シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

吾が巴里よ(モン・パリ)

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで

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日本で、シャンソンが歌われ始めたのは、何時のことなのだろう、という疑問がふつふつと沸き上がった。私も誕生日を迎えたことだし、日本におけるシャンソンの誕生日も調べてみようかという、好奇心からである。

この疑問を調べる上で、私は2つの条件を設定した。

1.その楽曲がフランスの流行歌であるというのを、日本人が理解していること。
2.その楽曲が、日本で流行歌として広く認知されたこと。

以上の条件を満たしてこそ、日本でフランスの流行歌である「シャンソン」という音楽が真に認知されたと見なすことができる。

調べてみると、とあるシャンソンが大正時代の日本で認知されていたのが分かった。共産主義者たちによる労働歌「インターナショナル(International)」である。
この楽曲は、もともとは19世紀フランスの、パリ・コミューンの時期(それまでの政権をパリ市民が革命を起こして倒し、市民による新政権を樹立した)に作られた。その後、「インターナショナル」はロシアを経由して日本に入ってきた。なので、当時の日本では「インターナショナル」はロシアの楽曲として認知されていたのである。これでは、フランスのシャンソンが認知されたとはいえない。

日本のシャンソン史において、日本で最初にシャンソンが歌われたのは、昭和2年9月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「モン・パリ」の主題歌「モン・パリ」(Alibert「Mon Paris」1925)だったというのが定説である。
では、この「モン・パリ」とはいかなる内容のレビューだったのか。また、劇中で「モン・パリ」以外にはどんな楽曲が歌われたのか、という疑問が湧いてきた。もしかしたら、他にも劇中でシャンソンを歌っていれば、それも日本最初のシャンソンになるはずだからだ。

それについて調べてみると、まずこの「モン・パリ」というタイトルが誤りであることが分かった。初演のタイトルは「吾が巴里よーモン・パリ」という。当初「モン・パリ」はサブタイトルであったが、昭和3年の再演の際に「吾が巴里よ」が消されて「モン・パリ」となった。
本稿では初演に従い「吾が巴里よ」で統一する。

この「吾が巴里よ」というレビューは、岸田辰彌という演出家によって作られた。岸田は、宝塚の演出家になった後、創設者の小林一三の命で1年余り欧米視察にいく。そして、パリのレビュー(寸劇と舞踊、音楽を交えたミュージカルのようなもの)を参考にして作ったのが「吾が巴里よ」であった。

では、この「吾が巴里よ」の内容を見ていきたい。
主人公は串田福太郎という男である。演じたのは、花組組長の奈良美也子で、彼女が宝塚最初の「男役」だと言われる。ちなみに、串田福太郎は、岸田自身をモデルとしている。
串田は、宝塚を出て神戸港から出港、中国、インド、エジプトを経て、フランスのヴェルサイユ宮殿に着く。その旅の過程が、レビューによって描かれるのだ。つまり「吾が巴里よ」というタイトルのわりに、パリのことはあまり描かれない作品なのである。

この劇中で歌われた楽曲のなかで、主題歌として扱われているのが「モン・パリ」だ。この楽曲は劇中の要所要所で歌われる。
そして、旅先の国々のシーンで歌われた楽曲は以下の通りである。

「先生さらば」(神戸)
「おそろしかりし」(中国)
「ロンロンロンだ」
「花を召せや」(インド)
「とこなつの國」
「あーあーあー」(アラビア海)
「恐ろしき呪は去りて」(エジプト)
「辨當辨當(弁当の旧字)」(マルセイユ)
ヴェルサイユ」(フランス)

これらの楽曲は岸田辰彌作詞、高木和夫作曲である。つまりは、「モン・パリ」以外にはシャンソンは歌われていないことになる。

そして、このレビュー「吾が巴里よ」は大変ヒットした。いまだかつて日本になかったレビューの魅力に、人々は熱狂したのである。

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ちなみにこのレビューではじめて、宝塚では定番の「ラインダンス」が取り入れられた。ラインダンスは、マルセイユの汽車を表現するための踊りであった。当時の写真を見ると、踊り子のズボンに車輪が描かれている。
さらには、主題歌「モン・パリ」も大変ヒットした。レコードや楽譜がよく売れたという。

