シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

柴田睦陸 由利あけみ

琥珀の虫が羽ばたくとき」

先日、珍しいレコードを手に入れた

A面 柴田睦陸「ラ・クンパルシータ」
B面 由利あけみ「シボネー」
演奏 櫻井潔と其の楽団
(昭和14年 ビクターレコード)

声楽家が歌うタンゴとラテンのレコードである
「ラ・クンパルシータ」は前の持ち主が聴き込んだようで盤がすり減っていたが、何回かリピートしてようやく聴き取ることができた

柴田睦陸は、大正12年に岡山で生まれた
昭和10年東京音楽学校在学中にポピュラー歌手としてデビューした
戦後は声楽家として、二期会の創設に関わった
ちなみに、昭和30年の「第六回紅白歌合戦」に、「ラ・クンパルシータ」で出場している
昭和63年、病没

由利あけみは、大正2年に広島で生まれた
東京音楽学校卒業後、昭和11年にポピュラー歌手としてデビューする
デビュー当時はアルトで歌っており、「東洋のダミア」と称されたそうだが、実際は幅広い音域で作品を発表している
当時人気だった淡谷のり子に対抗するため、ブルース調の曲を高いキーで歌っている
この「シボネー」も、キーが高めで淡谷を想起させる歌い方であった
昭和14年に「長崎物語」がヒットし人気を得るが、後年、結婚を機に歌手を引退する
ちなみに数年前に発売されたCD「日本シャンソンの歴史」には、由利の「人の気も知らないで」が収録されていた

柴田と由利が歌う外国のポピュラーソングを聴くのは初めてで、その質の高さに驚かされる
声楽を学んでいたから、という理由だけでなく、自分の歌い方をよく理解して、ポピュラーソングを我が物にしている印象がある
しかしながら、東京音楽学校に通いながらポピュラー歌手に転向するのは、当時かなり大変なことだったのではないだろうか
例えば、淡谷のり子東京音楽学校を首席で卒業するも、ポピュラー歌手になったため除籍されてしまった。
声楽を学んだ者が平民の俗曲(ポピュラーソング)を歌うのは卑しいこととされ、特に東京音楽学校はその風潮が強かったそうだ
柴田や由利の頃は、こうした風潮は緩くなっていたのだろうか
だが、私は声楽からポピュラーに転向した当時の歌手たちが、琥珀の中から羽ばたいた蝶に見える
美しい殻に閉じ籠る日々を棄てて、外の世界に脱出して羽ばたこうとする蝶は力強い
今なお、彼らのポピュラーソングが色褪せないのは、逆境のなかで自分の歌を模索し探求した成果なのである

ちなみに、この2曲を演奏している櫻井潔は日本にタンゴを普及させた草分け的な存在で、当時ブームだったダンスホールで演奏していた
バイオリンを弾いて楽団を率いるのは、バルナバス・フォン・ゲッツィの影響だろうか
興味深い人物である
また、「ラ・クンパルシータ」は原一介、「シボネー」は佐伯孝夫が訳詞しているが、いずれも意訳、創作であるらしい

画像は、「ラ・クンパルシータ」、「シボネー」のレコード、ジャケットに印刷された柴田睦陸の肖像

01年 パリ祭

「一枚の写真から紡ぐ縁 第39回パリ祭(2001)」

昔、ある方から写真をいただいたことがある。写真の下には「01 07 14」と記されている。2001年、第39回パリ祭のときの写真である。
中央には、芦野宏石井好子、深緑夏代、高英男がいる。横にはムッシュかまやつ山本リンダ。しますえよしおに新井英一、永六輔…この素敵な女性は誰だろう…。
私はこの写真を眺めながら、まだ見ぬ、そしてもうその姿を見ることが叶わない歌手たちが立つパリ祭のステージをいつも空想していた。

