シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

菅美沙緒

「日本のミスタンゲット 菅美沙緒」

菅は大正5年、愛媛県生まれ。
東京で声楽家三浦環のもとで学び、昭和17年に日本歌曲のリサイタルを開いたが、シャンソンに惹かれたことがきっかけで、戦後はシャンソン歌手に転身する。
昭和22~4年にかけて3回のシャンソンのみで構成されたリサイタルを開いた。石井好子が、日向好子としてリサイタル(プログラムのなかにシャンソンが数曲入ったもの)をひらいたのが昭和23年であったことから見て、菅が早くシャンソンに注目していたのが分かる。
昭和25年には、創学社で出版された日本最初のシャンソン楽譜集『シャンソンアルバム』で訳詞を担当した。
その後は、産経会館という場所でシャンソン教室を開いた。教室を開いたのがいつ頃なのか特定はできなかったが、昭和32年出版の『シャンソンの為に』にではすでに紹介されていた。この教室が、現在多くあるシャンソン教室の元祖である。のちに菅は、京都国際ホテルをはじめ、関西を中心に教室を持ち、関西のシャンソン業界で影響力を持つこととなる。
菅の教え子のなかには、現在活躍する出口美保(一番弟子)や、佐竹律香、ワサブロー、ファドの月田秀子などがいる。とある方が教えてくださったのだが、菅と教え子たちは、かつて京都にあった高級クラブ「ベラミ」に出演していたそうだ。「ベラミ」は、ここでショーをやれば一流歌手と言われた店である。菅の関西での知名度の高さが伺える。
平成12年、没。現在はフランスのモンマルトルに眠っている。

よく知られているのは、訳詞者としての菅であろう。
先にも述べたように、菅は昭和25年にシャンソン楽譜集『シャンソンアルバム』(全七巻 創学社)で訳詞を行った。
創学社は、社長の内田和男がシャンソン好きだったことからシャンソンに関する書籍を多く出版していた。
この『シャンソンアルバム』に収められた「桜んぼの実る頃」、「待ちましょう」などは、菅の代表的な訳詞である。
この楽譜集の出版によって、日本語のシャンソンが広く普及し、現在まで歌い継がれているのだ。
また昭和32年には、水星社という出版社で多くの楽譜の訳詞や編集を行っている。ちなみに水星社では社員が「水野汀子」というひとつのペンネームを共有していた(ビクターレコードの「音羽たかし」と同様)そうなので、どこまでが菅の仕事なのかが判別できないのではないだろうか。ちなみに、水星社の出版物には、訳詞家の薩摩忠や岩谷時子らが協力していた。

歌手としての菅は、蘆原英了いわくイボンヌ・ジョルジュに惚れ込み、彼女の生涯をミュージカル化して主演したことがあるという。
また蘆原は彼女のことを「この人は頑固な感激家で、一度シャンソンに惚れたらテコでも動かず、シャンソン一筋の道を歩んでいる。そして金銭的にはほとんど恵まれていない」と皮肉めいた評をしている。
そんな菅の歌声を収めたのが、『幻のシャンソン歌手 菅美沙緒 絶唱』(昭和49年)である。
音源は「これより菅美沙緒リサイタルを上演いたします」というナレーションからはじまるが、録音日や会場名が記されていない上、拍手の音が後付けされたように不自然に入っていることから、実況録音風に作られたもののように思われる。
レコードを企画した「京都音楽文化協会」の理事長・白石瑛笥は「レコード化について菅を説得すること、十数年、ここに私の夢は実現しました」と述べている。どうやら菅はレコード化については乗り気ではなかったようだ。

そのような状況で制作されたレコードだが、内容は大変素晴らしい。
まず菅の歌声は、ミスタンゲットの歌声によく似ていて、戦後まもない頃に発声法に頼らない独自の世界観を持った歌手がいたことに驚愕した。戦前のパリの雰囲気、というより当時の人々がシャンソンを聴いて空想したであろうパリの雰囲気が目に浮かぶのである。
また歌われた曲の大半は菅の訳詞で、吉田博のピアノに合わせて堂々と歌声を披露している。

最後にレコードのなかで菅が言った言葉を引用したい。
「歌の行き着くところは人間。自分の歌声で自分を表現することが大切。そういう意味で私はベコーを尊敬します」
このリサイタル?の最後の歌(アンコール前)はベコーの「そして今は」(菅の訳詞)であった。