一見すると、この「モン・パリ」によってシャンソンは日本で歌われるようになったように思われる。しかしながら、私は当時の楽譜集の記載に注目した。
そこには、「モン・パリ」の作詞が岸田、作曲が高木とあるのだ。つまりは、「モン・パリ」は日本の楽曲として紹介され、売られていたのである。当時の日本人で、この楽曲がフランスの流行歌であることを知っていた人はどれだけいただろうか。
結果としては「モン・パリ」が、日本で最初に民衆に広く知られたシャンソンであることには変わりはない。しかし、当時の日本人が「モン・パリ」をフランスの楽曲と認知していなかったことをかんがみると、これによってシャンソンが根付いたという定説は、厳密に言えば覆されることとなる。先にのべた「インターナショナル」と同じ状況だからだ。

では真の意味で、日本人がフランスの楽曲であることを認知した上で、流行歌として口ずさむようになったのは、いつのことなのか。
それは、昭和5年10月に宝塚歌劇団が上演したレビュー「パリゼット」まで待つこととなる。

パリゼット

日本シャンソンの産声 「モン・パリ」から「パリゼット」まで ②

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昭和2年の「吾が巴里よ」の盛況により、宝塚歌劇団創設者の小林一三は、演出家の白井鐵造にパリ視察を命じる。
白井は、昭和3年にパリに渡ってレビューの見識を深め、昭和5年に帰国。その帰朝公演ともいうべきレビューが「パリゼット」(10月「花組」公演)であった。

この「パリゼット」は、宝塚にとって重要な演目として今に伝わっている。それは、

1.現在のレビューの基礎を作ったから
2.宝塚の代表曲「すみれの花咲く頃」が初めて歌われたから

である。

またこのレビューは、
「フランスのシャンソンが、いつから日本で流行歌として親しまれるようになったか」
という疑問の答えも孕んでいる。

本稿では「パリゼット」の内容と、劇中歌「すみれの花咲く頃」について解説し、疑問を解決していきたい。

そもそも「パリゼット」というタイトルは、1928年にパリの劇場ムーラン・ルージュで初演されたレビュー「パリは廻る(Paris qui tourne)」で、女性歌手のミスタンゲット(Mistinguett)が歌った「Parisette」という楽曲が元になっている。
「Parisette」は、「パリの看板娘」といったような意味で、「パリの看板娘に人々は様々なプレゼントをする。だけど娘さん、お金で心を売ってはいけません」という内容のシャンソンらしい。
おそらく白井鐵造は、このレビューを実際に見て着想を得たと思われるが、借用したのは楽曲のタイトルだけで、レビューの内容に共通点はない。

次に、白井が作った「パリゼット」のストーリーを見ていきたい。
主人公はフランス帰りの神原、山中の男2名。彼らが宝塚歌劇団の公演を見たことをきっかけに、パリでの恋愛を回想するという内容だ。この宝塚劇場からパリへ場面が展開するという筋立ては、「吾が巴里よ」と同じ構成である。
パリの場面では、神原はロロットというモデルと恋仲になる。そして神原がメイドに変装したロロットに手を出して決裂する過程が、喜劇的に描かれる。これは狂言の「花子」や歌舞伎の「身替座禅」をもとにしたストーリーだろう。神原とロロットのストーリーが終わると、突如として山中の女友達ジョセフィンが登場する。ジョセフィンが、かつての恋人アンドレに振られた思い出を回想したところで、いきなりラストのエトワールが始まり幕となる。
はっきりいって、ストーリー構成に難のある作品だ。

出演は、山中・アンドレの二役に奈良美也子、神原に小倉一子、ロロットに高浪喜代子、ジョセフィンに明津麗子となっている。

この「パリゼット」は、舞台装置の豪華さが特徴的だ。『宝塚少女歌劇脚本集』には、次のように記載されている。

「舞台一杯位の大きな花籠。籠の中に二十四人の花の踊子座り…」(第11場)
「美しき階段、階段の上に美しき衣装の女十人立ち並ぶ。階段の上にもう1つのカーテンあり、そこにはカーテンの房の女八人立ち並ぶ」(第二十場)