私の思いが天に届いたのだろうか、最近知り合った方から「昔テレビ放送した01年のパリ祭の映像をご覧になりませんか?」とお誘いを受けた。「えっ?それってまさか…」。写真を取り出して確認すると間違いない、いつも眺めていたパリ祭のステージだ。それを映像で見れるなんて…。テレビ画面に映し出される「パリ祭」の文字。ついに私は憧れていたパリ祭を目の当たりにすることとなったのである。

【セットリスト】

石井好子・深緑夏代・芦野宏「パリの橋の下」
この大御所三人から幕が開く。三人の貫禄すらかんじる歌声、姿に胸が熱くなる。

永六輔と桑山哲也「おしゃべり」
永の声が懐かしい。桑山とふたりでピエロの格好をして「春が来た」を歌うのが楽しい演出だ。

・畠山文男ほか6名「私はパリっ子」
・古坂るみ子「街の舞踏会」
・モンデンモモ「ムーランルージュの唄」
・水織ゆみ「祭りは続く」
・パトリック・ヌジェ「ルナパーク」
・岸本悟明「ブラボークラウン」
初っぱなからベテラン勢が魅せる。ブラボークラウン、は男性が歌うのをはじめて聴いた。

・小海智子「街に歌が流れていた」
・有光雅子「サンジャンの私の恋人」
二人とも鬼籍に入られた方だ。小海は若い頃のレコードと変わらずチャーミングさと深みをたたえ、有光は迫力のある歌声を披露していた。

・石井祥子「群衆」
青木裕史「ピギャール」
・宇野ゆう子「夜は女の匂い」
三人とも色気のあるステージアクションでとても素敵だった。

マーサ三宅「メランコリー」
山本リンダ「私の回転木馬」「パリ祭」
マーサはジャズ、リンダは歌謡曲で他ジャンルから出演している。しかしながら、ふたりの歌唱力は本物であった。

・神戸市混声合唱団「花祭り
芦野宏「ワインで乾杯」
・荒井洸子「ラ・ミュージシャン」
・堀内環「収穫の秋」
青木裕史、広瀬敏郎、伊東はじめ「頭にいっぱい太陽を」
・仲マサ子「ジャバ」
荒井、堀内、仲は古くから銀巴里で歌っていた歌手であり、大きなステージでもその存在感は健在である。また青木、広瀬、伊東の三人組は89年に結成された「サンクオム」のメンバーで、歌って踊る姿がとても爽やかだ。

石井、マーサ、リンダ「薔薇色のサクラと白いリンゴの木」
この三人のデュエットは珍しいし、大変面白い。またステージではドレスのイメージがある石井が、ターバンにパンツルックというのが新たな一面であった。

新井英一「アムステルダム
田代美代子「初めての日のように」
しますえよしお「さくらんぼ実る頃」
新井は非常にかっこいい。石井がパリ祭のステージに出演するのを依頼し、自身のアルバムにもデュエットを吹き込んでいる。田代は「愛して愛して愛しちゃったのよ」のイメージが強いが、元々は石井好子音楽事務所専属のシャンソン歌手。しますえは、優しい歌声で会場を包み込むような印象を受けた。

欧陽菲菲「フィーリング」
ムッシュかまやつ「ラメール」
梓みちよ「愛してる」「青春の決算」
欧陽菲菲ムッシュは英語で歌っていた。ちなみにムッシュの父、ディープかまやつは若い頃の石井のバンドをつとめていた。梓は、「リリーマルレーン」以外のシャンソンを初めて聴いたが、アグレッシブなステージだった。

芦野「ア・パリ」
石井「行かないで」
高英男オペラ座のダンサー」
深緑「パリ・パナム」
この四人は別格。芦野の話すように、だがドラマティックに表現する歌声。石井のブラックホールのように世界を包み込んでしまうような存在感。高の晩年の傑作であるこの曲を、薔薇のような衣装を纏って歌う気高さ。深緑の宝塚のレビュー仕込みの華やかなステージ。全てが感無量だった

