シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

中原美沙緒

「お姉さんの歌 中原美沙緒」

日本シャンソン協会では、毎年この時期にシャンソン界に貢献した人物に「プリスリーズ」という功労賞を授与している。
私はこの「プリスリーズ」には関心があるのだが、これまで受章された人々は、シャンソンが好きだという人たちのなかでどのくらい知られているのだろう?という疑問を以前から感じていた。事実、私自身「プリスリーズ」の歴代受章者の一覧表を見て、はじめて名前を知ったという方もいた。
この「プリスリーズ」受章者の経歴や功績を調べ、記事にし、紹介してみたいと常々思っていたが、今年の受章者が歌手の中原美沙緒だと先日発表されたので、早速執筆してみようと思った。

中原美沙緒(なかはら みさお)
1931年(昭和6年)生まれ
東京芸大声楽科在学中、友人が聴かせてくれたジュリエット・グレコのレコードでシャンソンを知る。その後、中原の叔父にあたるイラストレーターにして高英男とともに戦後日本にシャンソンを普及させた訳詞家の中原淳一がコレクションしていたシャンソンのレコードを聴き、のめりこんでゆく。
1955年(昭和30年)にキングレコードから「パリのお嬢さん」をリリースし、ヒットする。当時は淳一プロデュースのシャンソンのテレビ番組が放送されており、中原も淳一デザインの衣装を着て出演し、アイドルシャンソン歌手として人気を博した。
その後は子育てや病気により、休業と復帰を繰り返しながら活躍した。
1997年(平成9年)病没。

私がはじめて中原美沙緒の歌を聴いたのは「それいゆ シャンソンベストアルバム」というCDであった。中原淳一の訳詞作品を歌う高英男の音源を中心に、同時期に活躍した岸洋子や丸山明宏の音源を収めたものであったが、1曲だけ中原の「ひまわり」という曲(映画「ひまわり」のメロディーに詞をつけたもの)が収められていたのである。
中原の歌声は他の歌手とは全く違う、少し年の離れたお姉さんのシャンソンという印象で、当時学生だった私の心を鷲掴みにした。今にして思えば、中原の声は雪村いづみの声に似ている。中原の顔を見たことがない当時の私は、三人娘時代の雪村いづみの清楚でありながらも垢抜けたルックスを無意識に重ね合わせていた。後に調べてみると、中原もまた雪村と同じくチャーミングなルックスであった。

私が持っている中原のアルバムは一枚のみ。
芸能生活35周年リサイタルを収めたアルバムだ。どうやらこのアルバムは一部の店でしか販売されなかったそうだ。ちなみに私はヤフオクで買った。
このアルバムは見事な出来映えである。若い頃の声量は健在で、聞き応え充分だ。また中原がセットリストの半分の曲をフランス語で歌っているのも興味深い。MCで「私は変わらなければならないと思い、頑張った」という主旨の発言をしていることから、アイドル歌手のイメージから脱却するための努力をしたのだと思われる。
このアルバムで一番好きな曲は「君を待つ」だ。中原は若い頃に「パリのお嬢さん」「河はよんでいる」「フルフル」「夜は恋人」といったヒット曲を出してそれが代表曲と言われているが、私は彼女の晩年の代表曲に「君を待つ」を挙げてよいと思う。歌詞にある「野性美、溢れる 体の恋から」というフレーズを清楚な「お姉さん」が歌うと、とてつもなくエロティックなものになる。
YouTubeに、「パリ祭」で中原が「君を待つ」を歌う映像があるのでぜひ聴いてもらいたい。

中原のファンはいまだに根強く沢山いるようだが、今回の「プリスリーズ」で彼女の評価が一層高まればよいと思う。2枚組ベストアルバムなど発売されるきっかけになれば、なお嬉しいのだが。

五十嵐顕男

劇的シャンソン ー訳詞家・五十嵐顕男

最近、五十嵐顕男訳の「愛は君のよう」を歌う機会があった。
アダモの「愛は君のよう」は、日本では真咲美岐の「暗い日々のなかで…」から始まる訳詞が有名だが、五十嵐のは若い男が主人公の原詞からかけ離れた内容になっている。しかし、その内容は日本のシャンソンのイメージそのものの世界観、かつ若い男視点の訳詞があまりないので、気になる作品ではあった。
彼の訳詞作品には、もう一曲よく知られたものがある。「街角のアヴェマリア」だ。水夫たちにとって娼婦たちが港のマリア様、という日本のシャンソンらしい内容である。この曲も原詞とはかけ離れた内容である(もともとはレイ・チャールズに贈られた演奏のみの曲らしい)。
おそらく五十嵐は、曲名だけ見て歌詞を創作したのであろう。彼ほど型破りな訳詞家も珍しいが、その作品は魅力的であり多くの歌手に歌われている。