添付の画像を見ても、これが現在の宝塚のレビューの基礎となったのは明白であった。
また「パリゼット」が、ラブストーリーであることにも注目したい。それまでの宝塚の演目は、喜劇や歌舞伎の翻案が中心であり、この「パリゼット」によって、宝塚は恋愛物を演目のメインとしていくこととなる。これは、白井鐵造の慧眼だと言えよう。

そして本題である、「フランスのシャンソンは、いつから日本人に親しまれるようになったか」という疑問を解いていきたい。
鍵となるのは、「パリゼット」の劇中歌である。

最も注目したいのは、「パリゼット」が

「七ツの巴里流行歌を主題にしたレビュー」

という触れ込みで上演されたことだ。つまり「パリゼット」は、「吾が巴里よ」とは異なり、あらかじめ劇中歌がフランスの楽曲であることが明示されているのである。
(余談であるが、シャンソンを「巴里流行歌」と呼ぶのは、昭和7年声楽家の佐藤美子が日本で最初にシャンソンのみでコンサートを開いた際に用いられたと言われてきた。しかし、この研究で「パリゼット」の時点で宝塚が考えたネーミングを、佐藤が借用していたのがわかった。)

とはいえ、脚本集をみると、「吾が巴里よ」と同様に「白井鐵造作、高木和夫作及編曲」とある。しかし、昭和5年にはフランスの歌手やレコードの認知度がだいぶ高まっていたのではないかと私は推測する。
例えば、「パリゼット」には次のようなセリフがある。

山中「そしてミスタンゲットのあのしはがれ声の巴里の唄をきく時、いつも自分は今巴里にいるんだという幸福を感じた」
神原「そうそうミスタンゲット、あの時パリゼットという歌を歌っていたっけね」

さらに『歌劇』には、公演中の劇場の様子が記録されている。

「日曜日の幕間の大広間、蓄音機の大ラッパがミスタンゲット嬢のパリゼットを叩きつけて、大広間の雰囲気はヤケに興奮している。」

そして「パリゼット」の登場人物ジョセフィンにも注目したい。「Josephine」は、英語ではジョセフィンと発音するが、フランス語ではジョセフィーヌである。登場人物のジョセフィンはブルターニュの生まれという設定なので、本来ならジョセフィーヌが正しい。
なのに彼女の名前がジョセフィンなのは、当時アメリカからフランスに渡って活躍していたレビュー歌手、ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)に由来するのは明白である。

ところで、昭和2年に「吾が巴里よ」が公演された際、あるフランス映画が公開されたのが分かった。タイトルは「麗美優(レビュー) モン・パリ」。これは、「La reveu des reveu(レビューのなかのレビュー)」という原題で、パリの複数の劇場のレビューを撮影した記録映画である。そして、この映画の主役がジョセフィン・ベーカーだった。
おそらくこの映画は、宝塚がレビューを日本で認知させるために公開させたものだと思われる。「吾が巴里よ」以来、レビューの人気が日本で高まるにつれ、フランスのシャンソン歌手の認知度やレコードも、レビューに関係するものを中心に国内で広まっていたのではないだろうか。

なので「パリゼット」の時点では、「吾が巴里よ」のときと異なり、フランスの楽曲を受け入れる土壌が、すでに日本で整っていた。フランスのシャンソンが真の意味で日本で親しまれるようになったのは、まさにこの時であった。

では、「パリゼット」の劇中歌を見ていきたい。

「パリゼット」(Mistinguett「Parisette」1928)
「TAKARAZUKA」(現「おお宝塚」Harry Carlton「Constantinople」1928 .
フランスでは、Alibertが歌った )
「モンパルナス」(原曲不明)
「ラモナ」(Fred Gouin「Ramona」1928)
すみれの花咲く頃」(Henri Gesky「Quand refleuriront Les Lilas blanc」1929 原曲はドイツ)
「君の手のみマダム」(「Ich küsse ihre Hand, Madame」1930 ドイツタンゴ)★
「ディガ ディガ ドゥ」(Big bad voodoo daddy「Diga diga doo」)★
「あやしきは戀」(原曲不明)