石井好子と出演者「二人の恋人」
エンディングで高がゆっくりと現れ、最後に石井、芦野、深緑、高で手を繋いでステージ前に出て礼をするシーンを見て、日本のシャンソンはこの四人によって創られたのだと実感した。

永登元次郎

「ヨコハマ・元次郎」

先日、Facebookで知り合った方からシャンソン歌手、元次郎(がんじろう)のCDを頂戴した。この場を借りて御礼申し上げます。
元次郎のシャンソンYouTubeで聴いたことがあり、とても気に入っていたのだが、CDが廃盤である上にプレミアがついてしまって、なかなか手に入れることができなかった。今回のCDは私の研究のためにとお譲りくださったものなので、その思いにしっかりと応えようと思います。

元次郎は、永登元次郎という名前でも活躍したシャンソン歌手。台湾で生まれ、神戸で育つ。幼少期は母と妹の三人で貧しい暮らしをしていたという。
転機になったのは、小学生のとき母が他の男と
同衾するのを目撃し、彼女を「パンパン!(売春婦のこと)」と罵ったときだ。彼は、母と自分が力を合わせて暮らしてきたのに、という思いがあったゆえだったそうだが、このことがきっかけで、中学に進学した際は別れた父親のもとで生活するようになる。
中学卒業後、上京。元来、彼は同性愛者であったことから、生活費がなくなると女装をして男相手に売春をしていた。そのことは、いそのえいたろう『性人伝』に詳しい(この本もCDと一緒に頂きました)。
その後、横浜で自身のゲイバーを開店する。その頃に日本舞踊や長唄などの芸事を習うようになった。
彼がシャンソンに目覚めたのも、その頃ではないかと思われる。金子由香利のシャンソンに惹かれて、昭和57年に深緑夏代のもとでシャンソンを習い始める。翌年に神奈川県民ホールで500人の観客を集めてリサイタルを開いた。
このとき、元次郎はメリーさんとはじめて出会うこととなる。メリーさんは、横浜で外国人相手に売春をしていた女性で、全身真っ白の衣装とメイクをして歩いていたことから、横浜でよく知られた存在であった。
元次郎がリサイタルの当日に会場入りする際、ホールの入口でポスターを眺めているメリーさんを見て、「よかったらいらしてくださいね」と言って、チケットを渡した。すると、メリーさんはリサイタルを鑑賞し、元次郎に紙袋に入ったプレゼントを渡したのである。その瞬間に、会場から大きな拍手が沸き上がった。メリーさんはそれだけ横浜の有名人であったのだ。以来、元次郎はメリーさんに生活費の援助などをし、交流を深めて行く。
映画「ヨコハマ・メリー」は、突然横浜から消えたメリーさんの消息を追う内容であったが、同時に元次郎の生きざまを取材した内容にもなっている。この映画の取材中、元次郎は末期ガンを患っていた。彼はメリーさんについて「メリーさんから「私はパンパンをやってましてね」と言われたとき、頭がガーンとなった」と述べている。パンパン、は自分が母を罵った言葉だ。彼はメリーさんを通じて、母に対する贖罪をしたのではないかと思う。
映画のラストでは、メリーさんが老人ホームに入所していることが分かり、元次郎が慰問コンサートをする。このとき歌ったのが「マイウェイ(岩谷時子訳)」だ。「私は私の道を行く」という歌詞が、元次郎とメリーさんの人生とオーバーラップして、素晴らしかった。
映画には、元次郎が自身のシャンソニエ「シャノワール」で歌う姿が収められ、DVDには自身のラストライブが収められている。共に歌ったのは「マイウェイ」と「哀しみのソレアード」。2曲とも死がテーマの歌だが、末期ガンの彼が歌うと悲しいまでに美しく聴こえた。シャンソンは人生のドラマ、歌が人に寄り添う瞬間を見たように思った。彼は、この映画が公開される前、平成16年に病没する。

