シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

松島詩子とシャンソン

松島詩子シャンソン

朝の連続ドラマ「ブギウギ」の影響で、戦時下の音楽の検閲についての関心が高まっているようだ。
ドラマにも登場する淡谷のり子さんが、当時の軍部から猛攻撃を受けたことは有名であろう。
その一方で、歌手の松島詩子さんは例外的に検閲を受けたことはなかったらしい。

松島さんは、明治38年山口県で生まれた。
小学校の音楽教員を経て、流行歌手となる。そのかたわらで、声楽にも挑戦し、浅草オペラに出演したり、国際的オペラ歌手の原信子さんに師事している。
昭和12年に歌謡曲マロニエの木陰」がヒットする。
戦時中は慰問活動をし、戦後の昭和30年には「喫茶店の片隅で」がヒットした。
晩年まで歌手活動をし、平成8年に91歳で死去した。 

ところで、松島さんはシャンソンとの関わりが深い人でもある。
ひとつは、昭和13年に発表してヒットした「マリネラ」だ。
もともとはティノ・ロッシのシャンソンであるが、松島さんの自伝によれば、杉井幸一さんという大阪商船のサラリーマンがアルゼンチンのブエノスアイレス支社に勤務した際に「マリネラ」を聴いて、帰国後に自ら歌ってレコード化したのが、日本で知られるようになったきっかけらしい。
杉井さんは歌手ではなかったので、レコードは売れなかったが、そのメロディに注目したディック・ミネさんなどがカバーするようになり、やがて松島さんも歌うことになった。
松島さんの「マリネラ」は売れて「松島のマリネラか、マリネラの松島か」とまで言われたそうだ。

日中戦争が勃発すると、徐々に日本の音楽は軍歌を推奨し、戦意喪失を促すような楽曲は検閲をされてゆく。
マリネラの松島さん」もその対象になるかと思いきや、彼女は何を歌っても一切咎められなかった。
なぜなら、松島さんが出演していた浅草オペラのファンたちが政府の高官に出世していたこと、さらには師の原信子さんが旧華族とのコネクションがあったため、誰も口出しができなかったのである。
その無双ぶりで、淡谷さんも松島さんとの共演のステージでは一歩引いていたという。
松島さんは慰問活動の際も「マリネラ」を歌ったらしいが、太平洋戦争が長期間すると、徐々に華美な曲は自粛していった。

戦後、松島さんは再びシャンソンとの関わりを復活させてゆく。
それは、「松島さんにシャンソンを歌わせたい」と願う作詞家、作曲家たちによるお膳立てであった。
戦前、キングレコードのディレクターだった三上好夫さんは矢野亮という名前で作詞家、コロムビア専属歌手だった中野忠晴さんは作曲家に転身して、松島さんのために和製シャンソンを手掛けた。
自らのキャリアを転身させて松島さんに献身する彼らを見ると、彼女がいかに才気ある歌手であったかがうかがえる。

こうして、松島さんは和製シャンソン「喫茶店の片隅で」「私のアルベール」「マロニエの並木路」などのレパートリーを得たのであった。
余談だが私は「喫茶店の片隅で」をカラオケで歌うのが好きである。
https://youtu.be/qxgSXd1AZj0?si=rp_T5u3KZ5rVgzRt

そして当時、日本のシャンソン界で起こっていたのは、作曲家の高木東六さんが推奨する「日本のシャンソン運動」だ。


これは「レコード会社主導の資本主義的な歌謡曲ではない、民衆の手によって歌われるシャンソンの創出」を掲げたものであった。
高木さんの自伝を読むと、自身の代表曲「水色のワルツ」が完成した際に、専属のビクターレコードに提出すると「こんなのは売れない」と没になったことに腹を立てて会社を退職し、コロムビアレコードに持ち込んだことがあったらしい。
おそらく、その辛酸が高木さんの資本主義への闘志となったのだろう。
これを踏まえれば、松島さんが和製シャンソンを連発したのは、レコード会社による高木さんへの当て付けだったと推測できる。
結果的に、松島さんの和製シャンソンはヒットし、高木さんの「日本のシャンソン運動」は目的を果たせず自然消滅したので、まさに資本主義の勝利だ。
皮肉にも、昭和32年に開かれた松島さんのリサイタルのタイトルは「松島詩子が歌う日本のシャンソン」であった。

和製シャンソンの松島さんが、新宿のシャンソニエ「シャンパーニュ」に出演したことがあるのは驚きである。
最初はお店からの依頼で出演することにしたが、オーナーの矢田部道一さんが松島さんと同じく山口県出身で、彼の親類が教員時代の彼女の教え子だったことを知って意気投合したという。
さらに松島さんの晩年のコンサートには、シャンソン歌手の石井好子さん、高英男さん、芦野宏さん、有馬泉さん、池田純子さん等がゲストとして脇を固めていたことも分かった。

松島さんが公的にシャンソンを録音したレコードは多分ないと思われるが、実はフランスのシャンソンへの造形がある人で、ステージでは結構歌っていたのではないかと思わずにはいられない。