シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

日本最初のシャンソンの楽譜集

「日本最初のシャンソンの楽譜集」

日本最初のシャンソンの楽譜集は、昭和13年に倉重瞬輔(舜介)さんが編集した『シャンソン・アルバム』(シンフォニー楽譜)だと言われています。
これは、菊村紀彦さんの本『ニッポン・シャンソンの歴史』のなかに、次のように記してあるからです。

「このアルバムは巴里に留学した倉重氏が、当時流行していたシャンソンを集めて一冊の本にまとめたものです。いまでは幻の名曲となった「トボガン」など、貴重なシャンソンが収められているのも氏の慧眼でありましょう」

これを信じて、私を含め、多くの音楽評論家たちが、日本最初のシャンソンの楽譜集は『シャンソン・アルバム』と書いてきました。しかし、私はこの楽譜集の存在に疑問を抱き始めました。なぜなら、この本が何年かけても古本市場で見つけることができなかったからです。

 

最近になって、倉重瞬輔さんが昭和11年に『ジャズソング特選集 vol.1』(シンフォニー楽譜)という楽譜集を出版していたことを知りました。

そして、その表紙を見て確信したのです。
そこには大きく「Paris Chanson」と書かれていたのでした。
日本最初のシャンソンの楽譜集と呼ばれるものは『ジャズソング特選集 vol.1』だったのです。

ここで、倉重瞬輔さんについて経歴を見てみましょう。
倉重さんは、山口県出身。国立音楽大学ピアノ科を卒業し、フランスに留学して作曲を学びました。その際に、シャンソンの虜になってしまいました。帰国後は、戦前日本でシャンソンを普及させるために、和製シャンソンを作ったり、来日した藤田嗣治の愛人マドレーヌに日本語でシャンソンを歌わせたり、シャンソンの評論を書いたり、戦後はシャンソンの楽団を結成したりしました。まさにシャンソン愛に燃えていた倉重さんは、2000年に亡くなっています。
倉重さんの功績は、日本に「シャンソン」という言葉を根付かせようとしたことです。彼は、ラジオでシャンソンの番組を持つことがありましたが、一般的でない「シャンソン」という言葉を使うことが許されず、辛酸を舐めておりました。そんな彼は、自分の弟子のラジオ番組を監修して「シャンソン」という言葉を使わせたりして、「シャンソン=フランスの流行歌」ということを根付かせようとしました。
そんな彼の苦労が報われるきっかけとなったのが、昭和10年のラジオ番組「日仏交歓放送」でした。フランスと日本で交互に電波を送りあって互いの文化を紹介する、という内容でした。そこで流れた(実際は雨で電波が遮断された)リュシエンヌ・ボワイエ「聞かせてよ愛の言葉を」が日本で爆発的にヒットし、日本でのシャンソンへの関心が高まったのでした。

そのような背景のなかで出版されたのが、倉重さん編集による『ジャズソング特選集 vol.1』でした。
シャンソンへの関心が高まったので、楽譜集の出版に繋がったことが推測できますが、やはり当時の日本では洋楽全般が「ジャズ」だったのが分かります。表紙に「Paris Chanson」と書かれているのは、倉重さんの小さな抵抗に思えてなりません。

楽譜集には、シャンソン16曲の楽譜とハーモニカ譜が併記されています。
楽譜の編曲は倉重さん、ハーモニカ譜は戸村豊さん、飯田忠純さんが手掛けています。また1曲ごとに訳詞もつけられています。
倉重さんは、楽譜集の前書きに、

「本集の楽譜は現在世界的の歌曲となり流行を極めて居るもので殆どミスタンゲットから唄い出されたもの」

と書いてますが、調べてみるとミスタンゲットの曲は2、3曲しかありません。当時の日本は、シャンソンといえば宝塚のレビューで、レビューといえばミスタンゲットという認識でした。これは、楽譜集を手に取りやすくするためのリップサービスでしょう。
また当時日本で人気だったラケェル・メレ「ドンニャ・マリキータ」が冒頭に収録されているのも、商戦を感じます。

ちなみに私は、収録曲を調べて分かる範囲で聴いてみました。声楽家などの音楽の素養のある人がきっちり歌い上げる印象の曲が多く、倉重さんの音楽の好みが感じられました。
なお、タイトルから調べることのできなかった楽曲が3曲ありました。私は、これらは倉重さんのオリジナル曲を内緒で混ぜたものではないかと推測しています。