今回頂いたCDは、「月の光の中で/棄ててあげる」というシングル。
彼はかつてビクターレコードから「ヨコハマタンゴ」という曲を出していることから、彼がメジャーレーベルに所属し、横浜のご当地ソングのようなものを歌っていたのではないだろうか。このCDも歌手活動のなかで作られたと思われる。
「月の光の中で」は、中国風のイントロからはじまる。かつての大陸歌謡のような曲で、横浜中華街を意識したものだと思われる。「棄ててあげる」は、強気な女性が甘ちゃんな男性を振ってしまう曲。何となく90年代の美川憲一が歌っていそうな曲で、いわゆるオネェ系歌手にこの手の曲を歌わせる傾向が当時はあったのだろうか。

この曲を聴いたり、映画を見ることで横浜の元次郎についてもっと知りたくなった。これからも元次郎の曲を沢山聴いてみたい。

89年 パリ祭

「原点回帰と革新のパリ祭ー89年パリ祭ー」

ある方からのご厚意で、パリ祭の映像を数本見る機会に恵まれた。かつてテレビ放送されてものを録画した映像だが、今では大変貴重な資料である。
今回は、1989年(平成元年)のパリ祭を紹介したい。この年はフランス革命200年の年であり、日本はバブルの真っ只中だったため、フランス旅行をする日本人が増えた時期である。全国にシャンソニエが乱立した第二次シャンソンブームが起こったのも、この頃だ。また前年には、石井好子がシャルル・デュモンのリサイタルのゲストとして、日本人でははじめてパリのオランピア劇場で歌っている。日本人とフランスの距離感がある意味近づいた時期に催されたのが、このパリ祭なのである。
映像を見ると、このパリ祭が、初期のパリ祭のスタイルに原点回帰し、かつ新たな革新をもたらしたステージであったことが伺える。

89年パリ祭
会場 五反田ゆうぽうと
演奏 岩間南平カルテット
司会 青木健一

リーヌ・ルノー「ラ・マルセイユーズ」
池田かず子「街に歌が流れていた」
瀬間千恵「水に流して」
高英男「小さなひなげしの花のように」
小海智子「愛の幕切れ」
堀内美希「欲望」
深緑夏代「雨のブリュッセル
リーヌ・ルノー
「カナダの私の小屋」
シャンソンメドレー」(ピギャール、パリの空の下、シャッフル、セ・シ・ボン、アイ・ラブ・パリ、薔薇色の人生、セ・マニフィック)
「バイバイ」

サンクオム(青木裕史、伊東はじめ、しますえよしお、広瀬敏郎、村上進)「幸福を売る男」
しますえよしお「声のない恋」
戸川昌子「愛の破局
中原美紗緒「君を待つ」
淡谷のり子「パリの屋根の下」
芦野宏「ア・パリ」
美輪明宏「恋のロシアンキャッフェ」
石井好子「帰り来ぬ青春」
全員「パリ祭」

まず注目したいのは、ゲストとしてフランスのシャンソン歌手、リーヌ・ルノーが出演していることだ。このステージをプロデュースした大庭照子は「フランス革命200年を記念して、日本人とフランス人が一緒に歌うステージを作りたかった」と述べているが、パリ祭にフランスからシャンソン歌手を招くかたちは、初期のパリ祭と同じなのである。代々パリ祭にはイヴェット・ジローやジョセフィン・ベイカーなどがゲスト出演しており、パリ祭の原点は日本人とフランス人が競演するステージであった。このときのパリ祭は、初期の原点回帰した構成だったと言える。

一方で、革新的なのが男性歌手5人グループ「サンクオム」の登場である。サンクオムは、青木裕史、伊東はじめ、しますえよしお、広瀬敏郎、村上進の5人が一緒にシャンソンを歌うという、今までの日本シャンソン史上にないスタイルで結成された。ちなみにこの5人はすでに10年以上のキャリアをつんでおり、プロの歌手同士がグループを組むという点でも極めて珍しいのではないだろうか。サンクオムは、この年の2月にすでにデビューライブを行っており、このパリ祭でリーヌ・ルノーと共演したことがきっかけで、リーヌのパリ公演に招致されることとなる。石井に続いて、フランスのステージに招かれる日本人が新たに創出されたのだ。その後のサンクオムは、数年後に村上が死去したことでグループは解消したが、現在でもサンクオムの存在はパリ祭に引き継がれており、毎年のステージで広瀬、青木、伊東の3人が歌うコーナーが設けられている。