★印はシャンソンではない海外の楽曲である。厳密にフランスで作られた楽曲にこだわらず、白井鐵造がパリ視察中に聴いた楽曲を盛り込んでいるのが分かるだろう。

そんな大がかりでパリの香り漂う空前絶後な「パリゼット」だが、『歌劇』を読む限り、当時の評判はあまり良くなかったようだ。このときすでに、日本の観客たちはレビューに飽きていたのである。白井のこだわりぬいた演出も、観客にしてみれば、二番煎じに見えてしまっていた。

しかし、そんななかでも評判が良かったのが、劇中歌の「すみれの花咲く頃」であった。
この楽曲は、「パリゼット」の重要なシーンで歌われてはいない。ストーリーには全く関係のないパリの街角で若いアベック(フランスなのでカップルとは言いません)が、すみれの花を買うシーンで歌われる。歌うアベックにも役名がついておらず、「男」「女」と表記され、雑誌にも彼らのグラビアは残されていない。つまりは、余分なシーンで脇役が歌うだけの楽曲にすぎないのだ。

では、なぜそのような楽曲が今なお宝塚の代表曲となっているのか。それは、「男」役の橘薫と「女」役の三浦時子のコンビネーションの素晴らしさだった。『歌劇』には、彼女らへの賛辞が並んでいる。

「橘薫の燕尾服の着こなし方が日本人としては無類であると非常な評判」
「三浦時子と橘薫のジャズの歌い手よ。賛辞と花輪と栄光とに包まれてあれ」
「三浦時子さんと橘薫さんとのコンビネーション実に素晴らしい」
「三浦時子、橘薫は快活に演っている」

もはや「パリゼット」は、脇役の三浦と橘のためにあったというような劇評だ。ちなみに「ジャズ」とあるのは、当時の洋楽が一律して「ジャズ」と呼ばれていたからで、「シャンソン」という名が定着するのは、昭和8年のことである。
三浦と橘、このふたりの活躍によって「すみれの花咲く頃」は、宝塚に歌い継がれることとなる。
(橘薫は戦後、日本で最初にシャンソンを専門に歌う歌手「シャンソン歌手」として活躍した。長崎から上京した美輪明宏の才能を見抜いて、銀巴里の専属にさせたのは彼女である。)

さらに言えば、真の意味で日本人が口ずさむようになったシャンソンは「すみれの花咲く頃」であると、私は定義する。日本人がこの楽曲をフランスのものだと理解し、かつ流行歌として広く認知されたからである。

こうして、宝塚の「吾が巴里よ」と「パリゼット」を精査することで、日本のシャンソン史の起源に一説を示すことができた。
しかし、同時に見えてくるのは「シャンソンはフランスの甘い恋のうた」という日本での認識は、「すみれの花咲く頃」から始まったという
ことである。このイメージは、「パリゼット」におけるアベックのシーン、さらには白井鐵造による宝塚のラブストーリー路線の演目から生じているのが、明白である。
昭和5年の「パリゼット」で生じたイメージが、戦後もなお長く根強く残っていたということに、私はただ驚くばかりだ。
しかし当時に比べれば、現在このイメージはだいぶ覆されていると言って良いだろう。シャンソンに「人生」を込める歌い手が増えたからである。

長いシャンソン史を振り替えれば、現在の日本のシャンソンは決して停滞などしていない。むしろ、新しいイメージへの転換期であることをきちんと意識していきたい。

『蛙たちのLe Quatorze Juillet』

こんなにも漆黒に覆われたパリ祭があっただろうか。

7月14日はフランス革命記念日で、日本では「パリ祭」と称してシャンソンの催事があちこちで開かれる。
同時に、この日はフランスの男性歌手、レオ・フェレ(Léo Ferré)の命日でもある。フェレは、フランスで起こった学生運動五月革命」に積極的に関わるなど、反体制の人であっただけに、革命記念日に逝くとは、その精神にふさわしい。

7月15日『蛙たちのLe Quatorze Juillet』(内幸町ホール)の夜の部は、若林圭子さんとあやちクローデル×イーガルさんの出演だった。
配信で見たご両人のステージは、まさに黒に統一された世界観であった。