五十嵐の経歴について調べてみた。
1943年(昭和18年)福島県出身。家は貧しい石材屋だった。小学生のときに学校の先生から「出エジプト記」を聞かされ、キリスト教に興味を持ち、上智大学神学部にすすむ。しかし、徐々にギリシャ正教に惹かれるようになり中退。以来、ホテルマンをしながら演劇を学んでいた。

この頃、五十嵐は堀内環のもとでシャンソンを学び、シャンソニエ「蛙たち」に出演していた。このあたりは佐野加織さんのホームページに詳しい。
おそらくは、上記の訳詞もこの時期にしたものと思われる。曲名から歌詞を創作したのは、演劇の影響があったと見て良いだろう。

76年(昭和51年)にギリシャに渡り、舞台監督として活躍する。
彼のギリシャでの活躍ぶりは、JALの機内誌「Agora」に取り上げられている。それによれば、彼は打ち捨てられた古代ギリシャの劇場の遺跡で演劇公演を行っていた。打ち捨てられているとはいえ、遺跡を使用した公演を行うには毎回役所と衝突を繰り返して、様々な障害を乗り越えて実現させていた。
古代ギリシャにおいて花開いた芸術や文化は、長い年月を経てシルクロードを伝わり、アジアの最東端である日本へとたどり着いた。そして、日本国内で熟成し、現在の日本文化と呼ばれるものになっている。だから決してギリシャにとって異質な文化ではなく、共通性が沢山ある」
という信念のもとで、ギリシャの遺跡で日本の伝統芸能を基調にした内容の公演を催し、日本とギリシャの文化の架け橋として紹介されている。
また、ギリシャ出身の作家・小泉八雲ギリシャで知られていないため、彼の記念館設立にも奔走した。

2014年に五十嵐は帰国、翌年都内の病院で死去した。

シャンソン歌手のなかには今でも彼のことを覚えている人がいて「これからって時にギリシャに行ってしまって…」と回想するのを何度か聞いたことがある。
シャンソンの歴史のなかに埋もれてしまった人々を訪ねるのが、私の役目のような気がしてならない。

ところで、五十嵐の訳詞は上記の2曲しか見つけることができなかった。他にもあるのだろうか。

ビショップ節子

ビショップ節子

昭和30年代くらいのシャンソンの資料を見ていると、よく目にするのがビショップ節子という女性歌手の名前である。

ビショップ節子
昭和3年、市ヶ谷生まれ。旧姓は桑原節子
東京音楽学校声楽科を卒業しオペラ歌手を志す。
その後、画家のビショップ英郎と結婚し、昭和26年に当時の日本最大のタンゴバンドだった東京シンフォニックタンゴオーケストラのリーダー・北村維章のすすめでシャンソンの道に進む。
以来、シャンソニエやNHKシャンソン番組に出演し、シャンソン界の第一線で活躍した。
平成8年没。

私は彼女の歌声をいままで聴いたことがなかったが、先日1枚のソノシートを入手した。
昭和38年に発売された「思い出のヒット曲集」というもので、ビショップ節子、木原エイ子、尾崎チエの3人が洋画の主題歌やアメリカンポップスを吹き込んでいる。ちなみに、木原、尾崎については経歴を調べることはできなかった。
ビショップは「Tonght」という曲を歌っている。これは映画「ウエストサイド物語」の挿入歌だ。
歌声は、声楽の発声に裏打ちされた当時のシャンソン歌手の典型的なものであり、期待?通りである。しかしながら、高音に何かねっとりとした癖があり、それが彼女の持ち味だったのだと思われる。

昭和30年代のシャンソン関係の資料には頻繁に名前が登場する彼女だが、それ以降は名前が見当たらなくなり今ではすっかり忘れ去られた存在となっている。
彼女はシャンソンブームが下火になり、死去するまで何をしていたのだろうか。

高毛礼誠

鉄人・高毛礼誠

前回のビショップ節子同様に、昭和30年代のシャンソンブーム以降、消息が分からない歌手がいる。
高毛礼誠(たかもれ まこと)なる人物だ。

彼は、昭和30年に東京芸大の声楽科卒業後、シャンソン歌手として銀巴里でデビューした。当時のシャンソン歌手といえば、岸洋子のように声楽の道に挫折してシャンソン界に転身する歌手が多いイメージがあるが、彼のように声楽科からシャンソン界への一本道を歩んだのを見ると、当時はシャンソン歌手という職業がある意味人気だったのが推測できる。
テレビやラジオ、シャンソンのレビュー(現在の音楽フェス)にも多く出演した記録がある。
当時は「さようなら」「カナダ旅行」「小雨降る径」「花まつり」などをレパートリーにしていたらしい。
当時の資料を見ると高毛礼の評価はどれも高く、今も活躍する音楽評論家の安倍寧は「くせのない声質が特徴…歌謡曲もよくこなす」と記している。(「日本のシャンソン界展望」浅野信二郎と共筆)