ステージを見ていて貴重と感じたのは、パリ祭に淡谷のり子が出演していたことだ。シャンソン界の大物といえば石井好子が筆頭のように思われるが、彼女の上には淡谷がいたことを思い知らされる。昭和6年あたりから流行歌としてシャンソンを歌い始めた淡谷は、日本にシャンソンを広めた貢献者なのである。今回の淡谷の衣装は黒色のドレス。晩年はピンク色のドレスを着ることが多かっただけに、パリ祭には気合いを入れていたことが伺える。

ちなみに89年パリ祭は、私が生まれる前に催されたもの。自分の生まれる前のシャンソン界を垣間見れたような気がしたひとときであった。

97年 パリ祭

シャンソン歌手以外の人にシャンソンを ー97年 第35回パリ祭ー」

今回は第35回パリ祭(1997年7月10日 東京厚生年金会館大ホール)の映像を観る機会に恵まれたので、レポートしたい。
このときのシャンソン界の状況を見てみると、前年の1996年はベテラン歌手の中原美紗緒が死去し、越路吹雪17回忌にあたる年であった。また越路の17回忌を追悼して「拝啓、越路吹雪様」(画像参照)というトリビュートアルバムが発売された。
以上を踏まえて、当日のセットリストを見てみたい。

「第35回パリ祭」
司会 永六輔 木原光知子

・ 神戸市混声合唱団(北村協一指揮)「谷間に三つの鐘が鳴る」
・ パトリック・ヌジェ「ラ・ジャヴァネーズ」
・ 堀内美希「ミロール」
・ かいやま由起「聞かせてよ愛の言葉を
・ 仲代圭吾「俺はコメディアン」
・ マーサ三宅「帰り来ぬ青春」
・ ピーコ「過ぎ去りし青春の日々」
・ 大木康子「歌い続けて」
・ 新井英一「アムステルダム
・ 新井・石井好子「人の気も知らないで」
・ ペギー葉山シャンソン
       「ドミノ」
・ 石井・マーサ・ペギー「ドリーム」

・ TV JESUS 「サ・セ・パリ~セ・シ・ボン」
・ 坂本スミ子「別れの朝」
       「エル・クンバルチェクロ」
・ 永六輔「黒い花びら」
・ 木原光知子「哀しみのソレアード」
・ 山本リンダ「愛の追憶」
       「パリは不思議」
・ 森光子「恋心」
・ 芦野宏「薔薇色の人生」
     「カナダ旅行」
     「ブン」
・ 石井好子「初日の夜」
      「愛の賛歌」

まず気づくのは、出演者の大半がシャンソン歌手ではないことだ。マーサ三宅ペギー葉山はジャズ、坂本スミ子はラテン、新井英一はフォーク、TV Jesusはロックユニットである。さらに、女優の森光子や司会である永六輔木原光知子まで歌っている。
これは石井好子が長くプロデュースしていた「石井好子シャンソンの夕べ 難民支援コンサート」が由来している。石井は、若い頃にヨーロッパでの生活を通じて難民支援に関心を持っており、彼らを支援するコンサートを毎年開いていた。
このコンサートのコンセプトは、シャンソン歌手以外の人にシャンソンを歌ってもらうというもの。このコンサートがはじめて開かれたのが、このパリ祭の前年の96年と97年の春であった。このパリ祭は、「石井好子シャンソンの夕べ」を踏襲するプログラムなのであり、シャンソンシャンソン界だけに留まらず、広く普及させたいという石井の願いが込められている。

