「ヨコハマ・元次郎」
先日、Facebookで知り合った方からシャンソン歌手、元次郎(がんじろう)のCDを頂戴した。この場を借りて御礼申し上げます。
元次郎のシャンソンはYouTubeで聴いたことがあり、とても気に入っていたのだが、CDが廃盤である上にプレミアがついてしまって、なかなか手に入れることができなかった。今回のCDは私の研究のためにとお譲りくださったものなので、その思いにしっかりと応えようと思います。
元次郎は、永登元次郎という名前でも活躍したシャンソン歌手。台湾で生まれ、神戸で育つ。幼少期は母と妹の三人で貧しい暮らしをしていたという。
転機になったのは、小学生のとき母が他の男と
同衾するのを目撃し、彼女を「パンパン!(売春婦のこと)」と罵ったときだ。彼は、母と自分が力を合わせて暮らしてきたのに、という思いがあったゆえだったそうだが、このことがきっかけで、中学に進学した際は別れた父親のもとで生活するようになる。
中学卒業後、上京。元来、彼は同性愛者であったことから、生活費がなくなると女装をして男相手に売春をしていた。そのことは、いそのえいたろう『性人伝』に詳しい(この本もCDと一緒に頂きました)。
その後、横浜で自身のゲイバーを開店する。その頃に日本舞踊や長唄などの芸事を習うようになった。
彼がシャンソンに目覚めたのも、その頃ではないかと思われる。金子由香利のシャンソンに惹かれて、昭和57年に深緑夏代のもとでシャンソンを習い始める。翌年に神奈川県民ホールで500人の観客を集めてリサイタルを開いた。
このとき、元次郎はメリーさんとはじめて出会うこととなる。メリーさんは、横浜で外国人相手に売春をしていた女性で、全身真っ白の衣装とメイクをして歩いていたことから、横浜でよく知られた存在であった。
元次郎がリサイタルの当日に会場入りする際、ホールの入口でポスターを眺めているメリーさんを見て、「よかったらいらしてくださいね」と言って、チケットを渡した。すると、メリーさんはリサイタルを鑑賞し、元次郎に紙袋に入ったプレゼントを渡したのである。その瞬間に、会場から大きな拍手が沸き上がった。メリーさんはそれだけ横浜の有名人であったのだ。以来、元次郎はメリーさんに生活費の援助などをし、交流を深めて行く。
映画「ヨコハマ・メリー」は、突然横浜から消えたメリーさんの消息を追う内容であったが、同時に元次郎の生きざまを取材した内容にもなっている。この映画の取材中、元次郎は末期ガンを患っていた。彼はメリーさんについて「メリーさんから「私はパンパンをやってましてね」と言われたとき、頭がガーンとなった」と述べている。パンパン、は自分が母を罵った言葉だ。彼はメリーさんを通じて、母に対する贖罪をしたのではないかと思う。
映画のラストでは、メリーさんが老人ホームに入所していることが分かり、元次郎が慰問コンサートをする。このとき歌ったのが「マイウェイ(岩谷時子訳)」だ。「私は私の道を行く」という歌詞が、元次郎とメリーさんの人生とオーバーラップして、素晴らしかった。
映画には、元次郎が自身のシャンソニエ「シャノワール」で歌う姿が収められ、DVDには自身のラストライブが収められている。共に歌ったのは「マイウェイ」と「哀しみのソレアード」。2曲とも死がテーマの歌だが、末期ガンの彼が歌うと悲しいまでに美しく聴こえた。シャンソンは人生のドラマ、歌が人に寄り添う瞬間を見たように思った。彼は、この映画が公開される前、平成16年に病没する。
今回頂いたCDは、「月の光の中で/棄ててあげる」というシングル。
彼はかつてビクターレコードから「ヨコハマタンゴ」という曲を出していることから、彼がメジャーレーベルに所属し、横浜のご当地ソングのようなものを歌っていたのではないだろうか。このCDも歌手活動のなかで作られたと思われる。
「月の光の中で」は、中国風のイントロからはじまる。かつての大陸歌謡のような曲で、横浜中華街を意識したものだと思われる。「棄ててあげる」は、強気な女性が甘ちゃんな男性を振ってしまう曲。何となく90年代の美川憲一が歌っていそうな曲で、いわゆるオネェ系歌手にこの手の曲を歌わせる傾向が当時はあったのだろうか。
この曲を聴いたり、映画を見ることで横浜の元次郎についてもっと知りたくなった。これからも元次郎の曲を沢山聴いてみたい。