する。
例えば、「パリゼット」には次のようなセリフがある。

山中「そしてミスタンゲットのあのしはがれ声の巴里の唄をきく時、いつも自分は今巴里にいるんだという幸福を感じた」
神原「そうそうミスタンゲット、あの時パリゼットという歌を歌っていたっけね」

さらに『歌劇』には、公演中の劇場の様子が記録されている。

「日曜日の幕間の大広間、蓄音機の大ラッパがミスタンゲット嬢のパリゼットを叩きつけて、大広間の雰囲気はヤケに興奮している。」

そして「パリゼット」の登場人物ジョセフィンにも注目したい。「Josephine」は、英語ではジョセフィンと発音するが、フランス語ではジョセフィーヌである。登場人物のジョセフィンはブルターニュの生まれという設定なので、本来ならジョセフィーヌが正しい。
なのに彼女の名前がジョセフィンなのは、当時アメリカからフランスに渡って活躍していたレビュー歌手、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)に由来するのは明白である。

ところで、昭和2年に「吾が巴里よ」が公演された際、あるフランス映画が公開されたのが分かった。タイトルは「麗美優(レビュー) モン・パリ」。これは、「La reveu des reveu(レビューのなかのレビュー)」という原題で、パリの複数の劇場のレビューを撮影した記録映画である。そして、この映画の主役がジョセフィン・ベーカーだった。
おそらくこの映画は、宝塚がレビューを日本で認知させるために公開させたものだと思われる。「吾が巴里よ」以来、レビューの人気が日本で高まるにつれ、フランスのシャンソン歌手の認知度やレコードも、レビューに関係するものを中心に国内で広まっていたのではないだろうか。

なので「パリゼット」の時点では、「吾が巴里よ」のときと異なり、フランスの楽曲を受け入れる土壌が、すでに日本で整っていた。フランスのシャンソンが真の意味で日本で親しまれるようになったのは、まさにこの時であった。

では、「パリゼット」の劇中歌を見ていきたい。

「パリゼット」(Mistinguett「Parisette」1928)
「TAKARAZUKA」(現「おお宝塚」Harry Carlton「Constantinople」1928 .
フランスでは、Alibertが歌った )
「モンパルナス」(原曲不明)
「ラモナ」(Fred Gouin「Ramona」1928)
すみれの花咲く頃」(Henri Gesky「Quand refleuriront Les Lilas blanc」1929 原曲はドイツ)
「君の手のみマダム」(「Ich küsse ihre Hand, Madame」1930 ドイツタンゴ)★
「ディガ ディガ ドゥ」(Big bad voodoo daddy「Diga diga doo」)★
「あやしきは戀」(原曲不明)

★印はシャンソンではない海外の楽曲である。厳密にフランスで作られた楽曲にこだわらず、白井鐵造がパリ視察中に聴いた楽曲を盛り込んでいるのが分かるだろう。

そんな大がかりでパリの香り漂う空前絶後な「パリゼット」だが、『歌劇』を読む限り、当時の評判はあまり良くなかったようだ。このときすでに、日本の観客たちはレビューに飽きていたのである。白井のこだわりぬいた演出も、観客にしてみれば、二番煎じに見えてしまっていた。

しかし、そんななかでも評判が良かったのが、劇中歌の「すみれの花咲く頃」であった。
この楽曲は、「パリゼット」の重要なシーンで歌われてはいない。ストーリーには全く関係のないパリの街角で若いアベック(フランスなのでカップルとは言いません)が、すみれの花を買うシーンで歌われる。歌うアベックにも役名がついておらず、「男」「女」と表記され、雑誌にも彼らのグラビアは残されていない。つまりは、余分なシーンで脇役が歌うだけの楽曲にすぎないのだ。

では、なぜそのような楽曲が今なお宝塚の代表曲となっているのか。それは、「男」役の橘薫と「女」役の三浦時子のコンビネーションの素晴らしさだった。『歌劇』には、彼女らへの賛辞が並んでいる。

「橘薫の燕尾服の着こなし方が日本人としては無類であると非常な評判」
「三浦時子と橘薫のジャズの歌い手よ。賛辞と花輪と栄光とに包まれてあれ」
「三浦時子さんと橘薫さんとのコンビネーション実に素晴らしい」
「三浦時子、橘薫は快活に演っている」

もはや「パリゼット」は、脇役の三浦と橘のためにあったというような劇評だ。ちなみに「ジャズ」とあるのは、当時の洋楽が一律して「ジャズ」と呼ばれていたからで、「シャンソン」という名が定着するのは、昭和8年のことである。
三浦と橘、このふたりの活躍によって「すみれの花咲く頃」は、宝塚に歌い継がれることとなる。
(橘薫は戦後、日本で最初にシャンソンを専門に歌う歌手「シャンソン歌手」として活躍した。長崎から上京した美輪明宏の才能を見抜いて、銀巴里の専属にさせたのは彼女である。)

さらに言えば、真の意味で日本人が口ずさむようになったシャンソンは「すみれの花咲く頃」であると、私は定義する。日本人がこの楽曲をフランスのものだと理解し、かつ流行歌として広く認知されたからである。

こうして、宝塚の「吾が巴里よ」と「パリゼット」を精査することで、日本のシャンソン史の起源に一説を示すことができた。
しかし、同時に見えてくるのは「シャンソンはフランスの甘い恋のうた」という日本での認識は、「すみれの花咲く頃」から始まったという
ことである。このイメージは、「パリゼット」におけるアベックのシーン、さらには白井鐵造による宝塚のラブストーリー路線の演目から生じているのが、明白である。
昭和5年の「パリゼット」で生じたイメージが、戦後もなお長く根強く残っていたということに、私はただ驚くばかりだ。
しかし当時に比べれば、現在このイメージはだいぶ覆されていると言って良いだろう。シャンソンに「人生」を込める歌い手が増えたからである。

長いシャンソン史を振り替えれば、現在の日本のシャンソンは決して停滞などしていない。むしろ、新しいイメージへの転換期であることをきちんと意識していきたい。