シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

昭和10年頃のシャンソン事情②

昭和10年頃のシャンソン事情
②当時人気のシャンソン歌手

先日入手した、雑誌「音楽倶楽部 パリ流行歌(しゃんそん)特集」(昭和10年7月 楽苑社)を通じ、戦前のシャンソン事情が見えてきたので取り上げてみたい。

まず見たいのは、この雑誌のタイトルである。
「パリ流行歌」と書いて、平仮名で「しゃんそん」とルビが振ってある。これは、当時の日本で「シャンソン」という名称が一般に定着する過渡期だったことを表している。
もともとフランスのシャンソンを「巴里流行歌」と訳したのは、昭和5年の宝塚のレビュー「パリ・ゼット」のパンフレットであった。そこには、

「七ツの巴里流行歌を主題にしたレビュー」

とある。この呼称が定着し、声楽家・佐藤美子さんは昭和7年シャンソンのみで構成したリサイタル「パリ流行歌の夕」を開いている。

ところで日本で最初に「シャンソン」という言葉がメディアに登場したのは、昭和9年12月9日にNHKラジオで放送された岡田静枝さんという音楽家?の番組だったと言われている(この番組については次回詳しく紹介します)。
このラジオ番組で「シャンソン・ドラマティク(原文ママ)」という言葉が使われて以来、メディアは徐々に「パリ流行歌」を「シャンソン」と呼ぶようになった。それが、この雑誌のタイトルにも表れている。

だが私の調べでは、「シャンソン」という言葉が、昭和5年にすでにメディアで使われていたのが確認できた。当時の流行歌手・佐藤千夜子のレコード「琵琶湖シャンソン」である。この楽曲の作詞者は詩人の西條八十で、昭和6年シャンソン「パリの屋根の下(Sous les toits de Paris)」を訳詞した人である。西條はフランス留学の経験があるので、フランス語の「Chanson」をカタカナに置き換えて、自分の作品に用いたのであろう。ただ、「シャンソン」を「唄」という意味だと理解できた人がどれだけいたかは不明である。

話を戻し、昭和10年7月に「パリ流行歌(しゃんそん)特集」が組まれた背景を見ていきたい。
おそらくそのきっかけは、同年の5月14日の夜に行われた「日佛交歡放送(にちふつこうかんほうそう)」というラジオ番組だったと思われる。これは、日本とフランスで国際電波を使ってそれぞれの国の放送を流すものであり、フランスから流れてきたのは、リュシエンヌ・ボワイエ(Lucienne Boyer)のシャンソンだったのだ。
前回の投稿で述べたように、昭和6年頃にボワイエのレコード「聞かせてよ、愛の言葉を(Parlez-moi d'amour)」が国内で発売されて以来、彼女の知名度は高まっており、この放送によってその人気が最高潮に達したのである。
この放送でも「聞かせてよ、愛の言葉を」は流れたらしく、パリ流行歌といえばこの曲!というトレンドが出来上がったのだろう。武満徹さんや石井好子さん、美輪明宏さんなどの戦前生まれの音楽家たちが、こぞって「聞かせてよ、愛の言葉を」を聴いた思い出を語るのは、こうした背景があった。
確かに、いま聴いても「聞かせてよ、愛の言葉を」は美しいシャンソンだ。歌い出しの「パーリ モワ ダームー」という発音も耳馴染みが良いし、ピアノとバイオリンの伴奏とボワイエの精緻な歌声は、例えフランス語が分からなくても、聴くうちに幸福感に満たされる。

その国際放送の反響を受けての「パリ流行歌(しゃんそん)特集」であるが、内容はフランスに留学経験のある音楽家たちが、パリで見聞きしたシャンソンのステージや、好きなシャンソン歌手について記した原稿を寄せている。
これを読むと、当時の日本で人気だったフランスのシャンソン歌手が見えてくる。

もちろん一番人気は、ボワイエだ。寄稿者の大半が彼女への賛辞を寄せている。
そして意外にも、その対局にいる女性歌手のマリー・デュバ(Marie Dubas)を誉める人が多かった。デュバの歌声は、耳がキンキンするようなダミ声で、まくしたてるように奔放に歌う印象だが、フランス帰りのインテリ層にとっては「パリの下町を思い起こす」ものだったらしい。言うなれば、玄人好みの歌手だったのだろう。

また、宝塚のレビュー以来、フランスのレビューの女王として知られていた、女性歌手のジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)とミスタンゲット(Mistinguett)、フランス映画「パリの屋根の下」で主題歌を歌った俳優のアルベール・プレジャン(Albert Préjean)は、安定した人気があったようだ。これはシャンソンの良さ云々よりも、知名度によるものと思われる。

さらに、当時人気が急上昇していたのがスペインからフランスに渡って活躍していた女性歌手のラケエル・メレ(Raquel Meller)だ。メレは、当時のフランスで興ったラテンブームに乗じて人気を得た歌手で、厳密には彼女はシャンソン歌手ではなくラテン歌手だ。しかし当時の日本では、フランスで発表された楽曲だから、という理由で、メレはシャンソン歌手として紹介された。そして、歌人塚本邦雄さんをはじめとする、戦前は学生だったシャンソンマニアたちがメレを信奉し、戦後の再評価に繋げている。
また、メレの人気に拍車をかけたのが、彼女の代表曲「ドンニャ・マリキータ(Dona Mariquita)」を、昭和10年淡谷のり子さんがメレに劣らない見事なソプラノでカバーしたことだった。当時の人は、日本語で歌う淡谷さんを楽曲を聴いてから、メレの原曲にハマっていったのだろう。ちなみに、これをきっかけに、淡谷さんは日本を代表するシャンソン歌手の道を歩んでいくこととなる。

そして、このとき静かにブームになっていたのが、女性歌手のダミア(Damia)だ。彼女の哀愁を帯びた歌声もまた、フランス帰りのインテリ層を中心に好まれていたようだ。
ダミアを広めたのは、先に記した岡田静枝さんだった。岡田さんがパリにいた頃にダミアのステージを観て魅了され、帰国後に自身のラジオ番組でダミアを流していたらしい。これは推測だが、昭和9年のラジオ番組で「シャンソン・ドラマティク」と称したのは、ダミアのことではなかろうか。

こうして見ると昭和10年頃のシャンソンは、ボワイエの精緻さ、デュバの喧騒、メレの南国趣味、ダミアの哀愁、とバリエーション豊かであった。しかし、やがて日本が戦争に向かっていくのにつれて、ダミアの憂いを帯びた歌声が人々の心を掴むようになったのは皮肉である。
しかしそれを経て、戦後のダミアの来日公演が催され、日本で再びシャンソンブームが起きたことを思えば、まこと歴史の巡り合わせは奇妙である。

画像は「音楽倶楽部」のグラビア。
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①上.リュシエンヌ・ボワイエ 下.ジョセフィン・ベーカー
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②右.ミスタンゲット 左.ダミア
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③右.ラケエル・メレ 左.マリー・デュバ

(次回、最終回)