特に注目したいのは、石井・新井「人の気も知らないで」とTV Jesus「サ・セ・パリ~セ・シ・ボン」だ。この2曲は先にのべた「拝啓、越路吹雪様」に収録された曲であり、当時のシャンソン界が他ジャンルと迎合して革新を試みようとしていたことが伺える。特にTV Jesus のボーカル、有近真澄(作詞家・星野哲郎の息子)はロック歌手には珍しい渋い歌声でシャンソンの古典を、その雰囲気を壊さぬようにアレンジして歌っている。彼は、ROLLYやNEROなどのシャンソン界で活躍するロック出身歌手の草分けだと言ってよい。

また注目したいのは、石井、マーサ、ペギーがジャズの「ドリーム」を歌っていることだ。
この曲は石井のエッセイにかならずと言っていいほど引用されており、彼女がシャンソン歌手になる前に日向好子の名前でジャズ歌手をしていたときに大切にしていたレパートリーであった。

心が沈みがちなとき 夢を見ましょう
物事は思い悩むほど
悪い方にばかり ゆくものではないのだから
さあ 夢を見ましょう

この曲を、石井の同時期に活躍したマーサ、後輩のペギーと三人で歌う姿を観ることができるとは思っていなかったので、ファンにとっては嬉しいプログラムである。

ところで今回のパリ祭は、大木康子がカムバックしたステージであった。ピーコが「(大木は)私が長くおっかけをしていた歌手ですが、私がシャンソンを習い始めた頃にステージを降りられました。でも今日は、石井さんのために、とのことで出演していただきました」と述べている。しかしながら、大木がなぜステージを降りたのか、その理由を私は知らない。思えば、私は大木の経歴をあまり詳しく知らないことに気付いた。この記事をご覧になって、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示ください。

月田秀子

南蛮人の叫びを歌う 月田秀子」 

今年亡くなられたファド歌手の月田秀子のアルバムを、先日手に入れた。歌詞カードには自身の柔らかな筆致のサインが記されている。

月田秀子
1951年、東京の下町に生まれる。高校時代に大阪に行き、女優を目指す傍らで、菅美沙緒、出口美保からシャンソンを学ぶ。
1980年、出口の営むシャンソニエ「ベコー」でデビュー。
1987年、アマリア・ロドリゲスのファドを聴いて衝撃を受けて、ポルトガルに留学。ファドを歌う日本人として現地で広く知られ、アマリアからも認められる。
帰国後は日本のファド歌手として活躍した。
2017年6月16日、病没。

私が月田を知ったのは、社会人1年目のとき。アマリア・ロドリゲスの曲を聴いて魅了されて、ファドについて調べた。ファドは、人間の悲哀、哀悼、抑圧、嘆きを主題にしたポルトガルの歌であり、日本では月田秀子という歌手が第一人者で、彼女は最近北海道白老に引っ越してきた、ということであった。シャンソン好きの知り合いの大半が月田のステージを聴いていて、「月田さんのファドは素晴らしいよ」と口を揃えて言った。同じ北海道にいるなら、いつか自分も聴けるかも…と悠長に考えていたら、結局ステージには間に合わなかった。

月田のアルバムの解説を読んでみると、ファドの代表曲である「暗いはしけ」のところに次のように記してあった。
大航海時代に海の藻屑と消えた数知れぬポルトガル人の鎮魂歌に通じる趣がある。」
私は「ポルトガル人」が「南蛮人」であることに、はたと気づいた。航海中に船が沈み、中世の日本に流れ着いた南蛮人たち。故郷であるポルトガルでは、家族や恋人が彼らを思ってファドを歌っていたのだろうか。あるいは、南蛮人たちが故郷に向けてファドを歌っていたのだろうか。そう考えると、私たちにとってファドは決して他国の音楽ではないのである。
日本史のなかには取り上げられない無名の人びとの絶唱が、月田のファドによって再生されているように感じた。

