シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

許せぬ記事

「アサ芸プラス」というニュースサイトに、露口正義なる人物が書いた記事が投稿された。
俳優・松村雄基がシャンソンライブを開くが、それは彼が同性愛者であるのをカミングアウトすることに他ならない、というのだ。その理由は、「日本のシャンソンはゲイとの結び付きが強いから」、「松村がシャンソンを歌うのを勧めたのは、新宿2丁目のシャンソン歌手だから」だという。
この記事が、「男性がシャンソンを歌えば同性愛者である」という偏見に満ちているのは明らかである。しかしながら、男性シャンソン歌手に対する世間のイメージもまたこのような偏見のもとにあることも同時に分かるのである。

たしかに、日本のシャンソン歌手のなかには自身のセクシャリティーと公言して活躍している者がいるし、自身のセクシャリティーを表現するツールとしてシャンソンを歌う者もいることだろう。しかしながら、彼らをそのまま男性シャンソン歌手全体のイメージに結びつけるのは早計である。
そもそも、松村は新派の舞台にも客演する俳優であり、歌舞伎役者の坂東玉三郎しかり、芸の幅を広げるためにシャンソンに関心を示すのは至極当然のような気がする。記事を書いた露口は、シャンソン界に「文学座」などの劇団に所属しながら歌手活動をする者が数多くいるのを知らないのである。
また松村にシャンソンを勧めたという「新宿2丁目のシャンソン歌手」とは、ソワレのことだと思われる。ソワレは、歌手としてだけでなく越路吹雪の研究家としても知られ、後進の歌手の育成もしているらしいが、彼は「シャンソンは自身の同性愛をカミングアウトするのもの」とは説いていないだろうし、そのようなことを述べた文献等も調べたかぎり見つけられなかった。

この記事の根底にあるのは、「男らしさ、女らしさ」という性差別である。きっと、日本のシャンソンは「女らしい」音楽であり、それを男性が歌うのは奇異に見えるのだろう。歌謡曲の世界では、男性歌手が「女心を歌う」と称して歌っても何もニュースにならないにも関わらずだ。
しかしながら、日本において歌謡曲は作詞、シャンソンは訳詞の音楽であることは認識しなければならない。女性歌手のために書かれた訳詞がたまたま広く知られて、それを男性歌手もその歌詞まま歌ってしまっている現状が「女らしさ」のイメージを助長している可能性もありうるのである。フランスの原詞をもとに、その歌手の身の丈にふさわしい訳詞を模索することができるのが日本のシャンソンの魅力であり、その歌手のアイデンティティの創出にもつながるはずである。歌手は歌詞を通じて、自己を模索する作業をたゆませてはならない。

最後に、私は松村のシャンソンを是非とも聴いてみたいと思っている。記事にある彼のパートナーだという氷川きよしシャンソンに興味を示しているようだし、二人で「恋は何のために」(エディット・ピアフ×テオ・サラポ)を歌ったら素敵ではないだろうか。
ただ彼らがステージを立つときには、穿った見方ではなく純粋な音楽を楽しむ目で見ることができるように世間の認識が変わっていることを切に願う。