そんな高毛礼の歌声をYouTubeで発見した。
彼は実写ドラマ「鉄人28号」の主題歌を歌っており、そのオープニング映像が残っていたのである。
それを聴いて、私が思い浮かんだのは東海林太郎であった。
「くせのない声質、歌謡曲をよくこなす」のは当然で、彼の歌声は歌謡曲向きそのものである。
彼の肖像と照らし合わせながら歌声を聴くと、生真面目に鉄人のごとくステージに立っている姿をイメージしてしまう。

戦前に人気歌手だった東海林太郎が懐メロ歌手として括られてしまったのを考えると、高毛礼がシャンソンブームが去ったのちにシャンソン界からフェードアウトしていったわけを察せずにはいられない。
なお彼の消息や、「鉄人28号」の主題歌以外の曲はソフト化されたのか、というのは調べることはできなかった。

許せぬ記事

「アサ芸プラス」というニュースサイトに、露口正義なる人物が書いた記事が投稿された。
俳優・松村雄基がシャンソンライブを開くが、それは彼が同性愛者であるのをカミングアウトすることに他ならない、というのだ。その理由は、「日本のシャンソンはゲイとの結び付きが強いから」、「松村がシャンソンを歌うのを勧めたのは、新宿2丁目のシャンソン歌手だから」だという。
この記事が、「男性がシャンソンを歌えば同性愛者である」という偏見に満ちているのは明らかである。しかしながら、男性シャンソン歌手に対する世間のイメージもまたこのような偏見のもとにあることも同時に分かるのである。

たしかに、日本のシャンソン歌手のなかには自身のセクシャリティーと公言して活躍している者がいるし、自身のセクシャリティーを表現するツールとしてシャンソンを歌う者もいることだろう。しかしながら、彼らをそのまま男性シャンソン歌手全体のイメージに結びつけるのは早計である。
そもそも、松村は新派の舞台にも客演する俳優であり、歌舞伎役者の坂東玉三郎しかり、芸の幅を広げるためにシャンソンに関心を示すのは至極当然のような気がする。記事を書いた露口は、シャンソン界に「文学座」などの劇団に所属しながら歌手活動をする者が数多くいるのを知らないのである。
また松村にシャンソンを勧めたという「新宿2丁目のシャンソン歌手」とは、ソワレのことだと思われる。ソワレは、歌手としてだけでなく越路吹雪の研究家としても知られ、後進の歌手の育成もしているらしいが、彼は「シャンソンは自身の同性愛をカミングアウトするのもの」とは説いていないだろうし、そのようなことを述べた文献等も調べたかぎり見つけられなかった。

この記事の根底にあるのは、「男らしさ、女らしさ」という性差別である。きっと、日本のシャンソンは「女らしい」音楽であり、それを男性が歌うのは奇異に見えるのだろう。歌謡曲の世界では、男性歌手が「女心を歌う」と称して歌っても何もニュースにならないにも関わらずだ。
しかしながら、日本において歌謡曲は作詞、シャンソンは訳詞の音楽であることは認識しなければならない。女性歌手のために書かれた訳詞がたまたま広く知られて、それを男性歌手もその歌詞まま歌ってしまっている現状が「女らしさ」のイメージを助長している可能性もありうるのである。フランスの原詞をもとに、その歌手の身の丈にふさわしい訳詞を模索することができるのが日本のシャンソンの魅力であり、その歌手のアイデンティティの創出にもつながるはずである。歌手は歌詞を通じて、自己を模索する作業をたゆませてはならない。

最後に、私は松村のシャンソンを是非とも聴いてみたいと思っている。記事にある彼のパートナーだという氷川きよしシャンソンに興味を示しているようだし、二人で「恋は何のために」(エディット・ピアフ×テオ・サラポ)を歌ったら素敵ではないだろうか。
ただ彼らがステージを立つときには、穿った見方ではなく純粋な音楽を楽しむ目で見ることができるように世間の認識が変わっていることを切に願う。

森繁久彌

森繁久彌のアルバムを手に入れた。「詩の旅路」というLP二枚組である。
「春夏秋冬」をテーマに、叙情歌、戦時歌謡、寮歌、オリジナル曲を収めている。とはいえ、単純に「春なら春の歌」というわけではなく、「人生の春だった幼少期」「人生の夏だった青春期」という風に、それぞれの時期に森繁が愛唱した歌を配しており、森繁の人なりが見える構成だ。