月田がファドに惹かれた根底には、かつて学んでいたシャンソンがあるのではないかと思った。あるサイトには、月田はシャンソンに違和感を感じてファドに転向したと記されていた。しかし、菅、出口という強烈な個性派歌手の指導もとで、月田は何かを得たからこそファドに惹かれたのではないかと私は考える。
月田のシャンソンを聴いてみたい、と思い調べてみるとYouTubeで「時は過ぎて行く」の動画を見つけた。この動画を見て思い出したのは、菅が自身のレコードのなかで述べていた「歌の行き着くところは人間」という言葉であった。月田が、菅と出口から学んだのはシャンソンではなく、人間を歌うということであった。だからこそ、月田は人間の悲哀を歌うファドを選んだのではないだろうか。
歌のなかに生きる人間だけでなく、かつて実在したであろう名もなき人びとの叫びをも甦らせる月田秀子。彼女もまた、菅や出口に並ぶ孤高の歌手であったと言ってよい。

坂東玉三郎

「高踏な情歌 ー坂東玉三郎「枯葉」ー」

昨日、11月7日は、越路吹雪の命日であった。Facebookを見ると、シャンソンファンは各々の思いを抱いて、彼女を偲んでいたようだ。

私は、昨日NHKで放送された「うたコン」という歌番組を観た。歌舞伎役者の坂東玉三郎が、越路を偲んで「枯葉」を歌ったからである。
番組で玉三郎が「枯葉」を歌ったのは、同日に越路のシャンソンをカバーしたアルバムを発売したからである。彼が越路の熱烈なファンであるだけに、アルバムの収録曲はマイナーな曲ばかりで唖然としてしまったが、番組ではよく知られた楽曲を選んだことにひとまず安心した。個人的には「ユーヌ・シャンソン」など聴いてみたかったが、多くの人が越路を偲ぶためにはやはり広く知られた楽曲が放送されるべきである。

玉三郎の歌唱とステージアクトは素晴らしかった。黒のラメが入ったジャケットを着ているのにもかかわらず、玉三郎の身のこなしを見ているうちに、だんだんとそれが豪奢なドレスに見えてくるのは不思議であった。芸歴60年の女形がみせる奥義である。
あと、彼の歌舞伎役者特有の彫りの深い顔は舞台映えする美しさを湛えている。私が思い出したのは、写真でしか見たことがない、シャンソン歌手のダミアの顔だ。顔つきで楽曲の世界観を語る、こういう人は稀である。

玉三郎の歌声は、「高踏」という言葉がふさわしい。彼が番組のロケ地として選んだ横浜の洋館の一室に、あるはずのない大劇場の緋色の緞帳が降りてきそうな錯覚をおこすくらい高尚な雰囲気を醸し出していた。
思えば、日本のシャンソンに「高踏」というイメージが払拭されて久しい。今の日本にあるのは、シャンソンは取っつきにくいというイメージである。しかしながら、玉三郎は「シャンソンは高踏な情歌」だというイメージ、さらに言えば「シャンソンは高踏でなければならない」という信念を抱いているのではないだろうか。彼はきっと今の日本のシャンソン歌手に「高踏」を求めることができないのを知っているだろうし、高踏なシャンソンを歌えるのは自分だけだという自負を抱いているのだと思う。私は彼の歌う姿から、戦時中にもんぺを嫌いドレスを纏った淡谷のり子のような意思の強さを感じずにはいられないのである。

玉三郎の「枯葉」は、普段からシャンソンを聴き流している私でさえ、思わず身じろきしてしまうものであった。現在、多くのシャンソン歌手が次世代にシャンソンを広めていくために、いかにして従来の取っつきにくいイメージを払拭するかを模索しているなかで、彼の歌うシャンソンが糧となるのか毒となるのかを早急に判断することはできない。
しかしながら、越路追悼のはずの一夜が、思いがけず日本のシャンソンの未来を考える一夜になってしまったことは、私にとっても予想外であった。