楽譜集には、菊村さんの本のなかにある「トボガン(Toboggan)」という曲が収められていました。YouTubeでは、ダミアの音源が聞くことができますが、私はあまり印象に残りませんでした。
https://youtu.be/VFsiaUaEGeQ

面白いのは、「野菊可愛や(Garde-moi Ton amour)」です。ジョルジュ・ゲタリーなど複数の歌手に歌われたシャンソンらしいですが、日本では昭和8年に宝塚のレビュー「花詩集」で久美京子さんが、白井鐵造さんの訳詞で歌っているのです。
https://youtu.be/tSPO7-Vil0s
倉重さんの楽譜集には、白井さんの訳詞が掲載されています。

さらに注目したいのは、昭和9年にフランスで公開された映画「Chanson de Paris」の同名の主題歌が「巴里音頭」と訳されていることです。「Chanson=音頭」と訳したことに当時の苦心を感じます。でも、きっと倉重さんは内心嫌だったことでしょう。
モーリス・イヴェインという人が歌う「巴里音頭」は、明るくて楽しいです。いままで日本で埋もれていたのがもったいないです。
https://youtu.be/yd_i76qaif4

倉重さん編集による『ジャズソング特選集 vol.1』は、彼の音楽の好みが感じられる内容であったと言えるでしょう。
しかし私は、この『ジャズソング特選集 vol.1』よりも以前に、シャンソンの楽譜集が出版されていたのを発見してしまいました。

 

それは、昭和8年に出版された雑誌『婦人画報8月号』の付録『巴里小唄集』です。
編者の映画評論家、内田岐三雄さんが選んだシャンソン6曲の楽譜が、訳詞と共に記されています。

調べたところ、雑誌『婦人画報』では昭和7年から8年にかけて、当時流行っていた映画主題歌などの洋楽の楽譜を1枚付録にしていたのが分かりました。この『巴里小唄集』は、その豪華版のようなものなのです。
この楽譜集が作られた背景には、同年公開のフランス映画「巴里祭」のヒットがあると思います。やはりあの映画は、日本人にフランスへの憧れを植え付けたきっかけなのでした。

編者の内田岐三雄さんは、明治34年生まれで、東京帝国大学法学部卒業。映画会社のキネマ旬報社の社員で、雑誌『映画往来』の同人だったそうです。昭和5年からパリに渡ったこともあるらしい。昭和20年、空襲で死去しています。

おそらく『巴里小唄集』は、内田さんがパリで知ったシャンソンを中心に収録されていると思われます。
収録曲は6曲しかありませんが、古い民謡から、盛り場歌、ミスタンゲットのレビューの曲まで、フランスの歌謡曲を体系的に紹介している名著です。
内田さんのフランスのシャンソンのガイドブックを作ろうとする意気込みを私は愛します。

収録曲で面白いのは、「かかぁが死んだ(Ma femme est morte)」です。
これは盛り場で皆で声を張り上げて歌うような俗曲で、ベル・エポックのシャンソニエの雰囲気が感じられます。
こういう曲は、日本のシャンソンでもそろそろ歌われて良いのでは、と思っています。
https://youtu.be/n0Q6Uo7IofQ

これは訳詞も見事です。

ジャンが或る夜 家に帰ると
妻がたおれていた
思えばうるさい山の神
それがラ・ポワソン
死んじゃった

ジャンにとって妻が口うるさい「ポワソン=毒」だったことと、彼が妻を毒殺したことを暗示しているのが、素晴らしい出来映えです。
こうしたブラックユーモアが戦前からウケていたのが窺えます。

内田さんは、フランスのシャンソンについての解説も記しています。
シャンソンが、映画やレビュー、レコードからヒットしていくことや、現実的シャンソンや魅惑的シャンソンがあること、さらに下町のミュゼットが底辺にあることも論じています。
加えて、

「日本の流行歌みたいに、恋の嘆きとか涙の渡り鳥とかいった様に、退廃的であったり、めそめそしていたり、物思いに沈んでいたりばかりしてはいない。巴里の流行歌にあっては、その悲しさの品が違う。」

とも記してあり、この頃からシャンソンを通じて日本の歌謡曲を下に見る論調が存在していることも面白い。

私が、『巴里小唄集』で注目したいのは、この楽譜集が音楽家のために作られたのではなく、雑誌の付録として出版されたことです。
これは、日本の国民に広くシャンソンが歌われ、生活の娯楽となることの願いが込められているように思います。
私もまた、日本でシャンソンがプロフェッショナル、アマチュアの垣根を越えて愛唱され、末長く日本人に口ずさまれることを切に願っています。
私もシャンソンを歌いたくなってきました。