ところで、森繁は昭和30年代頃にシャンソン歌手として紹介されていた。調べてみると、森繁の代表曲「銀座の雀」の作詞者・野上彰が関係していた。野上は、囲碁の指導者として知られているが、シャンソンに精通しており、訳詞やシャンソンを意識した自作の詩を発表した。
森繁は、野上が脚本を担当したNHKラジオの「愉快な仲間」という番組を通じて深交を結ぶ。「銀座の雀」は二人が居酒屋で飲んでいる際に、野上が酔興で部屋の壁に殴り書きした即興詩に曲がついたものだった。この曲のヒットで森繁は芸能人として大成していった。
また野上は、当時関東を中心に活動していたシャンソンの愛好会「東京シャンソン協会」の会長だったことから、協会主催のイベントに森繁を出演させる。そこで森繁は野上の詩を歌ったり朗読したことで「庶民の哀歓をじかに歌に盛り込み歌い上げるという点で、真のシャンソン歌手」(浅野信二郎・安倍寧「日本シャンソン界の展望」)と評された。これを見ると、森繁はフランスのシャンソンをうたう歌手というより、シャンソンの影響を受けて作られた日本の曲をうたう歌手として評価されていたのがわかる。

それは、このアルバムからも見てとれる。このレコード各面冒頭には、森繁自作の詩の朗読が入っているが、そのバックでピアノ演奏をしているのが松井八郎である点は特筆すべきである。松井は、ジャズピアニストでありながら、シャンソンの影響を受けた曲を沢山作り、芦野宏や橘かおるなどのシャンソン歌手にそれを提供している。また、越路吹雪の初期専属ピアニストでもあった。そんな松井が森繁の詩の朗読に合わせて、その世界を音で表現する。これはまさに、日本のシャンソンを意識した構成だといえる。
森繁といえば、俳優・歌手だけでなく「日曜名作座」などの名人芸ともいえる朗読でも知られるが、彼のなかにシャンソンへのリスペクトがあったことは今後注目しなければならないだろう。

「銀座の雀」は銀巴里では、くどうべんが歌っていたが、このアルバムに収めている「銀座の雀」を聴くと森繁の歌にはまた違う味がある。地面が未舗装で通りに柳が生えていた戦後間もない私の知らない銀座の風景が描かれたこの歌は、そこで生きた男たちの凱歌だったといえるだろう。

シャンソワレ

先日閉店したライブスペース「サラヴァ東京」のプロデューサーであるソワレと、店に出演していた若手歌手によるシャンソンのアルバム「シャンソワレ」が発売された。
収録されている曲は、越路吹雪の研究家でもあるソワレのセレクトらしく彼女のレパートリーだった曲や、加藤登紀子なかにし礼の訳詞のものが多い。
歌い手を見ると、俳優の三浦浩一、昨年心ないライターから「ゲイだからシャンソンを歌うのだろう」と誹謗された松村雄基、定期的にヴィジュアル系の歌手を集めてシャンソンライブを開いているKaya、新宿で歌謡曲を歌うギャランティーク和恵、日本シャンソン協会主催の若手シャンソンコンクールで今年の決勝に残ったセニョリータとも夜などが集っている。また鈴木結女が大曲「カルーソ」を布施明訳「慟哭」で挑戦するなど、なかなか骨のあるアルバムだ。
松村の「ラ・ボエーム」は、俳優らしく情感がこもっているのが気に入って何度も聴いているが、このアルバムの最も素晴らしいのは、歌詞カードに寄せられたソワレによる「序文」である。彼がシャンソンを好きになって歌手になり、若者たちとシャンソンを歌うようになったまでの遍歴が書かれている。「シャンソンは素晴らしい」という信念と「可能性ある若者に受け入れられなければこのジャンルは死んでしまう」という危機感を抱えて、ひとつの音楽シーンを作り上げるまでの彼の道のりは私の胸を打った。

思えば、シャンソン界は若者不足を嘆くばかりで、彼らのようなシャンソンに関心を持つ若手歌手たちの存在に気づいてこなかったのではないだろうか。かつての「銀巴里」のように新人歌手の登竜門のような店もなく、各協会が主催するシャンソンコンクールが新人発掘の場である現状では、協会=シャンソン界になってしまうのは仕方ないことだ。しかし、インターネットを使えばライブやアーティストの情報を得ることができる。何よりも、日本のシャンソンには様々なカタチがあってしかるべきことを認めていかなければならない。オールドファンと若者が好むシャンソンのスタイルは異なって当然だ。様々なスタイルに溢れたシャンソンから好きなものを選ぶのは、我々聴衆なのである。
私は、シャンソン界を狭い視野ではなく広域に俯瞰して捉える目をきちんと持ち、様々な音楽スタイルが生まれることを認めていきたい。