若林圭子さんは、フェレの楽曲に特化して歌われている。とはいえ、フェレの楽曲はあまたのシャンソンのなかでも難解の極みという印象だ。
若林さんは、そんなフェレの楽曲を我々にも分かりやすく訳詞し、歌われている。枝葉を削いで木の幹だけ残すようにして、楽曲の核心に迫ろうとする鋭意は、修行のようなストイックさを孕んでいる。
それは、彼女が歌う日本の楽曲にも現れている。アリス「チャンピオン」のカバーは、どんなコンディションであっても勝負のためにリングに立たねばならないボクサーの宿命が、ドライに歌われる。究極の男の世界を、なぜこんなにも的確に歌えるのか、私はただ驚くばかりだ。
一方で、若林さんが歌う「アカシアの雨がやむとき」は、静かで深い感動を呼ぶ。感情移入しやすい歌詞をあえて抑えて歌う際どさが、この楽曲の真の美しさを引き立てる。私は、画面越しに感涙とどまらなかった。
そんな若林さんのステージは、例えるなら墨の黒だ。黒のなかに濃淡の美しいコントラストを秘めているのである。

対して、あやちクローデル×イーガルさんのステージは、インクの黒だ。何にも染まらない、あるいは他の色をも飲み込むような屹立した黒である。
あやちさんのステージは、挑むような迫力と勢いがある。何人をも寄せ付けない気迫が漂い、観る者を圧倒させる。
中でも、ピアソラ「ロコへのバラード」(Astor Piazzolla「Balada para un loco」)は、迫力の歌声かつ最後まで隙のない緻密な世界観が構築されていて、感無量だ。楽曲の「世界はみんな狂っている」という強烈なメッセージは、聴くものを不安にさせず「狂っててもいいんだな」という安心感を呼び起こす。これは、あやちさんの説得力の巧みさであろう。

ちなみにこの昼の部で、あやちさんは老婆に扮して「オルガ」(Juliette Gréco「Olga」)「女歌手は二十歳」(Silvie Vartan「Chanteuse a vingt ans」)を歌われた。これは、老いた女が昔を偲ぶ歌謡劇である。思い出すのは能楽の「卒塔婆小町」の筋立てであるが、私は同じ能楽でも「姨捨」を取材すべきと思った。「姨捨」の老婆が月明かりに昔を偲んで舞踊る心情と幻想美を追及すれば、よりテーマ性が立ち上がるはずだ。

あと特筆したいのが、若林さんとあやちさんの幕間に登場した、円盤屋たけしさんの漫談だ。レコードに関するうんちくを面白おかしく語っているが、その話の間の取り方が絶妙だった。間が絶妙だと寒いことを言っても場がシラケない、その計算された話芸に感服した。
それにしても、フランス・ギャル(France Gall)の目の隈について、あんなに熱烈に語れる人を私ははじめて見た。
ああ、やっぱり狂っているのである(誉め言葉です)。

寺内タケシ

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6月18日に亡くなった寺内タケシ
私は「寺内タケシとブルージーンズ」の「旅姿三人男」が好きで、「お前さん、江戸っ子だってねェ」「神田の生まれよォ」というべらんめぇが聞こえてきそうな軽快な演奏を、夜勤明けの眠気覚ましによく聴いていた。
訃報を機に、彼のミュージシャンとしての歩みや功績を知り、その才能とプロとしての精神に感銘を受けた。

ところで、そんな「エレキの神様」はシャンソンを弾いちゃいねェのかい?、というのは当然の関心事である。
早速調べてみると、こんなアルバムが手に入った。

「メローフィーリング  テリー、ヨーロッパひとり旅」

「テリー」とは寺内の愛称で、このアルバムはシャンソンとイタリアのカンツォーネを中心に構成されている。なお、このアルバムは「寺内タケシ」名義なので、ソロアルバムのようだ。

聴いてみると、なかなか面白い。ヨーロッパの楽曲だからと気取ることなく、まるで昔聴いた音楽をふっと思い出して鼻唄を歌うかのごとくエレキで弾いてみせる。それでいて、楽曲の世界観を壊しておらず、かつ演奏に華があり、リスナーもリラックスして楽しめる。寺内と同じ世代なら、彼の演奏に共感をも覚えるだろう。

