シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

黒田進

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「日本最初のシャンソン歌手ー黒田進」

日本で、シャンソンを専門に歌う「シャンソン歌手」が登場したのは、戦後のことである。宝塚OBの橘薫さん(昭和5年にレビュー「パリ・ゼット」で「すみれの花咲く頃」を歌った人)が、その開祖だ。そして、パリの視察から帰国したイラストレーターの中原淳一さんが「シャンソン歌手」という言葉を作り、盟友の歌手、高英男さんのキャッチフレーズとしたことで、定着した。

戦前には、シャンソンを専門に歌う歌手はまだ登場していない。なぜなら、レコード会社の業界では、外国の楽曲は全て「ジャズ」というジャンルで統一されていたからだ。レコード会社の専属歌手は、アメリカのジャズ、フランスのシャンソン、ドイツのタンゴなどを「洋楽」のひとくくりで、歌わされた。

歌手の淡谷のり子さんは自伝のなかで、昭和10年頃からレコード会社の指示で、ジャズやシャンソン、タンゴなどの洋楽全般を、ごった煮で歌わされたことを回想している。彼女の後輩歌手で、洋楽全般を歌っていたディック・ミネも、同じような状況でレコードを吹き込んでいたのであろう。
ちなみに、淡谷さんがシャンソン一筋に目覚めるのは戦後になってからだ。自身が中年を迎え、自分に合った音楽のジャンルを模索するなかで、シャンソンに行き着いたという。

しかしながら、淡谷さんよりも以前、思いがけない巡り合わせで、シャンソンを多くレコードに吹き込んでいた歌手がいた。黒田進さんである。そして彼こそ、のちに「緑の地平線」や「人生劇場」などのヒットで流行歌手として活躍した楠木繁夫さんであった。

黒田進さんは、明治37年高知県で生まれた。大正13年東京音楽学校に進学するも、学生運動に荷担したことで除籍される。
昭和4年、彼は名古屋にあったレコード会社「ツルレコード」の専属歌手となる。
ツルレコードは、大正12年に創業し、NHKラジオの名古屋支局と連動して楽曲をリリースしていた。このレコード会社の商戦は独特であった。例えば、外国映画が流行ればその主題歌、エログロナンセンスが流行ればエログロ歌謡、戦争が始まれば戦時歌謡といったように、当時の流行を追いかけた楽曲を製作していたのだった。
黒田さんが入社した頃は、外国映画が流行っていたのか、彼は映画音楽を中心に吹き込んでいる。そして、昭和6年頃に発売されたレコードの中には、シャンソンが多く含まれていた。

昭和5年公開の「掻払いの一夜(Un Soir de Rafle)」から、

・「掻払いの一夜(Albert Prejean「Si l'on ne s'etait pas connu」)」

「巴里っ子(Le Roi des Resquilleurs)」より

・「恋の巴里っ子」(Georges Milton「J'ai ma combine」)

昭和7年公開の「靴屋の大将(
Le Roi du Cirage)」より、

・「あたしゃお里が懐かしい(Y'm faut mon pat'lin)」

を吹き込んでいる。

さらに面白いのは、昭和6年公開のドイツ映画「三文オペラ(Die Dreigroschenoper)」の主題歌を2曲、翌年に吹き込んでいる。

「あいくちメッキーの唄(Moritat)」
「惚れ合った二人(Tango Ballade)」

これはシャンソンではないが、後年フランスではシャンソンとして歌われ、日本でも歌われている楽曲ので、付記しておきたい。

黒田さんの歌声は、今聴いても非常に上手い。ツルレコードは、大手レコード会社に比べればB級ではあるが、歌のテクニックが豊かな彼を看板歌手にしたことは、評価するべきだ。
こうして黒田さんは、レコード会社の方針から、思いがけず昭和一桁の頃から複数のシャンソンをカバーした最初の歌手となったのであった。

最後に、黒田さんのその後を見ていきたい。
彼はツルレコードの専属のかたわら、沢山の芸名を用いて複数のレコード会社に所属していた。昭和9年、作曲家の古賀政男さんの誘いでテイチクレコードに移籍し、楠木繁夫に改名する。そこで古賀さんの作品「緑の地平線」「人生劇場」「女の階級」などのヒット曲に恵まれた。
戦後は、ヒロポン中毒と脳溢血のため歌手活動ができなくなり引退。昭和31年、自宅で首吊り自殺をした。そのとき用いたのは、娘の縄跳びだったという。



添付画像
1.黒田進肖像

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2.ツルレコードの楽曲が収録されたCD「大名古屋ジャズ」。戦前のB級レコード会社のオムニバスアルバムは、一時期多数出ていたが、これはその中でも良作。