しかしながら、そんななかにも一曲だけ彼の本領が光る楽曲がある。
ドイツで作られたのちに、フランス語の歌詞が付いてシャンソンとなった「小雨降る径(Il pleut sur la route)」というタンゴだ。
ヨーロッパで作られたコンチネンタルタンゴを寺内がエレキで弾いているが、彼がまるでタンゴのリズムに挑むように爪弾いているのが印象的で、そのスリリングなプレイに引き込まれる。エレキで弾く「小雨降る径」は、元来センチメンタルな雰囲気の楽曲にもかかわらず、その裏に隠された悲愴感が際立つ。
そして、よくよく思えば、この楽曲の歌詞は、

「暗雲たちこめた空に、あちらこちら雷雨降りしきる
(L'orage est partou Dans un ciel de boue)」

というもので、小雨どころではないのであった。
彼のそんな際どい演奏のなかにも、タンゴが持つ気品は失われておらず、むしろより際立っているのが、まさに「神業」であろう。

このアルバムを聴いて、寺内の音楽への向き合い方のようなものを垣間見た気がする。楽曲によってアプローチの仕方を自在に試みることができる、その引き出しの多さがプロの証だと言えるだろう。
(敬称を略させていただきました)

北のパリ祭

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先日、札幌で催された「北のパリ祭」の圧巻のステージを楽しみました。
この自粛生活のなかで、生でシャンソンを聴ける喜びを噛み締めました。

今回は、公演のスタッフとしても関わりました。
出演者の皆様、スタッフの皆様が私を気に掛けてくださり、1つの仕事を通じて10のことを学ばせて頂いた、充実の1日でした。

「北のパリ祭」については、

シャンソンマガジン 秋号」
(歌う!奏でる!プロジェクト)

にて感想を綴らせていただく予定です。また後日、ご案内いたします。

石坂真砂

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生者と死者の肉声 石坂真砂

シャンソン歌手からフォークシンガーに転身した加藤登紀子のように、シャンソンをきっかけにオリジナル曲を歌うようになった歌い手は数多い。
こうした人々が、オリジナル曲を歌うようになった経緯を知りたいと思った。

ところで、かつて沖縄にも「銀巴里」の名がついたシャンソニエがあった。
「銀巴里マ・ヤン」
その店主が、石坂真砂というシャンソン歌手だった。

石坂は、1931年に沖縄に生まれた。44年、戦争のため本州に疎開する。その後は東京で演劇をしつつ、エディット・ピアフ(Edith Piaf)を聴いたことでシャンソンに目覚める。
72年、沖縄に戻り「銀巴里マ・ヤン」を開店し、現地で活動した。79年には肢体不自由児のためのチャリティーコンサートを開いていたという。
2003年、死去。「銀巴里マ・ヤン」も同年閉店した。

石坂が生前発表したレコードがある。
「あぁ、対馬丸
という作品だ。

この対馬丸は、もともと貨物船であったが、戦時中は軍の輸送船となっていた。
44年、沖縄の本土決戦に備えて、子供や高齢者を疎開させるための輸送船として、対馬丸が選ばれた。8月21日の夕方に出港するも、深夜にアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。多くの犠牲者を出した。

当時12歳の石坂も対馬丸に乗船する予定だったが、直前に病気になり、後日他の船で疎開した。対馬丸が沈没したことは、軍の機密事項で戒厳令が敷かれていたため、彼女がこの事実を知ったのは、戦後になって東京から沖縄に戻ったときであった。

彼女の娘でシャンソン歌手の石坂美砂は、対馬丸の事実を知ってからの母親はラブソングを歌うのをやめて、戦争の悲劇を伝える楽曲を作り、歌うようになったと述べている。そのようななかで完成したのが、「あぁ、対馬丸」であった。

このレコードは、84年に発表されている。
収録曲はオリジナル曲9曲で構成される。作詞は石坂、作曲は栗原浩一。標準語と沖縄の方言を交えた歌詞で歌われる。
A面には、「あぁ、対馬丸」の連作4曲、B面には「対馬丸」以前に歌っていたと思われる恋愛をテーマにした楽曲が収められている。とはいえ、沖縄の遊女を取り上げた「よしやちる哀歌」などを聴くと、石坂はもともと歴史を取材した楽曲を作ることに関心があったのかもしれない。

レコードジャケットには、浜辺の写真が印刷され、上部には対馬丸の沈没した年月日、下部には沖縄の終戦記念日である6月23日が陽刻で記されている。メッセージ性のあるデザインだ。

「あぁ、対馬丸」の連作4曲は、
「啓子ちゃん生きた」「邦夫ちゃん死んだ」「母さんの話」「エイサー(夏祭り)」
で構成される。
「啓子ちゃんー」は、船が沈没してから島に漂着するまでのドキュメント、「邦夫ちゃんー」は息子の死を知らない母の歌、「母さんー」は戦争体験者の子供が戦争に思いを馳せる歌、「エイサー」は沖縄の民謡に合わせて平和を訴える歌である。

この中で圧巻なのは「啓子ちゃんー」で、台詞と歌が歌謡浪曲のように展開する。石坂はもともと役者だけに、台詞がさすがに上手い。
「啓子ちゃんー」「邦夫ちゃんー」は、対馬丸の生存者の体験談をもとに作られたそうだが、82年に発表されたアニメ映画「対馬丸ーさよなら沖縄」に酷似していることから、それを下地にしたと思われる。

対馬丸の難を逃れた石坂が、その沈没の悲劇を知ったときの心情はいかばかりだっただろうか。彼女が、これまでレパートリーとしてきた恋愛をテーマにしたシャンソンを捨てて、歌を通じて戦争の不条理を伝えるのに邁進したことに、私は表現者としての強さを感じる。
石坂の歌声を聴くと、戦時中の沖縄を知る人々の声、生存者だけでなく死者の肉声もまた立ち現れてくるように思われてならない。

嶋保子

北海道の伝説のシャンソン歌手・嶋保子

北海道で活動するシャンソン歌手の方とお話しすると、よく嶋保子の名前を聞く。

嶋は昭和24年、夕張生まれ。
シャンソン歌手の堀内環に師事し、昭和57年に札幌銀巴里でデビューする。
その後、自身の店であるシャンソニエ・アンを経営した
平成23年、病没。

嶋さんが今なお語り継がれるのは、その歌声と、札幌でシャンソンを盛り上げるために尽力したことが挙げられる。
「嶋さんの歌は本当に素晴らしかった」と語る方は沢山おり、同じ札幌の地にいながらその歌声を聴く機会に恵まれなかった私は、嶋さんはどんなシャンソンを歌ったのだろう?と想像するばかりであった。
しかしながら、YouTubeで嶋のコンサートの映像を見ることができたのである。
圧倒的な歌唱力、存在感が画面越しにも伝わり圧倒された。
リンクを貼りましたので、ぜひご覧ください。

また嶋は、シャンソン歌手やピアニストを数多く育成しており、彼らは現在も札幌で華々しく活躍している。
ちなみに札幌で活動するシャンソン歌手の佐藤みずえや、ピアニストの大和秀嗣は、嶋によって見い出された。

また、嶋は札幌でシャンソンを盛り上げるために、自身の店のゲストとして、多くのシャンソン歌手を迎えた。
石井好子、出口美保、高野圭吾、井関真人などのシャンソン界のビックネームが訪れたという。

また、嶋は地元のシャンソン歌手同士のつながりを深める役目もつとめた。
嶋の構成・演出で、昭和58年から10年間続けられた「不協和音コンサート」は、札幌で活躍するシャンソン歌手が集まりコンサートを開くというものであった。
出演者の中には自身の店を経営する者や、店に雇われて歌っている者もいた。
「不協和音コンサート」は、シャンソン歌手がお互いの店の垣根を越えて、札幌でシャンソンを盛んにしたいという目的の元に結集した奇跡のステージだったのである。

嶋の経歴を調べて感じたのは、かつて札幌にもシャンソンが盛んだった時代があったのだということだ。
もっと早く生まれたかった、もっと早くからシャンソンと出会っていれば…とは思わない。
嶋が札幌でシャンソンのために尽力したように、私がシャンソンを盛り上げるようなことをしてみたい!と強く感じた。
札幌でシャンソンをもっと多くの人に知ってもらいたい、シャンソン歌手が「札幌に行ってみたい」と思ってもらえるようになってほしい。
本稿を綴るために資料を乱読しながら、そんな思いが強くなっていった。

本稿で敬称を略したことをお詫びします。